第140話 ウァラク登場①
夕飯準備中の第七部隊兵舎。フリーレはエリゴスの使っていたキッチンナイフに違和感を覚えるが……
市街地内外の巡回を終えたフリーレは、一旦第七部隊の兵舎へと戻って来た。
時刻は夕刻だった。
兵舎内ではほのかに良い香りが漂っている。見ればエリゴスが炊事場で夕餉の準備をしていた。山のように積まれた食器、ぐつぐつ煮える巨大な鍋、野菜や肉といった大量の食材が並んだ調理台が目に映る。
「お頭、戻られましたか」
「ああ」
フリーレは何気なく炊事場に立ち入り、辺りを見回している。何故だか足がここに向いたのだ。
「一人で大変だな、エリゴス」
「いえ、その内今日の当番が数名来るでしょうから問題ありません」
「そういえば、そもそもお前は今日は当番ではないのでは?」
「確かにそうですが、好きでやっているので大丈夫です。それに私は人間と同じような訓練をしたところで意味が薄いですし、お頭のような巡回もできません。復興作業に協力しようにも、表に出ると私を奇異や畏怖の目で見る市民も多い、ここでこうしている方がいいんです」
彼女の弁の通り、エリゴスは正式に第七部隊に所属となってから、表で訓練や復興作業にこそ参加してこなかったが、代わりにずっと兵舎内での炊事や洗濯に従事していた。
フリーレとしては、エリゴスが好き好んでそれをやっていること、これが多分に彼女が部隊内に馴染むことに貢献しているということもあり、とくに言うことはなかった。
「……」
そう、これは第七部隊の兵舎では普段通りの光景。別段何もないはずだった。
しかしフリーレは何か違和感を感じていた。
「……?お頭、どうかしましたか?」
「……いや」
フリーレは怪訝な表情でエリゴスに近づくと、キッチンナイフを握っていた彼女の右腕を取った。急にフリーレが接近したことに、エリゴスは驚き、顔を赤らめた。
「お、お頭……何を……?」
「……」
フリーレの輝く金色の髪、凛々しい瞳が至近距離にあった。
エリゴスはどぎまぎしてたまらなかったが、やがてフリーレは彼女が握りしめていたキッチンナイフを奪い取って離れた。
彼女は手にしたそれをしばし訝し気に眺めていたが、ひとしきりそれを見つめた後、床に向けて力強く叩き落した。金属音が辺りに大きく響いた。
エリゴスが「お頭、何をしているのです?」と言った直後、フリーレは、
「私の感はごまかせんぞ、すぐに正体を現すがいい」
と言った、床に転がるナイフに向かって。
「え?」
戸惑うエリゴス。少し険しい顔つきでナイフを見下ろすフリーレ。
やがて耳障りな女性の声が響くように聞こえた。
【オーホホホホッ!流石ですワ!フリーレお姉様!】
驚くのも束の間、キッチンナイフはたちどころに女性の姿に変貌した。
黒いゴシック調のドレスに背中から黒い翼を生やし、ショッキングピンクの長い髪を二房の巻き髪にしている。頭部にはエリゴスのそれよりもやや小さい湾曲した一対の角が生えていて、耳先は尖っていた。
エリゴスは彼女のことを知っていた。
「貴様は……ウァラク!」
「コイツを知っているのか?エリゴス」
「はいお頭。この者の名はウァラク。第16師団”暗躍部隊”の将軍級です」
エリゴスは警戒の目を以てウァラクに向き直る。同じ魔軍の将軍級であっても、エリゴスがラグナレーク側に付いた現在となってはもはや敵同士でしかなかった。
「コイツに戦闘能力はありませんが、代わりに特殊な能力があります」
「なんだ?」
「ウァラクには”変身”能力があるのです。それを評価されて、警戒されているストラスの代わりに偵察に来たのでしょう」
「変身か。どんなものにでも化けられるのか?」
「確か変身する対象に制限はなかったはずです。物質から生物まで、一度見たものなら何にでも変身してしまえ、その形質や性質を完璧に再現します。事実私はまったく違和感を感じることなく奴が化けたキッチンナイフを使っていました」
驚異的な再現力の変身……確かに脅威ではあるな、とフリーレは思い、質問を続ける。
「あのウァラクとやらが、例えば私に化けた場合だが、その場合私と同レベルの強さになるのか?」
「いいえ、才能や能力といったものまでは再現できないはずです。お頭に化けたところで見た目がお頭になるだけでしょう。もしそこまで再現できるのなら、近衛部隊の将軍級にでも化ければ”自由に動ける秘密兵器”という随分と反則的な存在になってしまいますからね」
「なるほどな、便利だがそこまで反則的な能力でもないというわけか」
言葉を交わす二人の前で、ウァラクはこの期に及んでにこやかに微笑んでいた。
追い詰められた状況に相応しくない表情を見て、エリゴスは不快に満ちた声で言う。
「どうしたウァラク、何を笑っている?ナイフに化けた貴様に気配はなかったはずだが、お頭はそれでも違和感を感じ、こうして貴様を炙り出してみせた。お前の任務はもはや失敗しているんだぞ!」
「失敗?ウフフ、そうですワネ。でも今のわたくしにとっては、もう任務とかどーでもいいんですノ。なにせ、わたくしは運命の人を見つけてしまったのだから……!」
ウァラクはまったく臆することなくフリーレの方へと歩を進める。
エリゴスは警戒したが、当のフリーレはまったく意に介さず悠然と待ち構えていた。
相手に敵意がないことを既に見抜いていたからだった。
何故ウァラクがこちらに近づいて来るのかまでは深く考えていなかったが、それでも敵意も殺意もまるで感じないので相手の行動を許してしまっていた。その為やがて接近してきたウァラクが
「おっ!姉っ!様ーーーーーー!!!」
と絶叫して飛び付いて来たのを躱すことも造作なかったはずだが、フリーレは抱き着かれて、されるがままとなった。
ウァラクは尻尾を振ってじゃれつく犬を彷彿とさせる有様で、フリーレの体にしがみついて顔をこすりつけていた。息は荒く、満面の笑みであった。
「任務の失敗?ええ!ええ!結構ですワ!これであのトンチキ皇帝もわたくしを見限ることでしょう!こうなればエリゴス同様にわたくしも造反するしかありませんワ!さあ、お姉様!わたくしをぜひ、貴女様の可愛い妹にしてくださいまし!」
「何をやっとるか、貴っ様ぁあーーーー!!」
フリーレ……ではなくエリゴスが憤怒の形相で、しがみつくウァラクを叩き落とした。




