第171話 不法のディスノミア②
ディスノミアによる支配の実態を語るパンサン。そしてラヴィアは打倒ディスノミアの決意を新たにする。
二人は再び布で髪を隠すと、パンサンに連れられて街を歩き始める。
やがて一軒の家屋に立ち入ることとなった。気になったのは、彼の足が慣れたように自然とその場所に向いたとかではなく、家々を物色するように見定めたうえで決めたところだった。
つまり、自宅に戻って来たという様子ではないのだ。
「……!」
ラヴィアとユンファは二人して驚いた。家の中に見知らぬ男性がいたのだ。顎髭を蓄えていて、中年ぐらいの齢に見える。男は囲炉裏に座っており、そこでは野菜や肉が鍋で煮込まれている。
パンサンの知り合いかとも思ったが、とくに言葉を交わすこともなく彼は男の反対側に座った。二人の様子といい、ここに来るまでのいきさつといい、この家が彼の自宅ではないことがもはや明らかだった。
「ほら、お前たちもそこに座ってくれ」
「……」
二人はとまどいながらも、男とパンサンの間に二人並んで座り込んだ。
パンサンは土間近くの炊事場から食器を見つけてくると、煮えている料理をよそって二人に渡した。そして自分の分をよそうとガツガツと食べ始める。
(これはいったいどういうことでしょう?この家はパンサンさんの自宅ではない?では何故勝手に上がり込んで、この男性が作っていた料理を勝手に食べているのでしょうか?)
「ラ、ラヴィア様!これ、美味しいです!」
疑問にふけるラヴィアを余所に、ユンファは食欲の方が優先されたのだった。
(……この娘もすっかり元気になりましたね)
ラヴィアはどこか愛おしくなり、ユンファの頭を撫でる。彼女は幸福そうに顔をほころばせながら、忙しなくレンゲを動かしている。
しばらくして、パンサンが口火を切った。
「……この李族隔離区域だが、現在はディスノミアの力によって支配され、”逆秩序”の状態にある」
「逆秩序……?それはどういうことですか」
「ここではな、本来なら戒められるべき悪事ばかりが認められ、その逆は罰せられるんだ」
「……!」
得心がいった。それなら今まで疑問に思ってきたことのすべてに説明がつく。
この家は明らかにパンサンの持ち家ではないのだが、そもそも”不法侵入”という体裁を取らなければ家屋に入れないのであれば説明はつく。今の食事も客観的に見れば盗み食いだが、悪事だけが認められるのであれば道理だ。
「この家はパンサンさんの自宅というわけではないですよね。”不法侵入”じゃないと建物に入れないからですか」
「そういうことだ。だから当然、この李族隔離区域において、自宅を持っている者は存在しない。みなその日眠る家を物色し、無断で上がり込んで寝泊りするんだ。そして寝泊まった後は、次に来る者の為に飯でも作って待機しておく。俺たちが今食っているのがそれだ」
「お店に商品が無造作に置いてあって、人々が勝手に持ち去っていたのも”窃盗”という体を為さないといけないからでしょうか」
「そもそも”詐欺”が許容対象で、暴利をむさぼることなく誠実に売ることがダメなのだからまともな商売などできるはずもない」
「あの時私たちを助けるなと止めたのも、人に”暴行”することはよくて、逆に助けることが処罰の対象だからですね」
「その通りだよ、なんともくだらない社会だろう?」
パンサンは眼鏡を上げながら嘆息した。
――”逆秩序”、これこそが李族隔離区域の実態だった。まともな社会では罰せられる悪事はなんのお咎めもない。そしてその正反対の善行こそが裁かれる対象なのだ。
「だがこんな社会でも、すべての人間が迎合できたワケではない。人間とは真なる善ではないが、決して悪にも染まり切らぬことがむしろ証明されている。悪事しか認められぬ世の中だが、俺たちはなんとか抜け道や妥協点を探しながら生きてきたんだ」
「……その一つがこうやって、不特定多数の間で家をローテーションさせる仕組みなのですね」
この家屋に押し入った際、中の男性にはとくに驚いた様子はなかった。家屋を利用する為に、不法侵入したりされたりは最早慣れっこなのであろう。
「なんとか上手くやっていこうとする者も少なくなかったが、残念ながら体制に迎合して悪に染まってしまった者の方が遥かに多いのが実情だ。なにせ暴行しようが殺そうがお咎めなしなのだからな」
「……」
「そしてより自分勝手な奴、より力の強い奴ほど幅を利かせるようになり、そういう奴は子分を従えて更に増長していく」
「それが先ほどの広場で、暴力を振るっていた連中の正体……」
「アレは”哈瓦那組”という連中でな、ここ最近もっとも勢力を拡大している一派だ。殺しも強請も躊躇いなく平気でやる連中だ。ここの王様気取りでいやがる。対抗しようにも悪人の方が圧倒的に数が多い社会だし、そもそも助け合うということ自体ができないんだ」
そうしてひとしきり訪れた沈黙の中で、飯をかき込んだ。
ラヴィアがふと疑問に思ったのは、パンサンの感性については自分たちのそれと大差ないということであった。
「思ったんですけど、パンサンさんは普通ですよね。こんな社会で生まれ育ったら、悪事を犯すのが当たり前だと、そう考えるようになっていそうですけど」
「……俺は古書を見て、昔の社会を勉強するのが好きでな。残されていた書物を読み耽り、ディスノミアの支配が始まる前の社会がどうであったかをある程度勉強しているんだ。俺のような奴は、実は他にも結構いる」
「そうなんですね」
「当たり前のように助け合うことができ、個人の自由や生命を脅かせば罰せられる。そして大勢の人が協力し合うことで更なる豊かさが生まれ、文化や文明が発達してゆく。素晴らしいことじゃないか!俺はそんな社会に憧れを抱きながら生きてきた。この李族隔離区域で認められるのは個人が自分勝手に振る舞うことだけだ、人という集団での営みは一切合切否定されているといっていい」
「……」
真逆なのだな、と思った。彼――正義の神マグナが思い描く理想の世界と。
彼は人々が助け合い、豊かに平和に暮らせる世界を目指していたはずだ。ディスノミアはその真逆をこの土地で実現していた。
そしてそのことがラヴィアの心に、闘志という炎をくべていた。彼女は否定したくてたまらなくなったのだ、あの人が目指す理想の真逆を往くディスノミアを。
「――やりましょう、パンサンさん。いえ、元より私はその為にこの土地に来たのです。逆秩序の世を終らせ、真っ当に生きられる社会を取り戻しましょう!」
「ああ、そう言ってくれると助かるよ」
パンサンはしんみりと、感謝の念に満ちた声音で呟いた。
そこへずっと沈黙を保っていた中年の男性が話し始める。
「…………なあ、アンタら、ちょっといいか」
「む、そうだ、すまないな。すっかり話し込んでしまった。ちょっと待ってくれ」
パンサンはそう言うと、新たに椀を用意して、残っていた鍋の料理をよそい始める。そして椀を傍に置いた。
「さあ、一思いにやってくれ」
「……え?あ、ああ、分かった」
男は何やら話があるようであったが、どのみち飯も食うつもりだったのだろう。拳を振り上げ、パンサンの頬を殴りつけると、置かれた椀を奪い取り飯を食い始める。
何故そのようなことをしたのかは、もはや聞くまでもない。”強奪”という体を為すことによって、処罰を免れたのだ。
そして飯をかき込んだ後、男は再び話し始める。
「アンタ、さっきまでの話を聞いてたんだがよ。その嬢ちゃんたちに、わざわざこの李族隔離区域の常識を懇切丁寧に説明していたな。ここで生まれ育ったモンなら誰だって知っていることだ……まさか、嬢ちゃんたち、外から来たってんじゃねえよな?」
男の様子はまだ半信半疑といった様子であった。
パンサンは目配せをする。ラヴィアは別に構わないと、目で合図した。
「――悪いが、他言無用で頼むぞ」
そしてラヴィアと、遅れてユンファが頭の布を取り、自分たちの髪色を男に見せつけた。男は驚愕で目を見開いた。
「……!嘘だろ!夜の闇のように黒い髪、それに雪のように白い髪……まさか杏族と櫻族……?」
「こちらは杏族の姫君、ラヴィアという。聖獣の魂を復活させ、四部族を解放する旅の途上だ。まずは櫻族が解放され、こちらのユンファが旅の同道に加わったのだ」
二人の代わりに、パンサンが事情を説明した。男はやがて肩を震わせたかと思うと、感極まって涙を流し始める。
「……へへ、長く生きてりゃこんなこともあるんだなぁ。まさか他部族をこの目で見れる日が来るなんて。しかも解放されるのか?俺たち、ようやく、ようやく、」
そして男は年甲斐もなく、声を上げて泣き始めた。
◇
やがて家屋を出て、再び街中を往く。
李族を解放しようにも、ディスノミアをどう探し出すか――それを思案していると、突如遠くから轟音が聞えてきた。
駆け付けてみると、一軒の家屋(先ほど自分たちが居たのとは別である)に巨大な穴が空いていた。何かが降って来たようであった。ほのかに焼け焦げたような匂いもする。
「……なんですかアレ」
「そういえばディスノミアの処罰の実態を話していなかったな。処罰は善行に対する着手の度合いで変わる。軽ければ体の一部が腫れあがったりとか、体調を崩したり程度のものだが、一番重ければ空から光の槍が降って貫かれる。今のがそれだ」
「……!」
つまりあの穴が空いた家の中で、誰かが肉体を貫かれて死んでいるのであろう。
「いったい何に抵触したんでしょうか」
「屋内で多いパターンだと、そうだな……もしかしたら、真剣に愛を契り合ってしまった男女がいたのかもしれない」
パンサンは気の毒そうに眼鏡を上げる。そして、ラヴィアの方を向き直った。
「ラヴィア、この李族隔離区域では恋愛関係から夫婦になることはまずない――何故だか分かるか」
「……おそらく、”強姦”が問題なくて、その逆がダメだからですよね」
「そうだ、基本的に一方が望まぬ形で夫婦になるのが普通。だが彼らは望まぬ子育てを強いられるワケではない」
「”育児放棄”が合法で、真っ当に育てることが違法だから?」
「そう、子ができても自分では育てられない。捨てざるを得ないんだ」
「でも、それでは誰が育てるのでしょうか?この悪人だらけの社会で」
ユンファが口を挟んだ。
「ところがな、案外捨て子は拾われ、育てられるんだ」
「自分にとって使い勝手のいい道具にする為、ですよね」
「分別の付かぬ子どもなど、己の思想に染めるのにはぴったりだろう。都合よく利用する為に、クズばかりが子育てをしてゆく。言う通りにしなければ虐待なんて日常茶飯事だ。そしてそれも罰せられないのだからな。そして実の親は虐待されることが分かりながらも子を捨てざるを得ない、どうにかしっかり生きてくれることを祈ることしかできない」
そう言ってパンサンは服を捲り、上半身を露わにした。その体が古傷だらけであることに、二人は驚いた。
「この社会で生まれた者は、みな壮絶な幼少期を経験している。俺だって例外じゃない。まあもっとも、俺にこの傷を付けてくれた奴は既にこの世にいないがな……」
その声は恨めし気な響きに満ちていた。
そこにユンファが
「――ひどいです!」
と、いつになく大きな声で叫んだ。
そしてパンサンに向かって、深く頭を下げた。
「パンサンさん、ごめんなさい!」
「どうしたユンファ、何故お前が謝る?」
「私、正直心の中で思っていたんです。李族は櫻族と違って、全然ひどい目に遭ってないじゃないかって……家は荒れていないし、食べ物だってあるし……でも、全然そんなことありませんでした、ひどすぎます、こんなの!」
ユンファの声は震えていた。親は子を自身で育てられず、子もまた親の愛を知らずに育つ――それがここでの当たり前。それがユンファにとって、なにか欠くべからざる重大事項だったのだろう。
この娘は、あの飢餓地獄の中でも親の愛情だけはしっかり受けて育ったのだろうと、そう推察ができた。だからこそ天涯孤独となってからは絶望し、自らすすんで生贄になろうとしたのだ。
ユンファは涙ぐみながら、ラヴィアの手を握りしめた。
「ラヴィア様、私からもお願いします。李族の皆さんを救って上げてください。こんな世の中、絶対に間違ってます!」
「……むろんですよ、ユンファちゃん」
そう言って彼女を優しく抱きしめる。とても細い体だ。
知った上で街を見回すと、確かにそこかしこにはびこっているのだ。子供を奴隷のように扱い、いびり、殴っている――そんな醜悪な大人たちの姿が。
ラヴィアはそれとなく歯ぎしりをすると、打倒ディスノミアの決意を再び新たにした。