第173話 麻婆豆腐は天の食物なり
ディスノミアの支配から解放された李族隔離区域。豆腐を手に入れたラヴィアは渾身の麻婆豆腐を披露する。
こうしてディスノミアの支配は終わり、李族の人々は新たな社会に向けて動き出すこととなった。
悪事は当然のように裁かれ、皆が時に支え合い時に競い合って、健全に成長してゆく社会――それはパンサンを含む多くの者によって希求されていた未来であった。
ひとまず王のような単独の代表者が就くことはなく、民衆支持の多い数人の代表者が合議制にて採決するような仕組みを取るらしい。直接民主制に根差したデモクラシーの嚆矢である。
商売が許されるようになり、店先には笑顔で品を売る人々が目に映る。今までは作った品は不当な方法でしか流通させられなかった。真っ当な流通は真っ当な評価を生み、やがては生産者・職人の意欲をも刺激していくことだろう。
◇
ディスノミアの死から翌日。
ところ変わって、ここはパンサンの自宅――いや、正確には新たに彼の自宅となった家屋である。
大通りからほどほどに離れた活気と静寂の交わった場所だ。今までは家を持つことも親子が一緒に暮らすこともできなかったが、改めて世帯ごとに家が与えられることとなった。何処を誰の家にするかは、規模や位置に家族構成……様々な事情を勘案して決めるのだそうだ(どの家も誰の所有でもないのでいわゆる大家のようなものは存在せず、家賃や地代のようなものは当面ないらしい。羨ましい限りである)。
パンサンに関しては独り身であること、ディスノミア打倒の功労者の一人ということもあり、優先的に家屋を選ばせてもらえた経緯がある。
こうして彼は己の城を手に入れたワケだが、今この場に家主の姿はなく、ラヴィアが独りでお茶を飲みながら寛いでいた。
(今日中には出発しないといけませんね。ゆっくりしたいのもやまやまですが、ディスノミアはリーモスの死を知っていました。私が既にふたりを始末していることを、エリスや他の眷属も気付いていることでしょうし、ウカウカしていられません)
そうして彼女は気だるげな外面に不釣り合いな、内面の憂いに揺られていたのだが、それを打ち破る喜色に富んだ高い声が聞えて来る。
「ラ、ラヴィア様っ!」
それは嬉しそうに小走りで駆けて来るユンファであった。両手で何やら木桶のようなものを抱えている。見れば水に入れられた豆腐であった。
「これは……豆腐じゃないですか。どなたかから貰ってきたんですか?」
「豆腐という食べ物なんですね!救い主様に是非って渡されて、すごい白くてぷるぷるで、見たこともない食べ物で、私うっかり食べちゃいそうになったんですけど……がんばってこらえて、持って帰って来ました!」
「そうですか、偉いですね。よしよし」
ラヴィアは適当に応対しつつ、彼女の頭を撫でた。塩対応というよりは、ラヴィアは心を許した相手には気を使わなくなるきらいがある(ただしマグナを除く)。
にこやかな笑みを浮かべて豆腐を眺めているユンファ。その背後から、パンサンもまた何かを持って近づいて来る。
「ふ……豆腐を手に入れたようだな、ラヴィア」
「パンサンさん……!いつの間に」
「豆腐と聞いて黙っていられなくてな」
見れば朱色と黄土色の混じった色彩の、小さな漆塗りの壺であった。
「ラヴィア、豆腐を料理するつもりなら、お前にこれを授けよう」
「……!これは……」
蓋を開けてみると、赤褐色のペースト状の調味料が入っていた。この刺激的かつ芳醇な香りに彼女は覚えがあった。
「……豆板醤ですね」
「ふふ、知っていたか、さすがだなラヴィア」
続けて懐から小さな布袋を取り出す。
「そして花椒もあるぞ!」
「……!」
開けてみると中には乾燥させた花椒の実が入っている。
揃った材料でラヴィアはとある料理を連想する。どうやらパンサンも大いにそれを作るように仕向けているようである。
「豆腐、豆板醤、そして花椒……ここまで揃ったらもうアレを作るしかありませんね……!」
「ああ、アレだな……!」
「……?アレとはいったい何なのでしょう?」
首をかしげるユンファ。
ラヴィアとパンサンは二人揃って、振り向きつつ声を合わせる。
「「麻婆豆腐です(だ)!」」
◇
ラヴィアは王都アースガルズに滞在していた頃、好飯販という桃華料理店でお手伝いをしていた。いや、最終的には仕込みから調理補助といった分野までこなしていたので、完全に従業員と呼んで差し支えない存在だった。
それまでお屋敷暮らしの貴族令嬢であったラヴィアには調理技術などなかった。それが店を手伝うようになってからは、仕事の合間に料理を教わるようになり、プロ……という域には至らないが、日々の食事を自分で拵える程度には熟達していた(そしてそれは盗賊団で周囲に気に入られるのにも一役買った)。
店主の柳美麗はラグナレーク王国の生まれだが、両親は桃華帝国の出身であるらしい。店のメニューについては一通り教わっていたが、それでもあの店で扱っていた料理は数ある桃華料理の派閥の一つにすぎないらしく、全土を見渡せば途方もないほどのレパートリーがあるのだという。
とはいえパンサンがあからさまに仕向けている料理についてラヴィアは知っていたし、メイリーの両親は内陸の地域出身だったという話を聞いたことがあった。もしかしたらこの地域の生まれだったのかもしれない。であれば、ラヴィアは奇しくも彼を喜ばせられる料理を最初から知っていたのだ。
「パンサンさん……残念ですがこれだけの材料では麻婆豆腐には至れません」
「ふ、お前の言いたいことは分かるぞラヴィア。鶏ガラだろう?」
「はい。ですので鶏ガラ、それと葱や生姜といった香味野菜も欲しいです」
「任せろ!作っているところを知っている、全速力で調達に向かうとしよう!」
意気込みつつパンサンは表へ駆け出していった。
ちなみにディスノミアの支配こそなくなったが、長らく貨幣の存在しない社会だったので物を手に入れる手段は今のところ物々交換が主である。対価となる物がない場合は労役を提供するというのもある。ただ彼の場合は功労者ということで、きっと気前よく分けてもらえるだろう。
「ラヴィア様、麻婆豆腐とはどんな料理なのでしょうか」
「豆腐を香辛料、豆の発酵調味料、鶏ガラスープ等で炒め煮した辛味と旨味の溢れる料理です。まあ百聞は”一食”に如かず、食べて体感してください」
パンサンを待つ間、軽い無駄口を叩きながら火の支度と調理器具の準備に取り掛かった。併せて宅内に使える食材がないかの物色も始めた。
そうこうしている内にパンサンが戻ってくる。彼は小脇に長葱と生姜の入った袋を抱え、そして両手には生きた鶏を抱えていた。
「戻ったぞ」
「鶏ガラというか、鶏そのものが来ましたね」
「いや、これには考えがある。豆腐以外の具材も必要だろう?だが牛の肉はちょっと入手が難しくてな」
「なるほど、鶏ガラついでに鶏肉を……麻婆豆腐の具材としてはマイナーですが、まあ問題ないでしょう。ではこの鶏さんを解体しましょうか」
鶏を掴み、解体用の鉈を手にして表へ向かう。
「ラヴィア様、私も手伝いましょうか?実は兎さんの解体は得意なんです!」
ユンファが近づいて来る。自分も何か手伝いをしたいらしかった。
「鶏は?」
「……したことないです」
「じゃあ横で見ててください」
「はい」
こうして二人の少女に見守られながら、鶏は天に召され食材となった。解体の詳細については筆が進まぬので省略させていただく。
大鍋に水を入れ、火にかけグラグラと煮込む。中には薄い布袋に入れた鶏ガラ、そして別の布袋に入れた葱と生姜が入っている。
「しかしお昼時までもう三時間もないが、十分にダシを採れるものなのか?」
「ちょっと心許ない時間ですがよしとしましょう。麻婆豆腐の真価は麻辣であって、鶏ガラは主役ではないですからね」
「ふふ、そうか、麻辣か……!お前の言う通りだな、ラヴィア」
楽しそうに唸るパンサン。その横でユンファは聞き慣れぬ言葉に首を傾げるばかりであった。
スープを煮だしている間、ラヴィアは鶏肉の精肉を終えると、別の作業に移る。葱と生姜、そして唐辛子を刻んでいる。唐辛子は乾燥させたもので、初めからこの家に有ったものだ。
「ラヴィア様、何でしょうか?この赤い果実」
「ユンファちゃん、唐辛子知らないんですか」
きょとんとした目で、赤く細長い果実を見つめている。
「ユンファ、それは俺たち李族の料理には不可欠な食材だ。その果実なくして俺たちの魂は満たされない……!」
「そ、そんなに美味しいものなのですか!」
「ああ、とても美味い、病みつきになるぞ!」
彼は嘘は言っていない。しかし肝心な情報を伏せている。
「ラ、ラヴィア様、それ、ちょっと食べてみてもいいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
そう言って刻んだ唐辛子の破片を渡した。何も知らないユンファがどういう反応を見せるのかが気になったので、ラヴィアも意地悪く情報を伏せる。
そして唐辛子を口に含んだユンファは跳び上がった。
「……っ!い、いひゃい、口の中がいひゃいれすう!」
ユンファは驚きで口を押さえる。こんな刺激の強いものとは思っていなかった。黙っていたことに恨めし気な目を向けそうになるが、とたんに彼女の目力は消え、意識は舌の方に向かい始める。
「……あれ?痛いけど、なんだか甘くて美味しいような」
「気付いたか、ユンファは見込みのあるやつだ。唐辛子はとても辛いのでそれに隠れがちだが、実は多分に甘味と旨味を含有している。刺激と味を兼ね備えているからこそ料理の味付けのベースとして、我々の地域では非常に多用されるのだ!」
「もうっ!辛いなら辛いって言ってくださいよぉ」
「ハハハッ、すまんすまん」
二人の楽し気な会話を聞きながら、ラヴィアは既に別の作業に移っていた。浅い鍋に油を満たし、刻んだ唐辛子、葱、生姜を入れて火にかける。
「ラヴィア様、何をしているのですか?」
「辣油を作っているんですよ。こうやって胡麻の油に(焙煎していないいわゆる太白油である)唐辛子の辛味と香りを移すんです。香味野菜も一緒に加熱するとより美味しくなりますよ」
「気が利くなラヴィア。豆板醤、花椒、辣油……三つが揃いし時、すべては始まるのだ!」
「よ、よく分かりませんが、重要なものなのですね……!」
ある程度加熱したところで火力を弱めていく。これは焦げ付きを防ぐ為である。充分に香りが移ったら、加熱していた具材を取り除く。
辣油づくりを終えたら、今度は肉を粗めのミンチに加工しておく。そして鶏ガラスープができる頃、いよいよ麻婆豆腐の調理が始まった。
浅い鍋に油を敷くと、葱や生姜の香味野菜を炒めて香りづけをする。それが済んだら香味野菜を除き、肉を入れて軽く炒めておく。
「ラヴィア、ユンファは辛味には不慣れだろう。こいつも使ったらどうだ?」
調理中、いつの間にか姿をくらましていたパンサンが戻って来た。
「これは……甜面醤ですね」
「ああ、それを使い、豆板醤を減らせばマイルドに仕上がるはずだ」
「でもそれではパンサンさんが満たされないのでは?」
「お前が辣油を作ってくれたから大丈夫だ。自分が食う分に大量投入させてもらおう」
「それもそうですね」
そして頃合いを見計らって適量の鶏ガラスープと豆板醤、甜面醤、豆鼓醤の三種の醤に切った豆腐、砕いた花椒、辣油、そしてとろみ付けに多少のカタクリ粉(実際は芋のでんぷんである)を加えて煮込んでいく。
出来上がった料理を器に盛り、彩りの刻み葱を散らして食卓に並べる。お好みで辣油と粉に挽いた花椒をどうぞ。
「おおっ!麻婆豆腐を食えるのは何年ぶりか!」
パンサンは感激に涙ぐんでいる。
「これが麻婆豆腐……」
ユンファは未知の料理に興味津々だ。
「さあ、熱い内に食べましょう!」
そしてラヴィアの号令の元、ご機嫌な昼食が始まった。
パンサンは親の仇のように辣油と花椒を追加すると、それを掻きこんでいく。
「くうぅっ、美味い!これだこれだ!」
実に愉快そうな声で食事を続ける。
「美味しく仕上がって良かったです」
それでも自分の師匠にはまだまだ及ばないな、とラヴィアは思った。
そして二人は、ユンファがやけに静かなことに気が付いた。
見ればユンファはレンゲを握りしめたまま、涙を流して身を揺さぶっていた。
「どうしました、ユンファちゃん?まだ辛かったですか」
「ラヴィア様……なんなんですかぁ、これぇ……」
声が震えている。これは感極まった涙だと気が付く。
「お、美味しすぎます、こんなに美味しいものが、この世に存在していいのでしょうか……天の、天の食物ですぅ……」
そうしてユンファは泣き始めてしまった。
流石にあの飢餓地獄から渾身の麻婆豆腐へは、食生活向上のハードランディングが過ぎたようであった。ラヴィアはただ黙ってユンファを抱き締める。
ひとしきり落ち着いた頃、悪魔のささやきを聞く。
「ユンファ、この辣油と花椒をもう少し入れてみろ。お前は麻婆豆腐の真価を知るだろう」
そうして手渡された香辛料をユンファはおそるおそる投入する。食べてみて目を見開いた。
「美味しい!香り高いですね……!唐辛子でヒリヒリして、あれ?でもビリビリもするような……ヒリヒリ?ビリビリ?」
「そう!それこそが麻辣だ。唐辛子のヒリヒリが辣味、花椒のビリビリが麻味。この二つを利かせることこそが醍醐味なのだ!」
「ヒリヒリ……!ビリビリ……!何だか楽しいです!」
そしてユンファは弾けるような笑みを浮かべて、
「食事って、こんなに美味しくて、楽しいものなんですね!」
と輝くばかりの声音で言った。
その楽し気に微笑む姿に、思わずパンサンはドキッとした。
そしてラヴィアも娘を慈しむ母、妹を想う姉のような優しい笑みを浮かべるのだった。