第191話 忘却道中
視点はとある記憶喪失の女性に移る。彼女は青白い髪をした美しい女性であった。
――マグナたちの一幕より時刻は少々遡る。
神聖ミハイル帝国領内の小さな町。その町角を一人の女性が渡る。
青白く長い髪で、顔立ちはすさまじく整っている。服は簡素な旅装束でフードを目深にかぶっている。地味な色合いの背嚢を背負い、そこからは黒くて長い何かが顔を覗かせていた。
(ようやくここまで来ました、聞いた話ではこの町から馬車で聖都ピエロービカへと向かえるはず)
女性は馬車の手続きをするため町を進んでいた。しかし見知らぬ町である。土地勘のない彼女はやがて脚を止めて辺りを伺い始める。
(どちらで馬車の手配ができるのでしょうか?誰か親切な方が教えてくれるとよいですけど……)
彼女は不安げな目で町を見回している。
あまり要領の良さそうにみえない立ち振る舞いだが、それでも幾たびも親切な人の手を借りて、はるばるここまでやって来た。しかし一番初めに出逢ったあの木こりの男性ほど親切な人はなかなかいないだろう。
彼女の不運は記憶を失ってしまったこと。
彼女の幸運は最初に巡り合ったのがとても親切な木こりだったこと。
あれは既に一か月以上前の出来事である。
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彼女が目を覚ますと、そこは山奥の粗末な小屋の一室だった。
簡素な衣服に身を包み、簡素な寝床に寝かされていた。
(……ここはどこなのでしょう?私はいったい)
ぼんやりとした思考で額を押さえる。どうにも気分が優れなかった。
しばらくそうしていると、扉のノックする音が聞こえてくる。そして髭を蓄えた恰幅の良い男性が入って来た。穏やかさと年季の入り混じった表情をしている。
「おお、目が覚めていたか。ずっと意識がなかったんでな。心配していたぞ」
「……貴方が、私を助けてくれたのですね」
彼女は自分の身に何が起きたのかをまるで覚えていなかった。それどころか自分が何者かも、今までどうしてきたのかも分からなくなっていた。真っ白な思考のままに、しばらくぼうっと辺りを眺めていた。
「すまんが服を着替えさせてもらったぞ。アンタ河に流されて意識を失ったまま漂着していたんだよ。夏とはいえ、あのままじゃ体温の低下できっと死んでいただろうからな」
「……いえ、ありがとうございます」
そうして彼女は、自分が死にかけていたことと、この男性に命を救われたことを理解した。男は木こりであり、この小屋は彼の仕事用の宿泊所であるらしかった。
彼女はパンとスープといった簡単な食事をもらった。食べながらいくつか話をして、男は彼女が記憶を喪失しているらしいことを理解した。
「……そうか、何も覚えていないのか」
「……はい、申し訳ございません。自分が何者かも、今まで何をしていたのかも思い出せないんです」
「難儀だな。しかしアンタの名前だけなら分かるかもしれんぞ」
そう言って男は、黒くて長い何かを持ってきた。それは美しい黒い鞘に納められた刀剣のようであった。抜いてみると水面のように流麗なやや湾曲した刀身が姿を現す。
「それはいったい?」
「分からん。だがアンタと一緒にこれが漂着していたんだ。そして見ろ、鞘のここに小さく文字が書いてある」
指差された場所をしげしげと見る。そこには以下のように記されていた。
『これはアタシのだ イロセス・ノッキア』
見慣れない名であった。しかしどうにも自分が書いたような気もしてくる。
「イロセス、これがアンタの名前なんじゃないのか」
「……そうなのかもしれません」
「これを見たくらいで、そう都合よく記憶は戻らんようだな。ともかくこれはアンタのものらしい、アンタに返すとしよう」
男はイロセスにその刀剣を手渡した。彼女は何か思い出せそうな気がして、しばらく手にしたそれを見つめていたが、すべてが詮無いままに時が過ぎて往くだけだった。
いつまでもこうしているわけにもいかない、旅に出ねばと彼女は思った。他ならぬ自分を取り戻す旅に。
聞けばここは神聖ミハイル帝国の領内、それもアレクサンドロス大帝国のヴェーダ州に程近い山奥であるらしかった。男はひとまず近隣の町まで同行することを申し出てくれた。
そして彼はイロセスに旅装束と、荷物入れにと背嚢を譲った。
二人は山小屋の外に出る。水平線の果てまで続く漠々たる緑が目に映る。イロセスが申し訳なさそうな表情で男の方を見る。
「すみません、服にカバンまで頂いてしまって……」
「いいさ、気にするな。あとはお金が必要だな。今は俺もあまり持ち合わせがないから、とりあえず一緒に近くの町まで行こう。そこでコイツを売って、アンタの旅費を工面しようと思う」
そう言って男は懐から宝石の付いた首飾りを取り出した。
「それはいったい?」
「死んだ妻の形見だよ。売れば贅沢しなけりゃ、一か月分の旅費と食事代くらいにはなるだろう」
「そんな、悪いです!」
「いいさ、形見が人の役に立つのならきっと妻も喜ぶだろう」
そうして二人は歩き出す。
「アンタ、何も手掛かりがないんだろう?何処へ向かう気だ?」
「そうですね……何処へ向かいましょう?」
自分の中にも答えはなかった。自分のことでありながら、彼女は聞き返した。
「まあそれなら人や物がたくさん集まる場所の方がいいだろうな。聖都ピエロービカまで行くべきかもしれない」
「ピエロービカ?」
「あそこは聖王様のおわすこの神聖ミハイル帝国の首府で、多くの人で賑わう街さ。もっともここからならアレクサンドロス大帝国のヴェーダ州や桃華帝国の方が近いんだが、アンタは西方っぽい顔立ちだ。ピエロービカの方まで向かった方がいいかもしれない。ピエロービカはこの帝国の西部にあるから、かなりの距離になるが、それでも一か月あれば辿り着けるだろう」
「……」
アレクサンドロス大帝国……
その名を聞いた時、イロセスは思わず顔をしかめた。何か思い出せるような気もしたが、何も湧いてはこなかった。
「俺は仕事があるからアンタの旅に付いて行ってやることはできない。ただアンタの旅の無事と、記憶を取り戻せることを祈っているよ」
「はい、ありがとうございます」
「道中気を付けな。アンタとんでもない美人だからな。困っている様子に付け込んで、よからぬことを考えた輩が近づいて来るかもしれん。目立たないようにした方がいい、その旅装束にはフードが付いているから目深にかぶっておくんだ」
「……お気遣い頂きありがとうございます」
そしてイロセスは旅に出た。失くした自分を取り戻す為に。
彼女は今まで多くのものを失ってきた。
両親とノクトロス公爵家、大切な仲間たちのいたイフリート盗賊団、そして幼きあの日に愛した少年……
そしてついには記憶までも失くしてしまった。
もはや何も残されていない喪失者たる彼女は、こうして最後の足掻きのような旅に出たのであった。
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およそ一か月の旅程を経て、イロセスは帝国西部の聖都ピエロービカに程近い町までやって来た。神聖ミハイル帝国はアレクサンドロスに抜かれるまでは世界一位の面積を誇っていた広大な国……帝国領内での移動に留まっていたにもかかわらずこれだけの時間を要してしまった。
馬車の手配所を探して町を往く彼女に、なにやらニヤニヤと笑った不審な男が近づく。フードを目深にかぶっていても、その美しさは隠しきれるものではなかった。
「お嬢さん、どうしたんだい?何かお困りごとかい?」
男はにやにやと舐め回すように、イロセスの顔や体を見つめている。
「……いえ、お気遣いなく。私はこれで」
イロセスは立ち去ろうとする。男は肩を掴んでくるが、振り払って逃げ出した。
「ちぃっ!」
(……もうこれで何度目でしょう?こういった目に遭うのは)
彼女はうんざりした様子で町を駆ける。そして少し距離が空いたのを確認すると立ち止まった。軽く息を整えた後、彼女は再び歩き出す。
道中手荷物の確認をするが、そこで異変に気が付いた。
(……!懐に入れていたお金がなくなってる……!もしかしてさきほどの人に盗られた?それとも落としてしまったのでしょうか?)
彼女の頭はたちまちパニックになった。あれがなければピエロービカまで辿り着けないし食事にも困るようになる。ひとまず来た道を戻りつつ、地面に視線を下ろしながら歩を進める。
逸る気持ちで探す彼女に、ふと丁寧で紳士的な男性の声が聞こえて来る。
「もしもしお嬢さん、これはもしやあなたのものではございませんか?」
顔を上げる。そこには銀色の長髪を綺麗に切りそろえた糸目の男が佇んでいる。見れば彼の手には、自分がお金を入れていた小さな布袋が握られていた。
「そ、それ私のです!」
「やはりそうでしたか。さきほど貴女に絡んでいた手癖の悪そうな男がどさくさに紛れてスっていましたよ。まあしかしお粗末なテクでした、逆にこっそりさり気なくスリ返してやりましたとも」
そしてその糸目の男は、イロセスに金銭の入った布袋を返した。
「あ、ありがとうございます。なんとお礼を言っていいやら……」
「気にしないでください。それより、馬車の手配所を探されているのでは?私もピエロービカまで行く予定なので、よろしければ手配所までご案内いたしましょう」
その男はなにやら只者ではなさそうな雰囲気があった。しかし悪い人には見えない。イロセスはこの人に頼ってみようと思った。
「ご親切にありがとうございます。私はイロセス・ノッキアといいます。失礼ですが貴方のお名前は?」
「私ですか?私は、スラ・アクィナスという者です」