第130話 愛の語らい
開演一週間前の夜、マグナとリピアーは街外れの空き地で落ち合う。劇の中よりも早く、二人は現実で唇を重ねた。
人権団体のクレームという横槍こそあったものの、マグナたちは気を取り直してレッスンへと戻った。
開演まで一週間……
準備は最終段階だった。
夕食を終えたあと、マグナは一人夜風に当たっていた。
陽が沈んでも生暖かい空気、すっかり夏だった。
ぼんやりと、行き交う街の人々を眺めている。人口の多い公都ウィントラウムといえども夜の人通りはまばらだった。
やがて彼は立ち尽くしているのにも飽きて、散歩に興じ始める。
ふらふらと図書館のある通りを、駅前を、飲み屋やレストランの並ぶ通りを、色街を練り歩き、そして街外れの人気の無い場所へと辿り着いた。
そこは彼がいつの間にか物思いに耽る時に訪れるようになっていた場所だった。
――そこにはリピアーの姿があった。
「……リピアー」
振り向く彼女と目が合う。二人の他には誰の姿もなし。
「どうしたんだ?こんなところで」
「ここにいれば貴方に逢えるかもって、そう想ったのよ」
夜風の静寂に包まれた空間。空には輝く星月夜。
マグナはリピアーと過ごした太古の夜を思い出さずにはいられなかった。これも既にひと月前の出来事だった。
「そうか」
「ええ」
とくに示し合わせることもなく、二人は手頃な岩に隣り合って腰を下ろした。
「いよいよ来週だな」
「そうね。心配?」
「心配もあるが、それよりここまで頑張った成果を見せたいって気持ちの方が強いかな」
「あら意外。演技に関して、貴方自身が一番不満を感じていると思っていたのだけれど」
前述の通り、愛を語るシーンでのマグナの演技はまだ完成と呼べる領域ではない。しかし何故だか、今の彼にはそれに対する気後れのようなものが感じられなかった。
「分かったんだ、俺がどうすればいいのかが。物語の中のレイザーは未来を勝ち取るために、どんな苦難に直面しても諦めずに前を向いていた。俺もそうあらねばならないんだ。物語の中でも、自分の人生でも、結局大事なことは変わらない。それに気づいたら、なんだかどちらも上手くやれそうな気がしてな」
星明りを見つめるマグナの眼差しには確かな光があった。
「そう、ならきっと大丈夫ね」
「そして分かったことが他にもある」
マグナは視線を下ろしてリピアーの瞳を見つめた。リピアーは不意に彼の顔を蠱惑的に感じた。
「お前の優しさは、自身の哀しみや淋しさに根差していたものだということに」
「……」
思えば、メルクラットで彼女と再会してから今日に至るまで、リピアーにはずっと助けられて来た。
そしてリピアーはかつてレイザーにこう諭した。人生において苦難は付き物であると。
リピアーは強く、誰かを励ましたり、慰めている姿ばかりが目に浮かぶ。
しかし本当にそれだけだろうか?
人生に苦難は付き物であるというのは、他ならぬ彼女自身の弁であり、彼女もきっと様々な苦難に塗れながら生きて来ただろうに。
「情けない話だよな。俺は自分のことばかりで気づくことができなかった。他人の哀しみを労われるのは自分自身が哀しい経験をしてきたからだ。リピアーの励ましの言葉、慰めの言葉はどこか自分自身に対して言っている感じがした」
「フフ……バレちゃったわね」
リピアーは静かに微笑んだ。少しはにかんでいるのが彼には解った。
「支えられてばかりは性に合わないんだ。俺は必ずこの劇も、正義の神としての使命も全うしてみせる。そしてそれができるのは、リピアーが力をくれたからだ。今度は……今度は俺が支えたいんだ」
「とても嬉しいわ、マグナ」
「お前の道にさえぎるものを、今度は俺が打ち砕く。必ず、約束する」
二人の顔が近づいていく。リピアーは静かに息を吸うと演技の効いた声音に変わる。
『貴方の行く先が私の歩きたい道。ねえ聞かせてくれる?貴方の本当の気持ちを……』
リピアーが目を閉じる。
マグナは、彼女の頬に優しく手を添えると、静かに熱く唇を重ねた。
◇
柔らかく、温かい。そして心地良かった。ひとしきりそれを堪能すると、彼は口を放した。
微笑みながら彼を見上げるリピアーは天女と見紛うほどに魅惑的だった。
「……」
「……」
二人して顔を上気させて、しばらく黙っていた。
「リピアー……言っておくが、今のは」
「フフ、分かっているわ。演技じゃない……でしょ?」
リピアーはしな垂れるように、彼に自身の体を預けた。彼の両腕にリピアーは抱かれる。
「正直私はね、諦めていたの。自分のことなんて」
「……トリエネがいるからか?」
「家族を町ごと失ったあの日、私の心は壊れたも同然だった。だから私はトリエネに、私の分も幸せになってほしいと、そう思っていたのよ」
リピアーの帽子が落ちる。彼女の赤銅色の髪を彼は優しく撫でる。
「でもトリエネ自身は、リピアーの幸せを望んでいる」
「その通りよ。あの娘はね、いつも言うの。リピアーの幸せが私の幸せだって。でも私にはもう分からなかったのよ、自分が求める幸せとは何なのか」
今度はリピアーが彼の頬に手を添えた。
「でもね、ようやく見つけられたみたい。歩いてみるものね、例え果てなき道でも……哀しみに塗れようとも……」
二人は唇を重ねた。先ほどよりも濃厚だった。
そこから先、二人の間に言葉は要らなかった。
二人の息づかいと交わし合う体温、夜風と星明りがすべてだった。
今宵この場所に誰も通りがからなかったのは幸いだった。
二人は飽きることなく、互いを求めるように、愛を語らい合った。




