第190話 リサーチ・イン・マルティア
アタナシアの調査を続行するマグナ一行。彼らはミサキの父親ハルトの更なる足跡を求めて、アンドローナ王国のマルティアを訪れていた。
ユクイラト大陸の南西部には、ヴェネストリア連邦と呼ばれる小国集合地域がある。この連邦制国家は、世界に覇を唱えんとする強大なる国家――アレクサンドロス大帝国によってヴェネストリア州として支配領域に組み込まれていた。
ところが最近になって、この情勢に変化が生じていた。かの大帝国と戦争状態にあるラグナレーク王国がヴェネストリア州を急襲して、州を支配していた第6師団”深淵部隊”を打ち倒し解放に成功したのだ。
しかし正義の神マグナたち一行にとっては、あまり関係のないことであった。
彼らが現在居るのは連邦の北西部にあたるアンドローナ王国。それも山合に位置する二十年前に滅んだ町、マルティアに居たのであるから世の情勢にあまり振り回される状況ではなかったのだ。
マルティアは謎の疫病により滅亡した町であり、現在は人っ子一人住んでいない。その疫病は未知の病であり、人間を生きたまま腐らせてゆくものだったという。驚異的な感染力を誇ったこの病は町を一夜にして滅ぼした。たった二人を残して……
その二人というのが、リピアーとトリエネである。
リピアーは当時、死の神タナトスによって不死の肉体に変えられていた。トリエネが生き残れた理由としては、そのリピアーによって庇護されたからに他ならない(リピアーの肉体にかかっている”死から遠ざかる力”は触れた他者にも伝播させられる)。
あの疫病の正体は未だよく分かっていない。しかし歴史書を紐解いても見つけることのできない病である。リピアーはあれが”アタナシア”からもたらされた可能性を疑っていた。
そこにミサキから、父親のハルトがマルティアで暮らしていた時期があった旨の情報を聞いたのだ。ハルトはアタナシア出身と目される人物であり、アタナシアを調べるにあたってこれまでさんざん調査の対象になってきた。そんな彼がこの町で暮らしていたことが発覚したことで、根拠のなかったリピアーの推測もいよいよ真実味を帯びることとなったのだ。
かくして、彼らはマルティアまでやって来た。ハルトのさらなる足跡を探り、アタナシアに辿り着く為に。そして直接の調査項目でこそないが、マルティアを滅ぼした謎の疫病についても何か分かればとリピアーは思っていた。
穏やかに流れる川の畔にリピアーとマグナの姿がある。二人並んで川べりに腰を降ろしている。
風景の中の建物はどれも朽ちかけ、陰惨な空気を醸している。ところどころに供養されないまま風雨に晒された人骨が散らばっている。降り注ぐ陽光と川のせせらぎ、吹きそよぐ風の音だけが変わらぬ美しさのままそこにあった。
「そろそろ二か月くらい経つか」
「そうね、ポルッカ公国を発ってからもうそんなに経つのね」
ポルッカ公国からマルティアまではそれなりに距離がある。マルローの自動車とてすぐに辿り着けるものではなく、移動だけでも半月以上の時間を要した。そして町まるごと全体に渡っての調査は尚更すぐに終えられるものではなく、既にポルッカ公国を発ってから二か月近い時が過ぎていたのだ。
時節は夏も過ぎ、秋となっていた。
「……結局町中を捜索したけれど、今のところ見つけられたのはこの日記だけね」
リピアーが懐から取り出したのは、古びた日記帳だった。ハルトがマルティアを離れるまでの生活について綴ったものである。これは彼が暮らしていたと思しき廃屋から発見された。これ以外に手がかりになりそうな物は見つけられていない。
リピアーはパラパラとページをめくる。マグナはそれを覗き込むようにして見る。二人の距離は異様に近い。
「しかしその日記でも、アタナシアに辿り着く方法までは分からなかったな」
「この日記に書いてあるのは、大部分がマルティアでの暮らしぶりについてだものね。食事や風習にとても感激している様子が綴られている。字がたどたどしいから、きっと現地の人に文字を教わりながら書いたんだわ。ハルトに識字能力がなかっただけか、それともアタナシア自体に文字というものが存在していないかは定かでないけれど」
呟きながらリピアーは、近づくマグナにしなだれかかった。実にさり気ない動きである。そして言葉を続ける。
「この日記から分かることは六つほどあるわ。ハルトは間違いなくアタナシア出身であり、彼はアタナシアをヒノモトと呼んでいたこと。そこでの暮らしは非常に質素だったけれど、喧嘩や諍いはほとんどなかったこと。アタナシアから出ることは禁忌であり、そもそも外の世界が存在するということすら秘されていたこと。三種の神器はアタナシアにとって重要な神器であり、ハルトがそれらを持ち出したこと。ハルトはこの町で結婚して、アヤメという娘をもうけていること(それがのちにフェグリナの偽者となる)。そして日記の最終日付が、町が滅亡する三日前であり、そのことからやはり町を滅亡させた疫病はアタナシアからもたらされた可能性が高いということ」
疫病はおそらくハルトを町ごと滅ぼす為のものだった。しかし気づくきっかけでもあったのか、当の本人と家族だけは難を逃れた。そしてその後は従前の調査で判明している通りに、彼はフランチャイカ王国に移り住み、そこで新たな妻を持ってミサキをもうけたのだ。
「正直どれも既知の情報か、今までとっくに推測していたことばかりだな」
「そうなのよね。結局アタナシアとは何処に存在するのか、どうすれば辿り着けるのか、肝心な情報は得られていない。せめて三種の神器をどうしたらいいのかぐらいは分かるとよかったのだけれど」
三種の神器は”創世の神話”に登場する為、当初からアタナシアに到達する上での重要な手掛かりとみなされていた。今回ハルトの日記にも草薙剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉が出てくるので、三種の神器がアタナシアへの手がかりであるという点がより深まった。しかし分からないことが二つある。
一つは三種の神器の行方についてだ。八咫鏡だけは変わらずヴァルハラ城の宝物庫に収められているらしいが、残り二つの所在は盗賊団に盗み出されて以降、杳として知れなかった(これに関してはアリーアが調査中である)。
そしてそれらを三つ集めたところで、どうすればよいのかが分からない。まさか三つ集めた途端、瞬間移動のようにしてアタナシアへ招待されるわけでもないだろう(それならばアヤメがとうに到達しているはずだ)。
結局、この町で得られた情報は既知の情報や推測の裏付けばかりに留まり、進展性のある新しい情報にはまったく巡り逢えていなかった。
リピアーは日記をしまう。そして目を閉じ、ごく自然な所作でマグナに向けて顔を上げた。彼もまた慣れたように目を閉じると、そっと顔を寄せて唇を重ねた。
もはや習慣化した営みが終わると、二人は腰を上げる。
「この町もそろそろ出発して、別な調査をした方がいいかもしれないわね」
「それでこの町に見落としがあったりしたら嫌だけどな」
「そうね、それを警戒しているからこそ時間をかけて調査しているのだけれど……」
リピアーはここで言葉を区切ったが、マグナには本当は彼女がこの町を離れたがっていることが解かっていた。当然だ、二十年前、この町がまさに疫病で滅んでゆく様を彼女はその目で見ている。本音を言えば、この町には二度と来たくなかったはずだ。
それどころか、この町に来ることになった都合上、トリエネに自身の出生の秘密を告げねばならなかった。彼女もまたマルティアの出身であり、彼女の中には町を滅ぼした疫病が今でも眠っている(彼女は当時一歳にも満たない赤子だったので、その頃の記憶はない。また彼女の中の病原菌はリピアーの”死から遠ざかる力”によって失活させられている)。
彼女の幸福を願うリピアーは、そのことについて頑なに口を閉ざして来た。真実を告げ、彼女を伴ってこの町まで帰って来ることは、元来リピアーにとって何から何まで不本意だったはずである。
それでもリピアーはこの地に戻って来た。
――他でもない、すべてはドゥーマを出し抜くため。
リピアーの穏やかさは、他ならぬ彼女の強さによって支えられている。マグナは彼女と出会ってから、幾たびもそれに気づかされては、尊敬の念を抱いて来た。そして己の至らなさに幾たびも歯噛みした。
滅びた町で憂う彼女に、かけるべき相応しい言葉が、いまだに彼には分からない。
◇
マルティアのまた別なところでは、トリエネとマルローの姿があった。すぐ近くにはミサキも居る。
彼らは廃教会らしき広い建物の中を探索している。既に一度訪れた場所であったが、改めての調査であった。
「駄目だなあ、手がかりなんて全然ねえぞ」
「うーん、もうこの町での調査は無意味なのかなあ」
トリエネがぼやきながら、建物の内部を見渡している。
「あー、もうずっとスイーツ食べてないや……エクレール・オ・ショコラが食べたいなあ」
「そうだな、俺も最近甘いものにはご無沙汰だし、久々に食べたいぜ。フランチャイカ王国のよく行ってた店なんだがよ、美味いフロランタンを出すんだぜ」
「へーっ!マルローにも行きつけのスイーツショップなんてものがあるんだね!」
スイーツの話題に乗ってくれたので、トリエネはご機嫌に返した。
「いや正確には、俺の行きつけの店のオキニのねーちゃんの行きつけの店だな」
「……」
やはりマルローか、と目を失望の色に変じる。彼の行きつけの店とやらがどのような店であるかはもはや聞くまでもない。
失望ついでに、目線を下にやる。首に提げたネックレス――”ピッグマリオンの秘石”の緑色部分が残り半分近くにまで減っていた。
「あー、そろそろ半分切りそう……またリピアーに補充してもらわなくちゃ」
これは量産型の神器であり、神の能力をストックしておける代物である。この中にリピアーの”死から遠ざかる力”が込められているので、トリエネは体内に疫病を宿しつつも発症して死ぬことがない。
ただ時間の経過とともに力は消費していくし、怪我などを負ってその修復に力が使われてしまえば消費はより早くなる。トリエネは決して油断のできないこのような生き方を物心ついた頃から続けていた。その真相について知らないままに。
ようやく真実を知ったトリエネは、自分の体に危険極まりない病魔が眠っていることを自覚し、度々悪寒を感じるようになっていた。
それをマルローが支える。
不安そうな顔つきのトリエネに近づくと、右手を彼女の背中に回し、左手で彼女の手を握る。
「どうした、不安か?」
「うん……でもあんまり実感がないのよね。自分の中にとんでもない病気が眠っているなんて。今までなんともなく暮らしていたから。それもリピアーが色々と気を回してくれていたからなんだろうけど……」
しんみりと呟く彼女の耳元に、マルローは優しく囁きかける。
「そうさ、お前は独りじゃない。支えてくれる奴らが何人も居るんだ。リピアーは勿論、俺やマグナだって居る。心配なんか要らねーさ」
「……あの、どさくさに紛れてお尻触らないでもらえますか?」
マルローはいつの間にか背中に回した手の位置を下げて、トリエネの尻を撫で回していた。彼女は抗議の声を上げるが、まんざらでもない風だった。
「違うんだよ、トリエネ。俺の手が尻を触りに行ったんじゃない。その魅惑的な尻が、俺の手を吸い寄せちまったのさ」
「……意味分かんないし」
そう言ってトリエネは、はっとして建物の隅の本棚が並んでいるエリアに目を向けた。八歳というこのような情事をみせるにそぐわない年齢の少女がすぐ近くに居ることを思い出したのである。
その少女、ミサキは実に興味深げな眼で尻を撫でられるトリエネを見つめている。そしてマルローはそのことを自覚しながらも一切撫でる手を止める素振りをみせない。むしろトリエネの後ろ姿がミサキの方に向くように回し、見せつけるようにするほどのタチの悪さであった。
流石にトリエネもいささか怒気をはらんだ声を上げる。
「もう、やめなさいよ!子供がいるんだからさ。ミサキちゃん、貴女は将来こんな男にひっかかっちゃダメだからね!」
「……トリエネさんとマルローさんて、すごく仲がいいんですね」
ミサキの言葉は実に正鵠を得ていた。
結局この日も、新たな手掛かりは得られなかった。
五人は町中のひとところに集合する。この町での調査もそろそろ潮時か、そんな空気が一同の中に充満していた。
「今日も成果ゼロだったわ。そちらは?」
「こっちも同じだぜ。もうこの町で調査してても意味ないんじゃねえか?」
マルローの返答を受けて、リピアーは考え込むような顔をする。
「やはりそうかしらね。でも今度は何処で調査をするべきか、それすらも見えていないのが実情だわ。せめて三種の神器の使用方法か、もしくはアタナシアの所在地についてなにか分かればよかったのだけれど……」
「あ、そうだリピアー、これ減ってきたから補充してもらえない?」
トリエネが首に提げたネックレスを外して、リピアーに渡す。彼女はそれを受け取ると、握って力を込める。ネックレスの宝石部分に緑色が満たされてゆく。そしてそれをトリエネに返した。
「はい、これでまた半月はもつはずよ」
「わーい、ありがとうリピアー!」
笑顔で受けとるトリエネ。しかしその笑顔の裏には大きな不安と恐怖が渦巻いているはずだった。彼女もまた、育ての親のリピアーに似て強かな心の持ち主だった。
マグナもマルローも、この母娘の強さには日々感心させられるばかりだった。
だからこそ彼女たちの想いを叶えてやりたかった。ドゥーマを出し抜きアタナシアへ到達する――それは世界を守る所業であると同時に、トリエネの中に眠る病の究明に繋がるかもしれないのだから。
トリエネがネックレスを付け直している内に、リピアーがはっとしてこめかみに指先をあてがった。マグナもマルローも、もはやこの動作には見慣れていた。アリーアからの連絡が来たのだ。
現在ミサキを除く全員がアリーアの”眼”になっている。彼らの視覚・聴覚を通してアリーアも状況を把握できるし、脳内に伝達メッセージを送ることもできる。それが来たのだろう。
アリーアには未だ所在不明の残り二つの神器の行方を調べてもらっている。それが進展したのかもしれない。
「もしもしアリーア?どうしたのかしら」
【大変よリピアー!大陸の東方にアタナシアと目される空に浮かぶ島が現れたの!そして何者かが草薙剣を神聖ミハイル帝国領内に持ち込んだ!そしてドゥーマが……!】
アリーアの声音は非常に鬼気迫るものだった。
それを聞いたリピアーは、表情を険しくゆがめた。