第177話 忘却のレーテー①
アンドロクタシアを倒し梅族の解放に成功したラヴィア。いよいよ最後の部族、杏族の解放に向かう。
アンドロクタシアを倒した後、ラヴィアは梅族の人々を海岸沿いのひとところに集めた。巨大な百足が宙を揺蕩い、紅い聖鳥が空を駆けていたのだ、街中の人々が表へ出ていたので集めることにさほどの労はなかった。
人々はみな混乱に満ちた表情で様子を伺っている。アンドロクタシアが死んだことで、突如”殺人能力”を失ったのだ。今までの当たり前が、日常が崩れていた。
ラヴィアは白い棍を片手に付きながら、手頃な岩の上に立ち、民衆を見下ろしている。その姿は威厳があるとも、威圧的とも取れた。
「皆さん、この梅族隔離区域を支配していたアンドロクタシアは倒しました。あなた方はもはや自由の身です。殺人能力を持たされ、抗争に明け暮れる必要もなくなりました」
人々の表情は一様ではなかった。当然、喜色を浮かべる者もいた。男性や見た目の良い女性を中心に。しかし……
「これからは争うのではなく、協力し合い豊かな社会を目指してゆきましょう。上も下も無く、皆同じ立場として生きてゆくのです」
「ふざけるなっ!」
叫ぶ声が聞えた。醜女の一人が抗議の声を上げていたのだ。
「余計なことをしやがって!私たちがコイツらと同じ立場だと!」
「そんなこと認められるか!」
「誰が解放しろなんて頼んだんだ!」
「……」
醜女たちが続々と怒りを露わにしてゆく。
そして彼らの真なる醜さが何であるかをひしひしと感じ始めた。
ラヴィアは表情を変じそうになり、こらえた。ともすればアンドロクタシアの言っていた通りに思えてきたのが我慢ならなかった。
彼らの立場に立って見れば無理もないことではあった。この醜女優位社会になってどれだけの時が経っているかは定かではないが、おそらく騒いでいる醜女たちの多くが、生まれた頃からそのような社会であったのだろう。今までの当たり前が、崩れぬはずだった日常が崩壊するのは混乱や抵抗を生むのは必然。自身にとって有益な社会であったなら、それはなおのことである。
しかし従前の社会は歪な構造以外の何物でもない。あのまま認めてゆけるはずなどなかった。
ラヴィアはジロリと眼下の民衆に睨みを利かせると、毅然として言葉を続けてゆく。
「あなた方は今までの社会をおかしいとは思わなかったのでしょうか?一部だけが偉ぶり、それ以外は辛酸を嘗め続け憂き目に晒されていたのですよ?人の命とは、尊厳とは、みな同じように尊重されるべきはずです」
「外から来たお前に何が分かる!」
「私たちが武力を失ったら、他の見た目の良い女ばかりが良い思いをする社会になるだけだろう!」
「男どもも昔のように踏ん反りがえり出すだけだ!纏足が流行っていた昔のように!」
「同じ立場だと!私たちばかりが低い立場になるのが目に見えている!」
「余所の部族のくせに、しゃしゃり出て来るんじゃない!」
抗議の声は止まらない。いや、より激しいものへと変わっていた。
ラヴィアはいよいよ大きく溜息を吐くと、その表情をより険しく変じた。これは解放者ではない、新たなる支配者の顔だった。
「ええ、そうですね、たしかに私は余所の部族です。ですから私はあなた方の誰が偉いのだとか、誰が偉くないのだとか、まったく、これっぽっちも知りませんし興味もありません。みな”一様”です。一様なのだから、一様に、同じように生きてください。私から言えることは以上です。では」
ラヴィアはそう言うと岩を降りてその場を立ち去ろうとする。傍らに控えていたユンファ、パンサン、フォンインも続く。
立ち去り際に振り返り、ことさら警告の色を込めた声音で伝える。
「次に来た時に争っていたら、ただでは置きませんからね」
そうして杏族の姫君は立ち去った。
心の中には迷いが生まれていた。やはり、ただ尊重してあげるだけでは平和な社会など実現しないのか?なんらかの威圧が必要なのか?結局、圧政も善政も強力な権威と武力の元でなければ成し得ないのか?
いずれにせよ彼女は既にうんざりしていたので、これ以上下手に出てやるつもりはなくなっていた。なにより、人とは……社会とはどうあるべきか?それは自分ではなく、正義の神が決めるべきことだと思っていた。
四人が立ち去った頃、上空に神聖なる煌めきが起きる。青い光に包まれて、梅族の守り神――青龍が復活を果たした。
人々はみな息を飲み、その偉大なる龍にひれ伏した。
【親愛なる我が子らよ。汝らは長らく道を違えていた。身に余る力を与えられ、終わりなき抗争に身をやつしていた。しかし社会の歪さは何も、アンドロクタシアの支配が始まる前からあっただろう】
厳かな声音をみな真摯に拝聴している。それはさきほどまで騒いでいた醜女たちも同様であった。
【これより汝らは新しき道を往くのだ。男も女も、老いも若きも、愚鈍も利口も、貴賤や美醜といった隔てもなく、皆が同じ人間であることを忘れてはならぬ。形に差異こそあれど、その魂にまで差はないのだからな……】
人々はみな、一様に傅いた。
◇
あれから一時間ほどが経った。既に陽は沈み、夜の闇に包まれている。
梅族隔離区域の外れにラヴィアたちの姿があった。彼女はさっさと此処を出ようと思っていた。居心地の悪さもそうだが、自分が居ることが良からぬ影響を生むことを避けたかった。
「しかし夜は何処で過ごすつもりだ?」
「その辺の適当な海辺で魚でも採りましょうか」
パンサンの問いに、振り向かず簡素に答えた。
一行は最低限武器の調達だけ済ませて、街を後にしていた。パンサンの背には新しい槍がある。そしてユンファもやや小振りな槍を背負って、ヨタヨタと歩いていた。
「大丈夫か?ユンファ」
「はい、なんとか」
「しかしお前も戦うつもりなのか」
「勿論です、せめて自分の身ぐらい自分で守らないと。ずっとラヴィア様やパンサンさんにご迷惑をおかけするわけには参りません!」
アンドロクタシアが変貌したあの時、咄嗟にパンサンがかばってくれなければユンファは死んでいたかもしれなかった。
彼女は自身も戦わねばと、そう強く痛感した。体力も、戦いの心得もないが覚悟を決めざるを得なかった。いや、旅に付いて来た時点で覚悟自体はとっくにできていた。
それでもパンサンからしてみれば、彼女が戦うというのはやはり不安だった。しかしその意思を尊重したくもあった。
「そうか、だが無理はするな。できないことはできないと言え。不安な時は誰かを頼れ。俺たちは何も、独りで旅をしているわけではないのだからな」
「はい……ありがとうございます、パンサンさん!」
ユンファはその痩身に見合わず、力強く答えた。
「いやー!カッコいいねえ、パンサン!」
二人の少し後ろを歩いていたフォンインがからかうように言った。
「……というか、なんでお前がここにいるんだ?」
「別にいいじゃない。これから最後の部族――杏族を解放しにいくんでしょ?こんな面白いこと見逃す手はないでしょっ!」
フォンインは愉快そうに笑っている。物見遊山で旅をしているのではないのだぞ、と言いたい気持ちに駆られながらも、パンサンには追い返すつもりはなかった。
彼自身も、あの杏族の姫君の行く末を見てみたい――そんな興味本位で旅に付いて来たのだから。
ただ、覚悟だけは問う必要がある。
「何が面白いだ、これから行く先でも怪物との戦いが待っているんだぞ」
「勿論分かってるさ。だいじょーぶ、僕もできる限りのことはさせてもらうよ」
そう言って、背負っていた矛を示すように手をあてがった。
「そうか、ならば俺から言うことはもはや何もない。よろしく頼むぞ、フォンイン」
「うん!よろしくねー、パンサン!」
和気藹々の声を背中に聞きながら、杏族の姫君は歩き続ける。
◇
そして海辺で野宿し夜を明かした。
明くる日、四人はいよいよ北の最果ての地――杏族の隔離区域へと赴く。しかし玄武に聞かされた場所は、梅族の隔離区域からは遠く隔たった遥かなる土地であった。櫻族―李族間の移動も、李族―梅族間の移動も距離は離れていたが、それよりも遥かに長い旅路になりそうであった。
無論、徒歩はあり得ない。しかし頭数が四人になったので、朱雀の背も手狭だろう。
「青龍!出て来てくれますか?」
【承知した】
ラヴィアの声に応え、上空に青龍が姿を現す。
「四人だと朱雀さんでも手狭だと思うので、杏族の隔離区域までは青龍さんの背に乗って向かいたいと思います。よろしいでしょうか」
【ああ、構わぬぞ】
そして青龍は乗りやすいように地面へと降り立った。
【気を使ってくれてありがとよ嬢ちゃん!青龍の旦那は聖獣の中で一番図体がデカいから、四人以上で乗っても楽勝だろうぜ!それに俺よりも高く飛べるしな!】
【……お前ほど速くは飛べないがな】
青龍と朱雀の会話を聞きながら、四人は龍の背に乗った。黒、白、紅、碧の四色が龍の背で風に揺れている。
「いやー!龍に乗れる日が来るなんてねー!感動だよ!」
フォンインは実に楽しそうにしていた。彼らの準備が終わったことを確認すると、青龍はその長い身を浮き上がらせて大空を優雅に飛行し始めた。
「……次はいよいよ杏族ですね」
【そうじゃな、姫よ。お主の同胞たちが暮らしている場所じゃ】
ラヴィアの呟きに玄武が反応する。
当然彼女はブリスタル王国の生まれなので、これから向かう杏族隔離区域には思い出も何もない。しかし何故だか、昔懐かしい故郷に帰るような、どことない郷愁の念のようなものも感じていた。
記憶はなくても、魂が反応しているのだろうか?
杏族の隔離区域でどのような出逢いが待っているのか、ラヴィアは密かに思いを馳せていた。
しかし空を駆け、辿り着いた光景は思わず失望に声を上げるほどだった。
――そこは建物は荒れに荒れ、およそ人が暮らしているようには見えない廃墟であったのだ。
四人は廃墟に降り立ち、辺りを伺いながら歩き回る。もはや人目を気にする必要もなさそうなので、頭は布で覆っていない。
「ひどい荒れようだな。生きている人はいるのか?」
ここまで荒れ果てていては、生存者などいないのではなかろうか?そう思いもした。
しかし邪神エリスは人間の負の感情を集めている。全滅させてはいないはずだった。生存者を根気よく探し続ける。
そして見つけたのだ、道端で野草を集めている男性を!
夜の闇のように黒い髪をしている。確かに自分の同胞なのだと、ラヴィアは感慨深く思った。
「あのー、もしもし」
「うわあっ!」
突然声を掛けられた男は飛び上がって驚いた。
「突然すみません。私たちは旅の者なんですけど、この地で何が起きているのかを教えていただけないでしょうか?」
「へ、何がって、そりゃ俺が聞きたいぐらいだが……」
男の声も表情も、混乱しているようだった。
「……?あなたも状況が分からないのですか」
「そうだよ。気が付いたらこんな知らない場所にいるし、自分がどうしてきたのかも分からない。とにかく腹が減って仕方ないから、食えそうな野草を探していたんだ」
そうして男はさして取り合わず、いそいそと草を集め始めた。
知らない場所――?
彼ら杏族はずっとこの地に閉じ込めれられて生きて来たはず。むしろ此処以外の土地を知らないはずであった。
しかしこの男性は迷い込んで来た余所者のように動きが覚束なく、要領を得なかった。ラヴィアはこれ以上問い詰めても得られる情報はなさそうに感じて、その場を後にした。




