第128話 開演までのあれこれ①
リピアーが監修したレイザーと愛しきマリアベルの物語。公都ウィントラウムでは、その開演準備が着々と進められていた。
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「マリアベル、俺は君のことを愛している。この気持ちを抑えることができなかった。気が付けばパーティ会場に乗り込んで君を攫っていた」
みすぼらしい恰好の男が語り掛けている。
どこか恥ずかし気で、声がうわづっている。
「こんな賤しい俺と一緒にいるんだ、きっと君の名誉にも傷を付けてしまった。こうしてこそこそ隠れながら貧しく暮らすのも不本意だっただろう。俺は君に取り返しのつかないことをしてしまった」
悲し気な声音だ。これは堂に入っている。
演者にも思うところがあるのだろう。
「いいえ、後悔なんてないわ」
傍らの女性もみすぼらしい服を身に纏っていた。
しかし隠せぬ気品があった。
「あのままではきっと私は望まぬ結婚をしていたでしょう。けれども自分から逃げ出す勇気がなかった」
女は男に近づく。頬に手を当てて、顔を近づける。
「だからねレイザー、私はとても嬉しかったの。貴方が私を連れ出してくれたこと、何より貴方が勇気を振り絞ってくれたことを」
「し、しかし……俺の我儘で、君を不幸にしてしまったかもしれない」
悲し気に顔を歪める男。
女は温かさと強かさが同居した表情で彼を見つめる。
「いいのよ。私ね、気づいたの。どのような道でもこの世界は、人生は”思い通り”になんていかない。貴方は私を不幸にしたのだと、そう思っているのでしょうけれども、あのまま貴族として暮らしていたって何もかもが幸せなまま推移することなんてなかったでしょう。だから私は、自分の歩きたい道を選ぶの」
「これが君の歩きたかった道……?」
「貴方の行く先が私の歩きたい道。ねえ聞かせてくれる?貴方の本当の気持ちを……」
そう言って女は目を閉じた。それが何を意味しているかは明白であった。
しかし、しかし……
「カット!カット!」
元気の良い声が演技を制止した。いや制止したというよりは、停まったものを強引に振り出しに戻した形だった。何を隠そう、彼は実に数十秒ほど動きを停めてしまっていたのだから。
「もうマグナ!いつまで恥ずかしがっているの?ここはリピアーとチューしないと話が進まないんだよ」
トリエネは手にした脚本の冊子で、マグナの頭を軽く小突いた。
ウィントラウム公立劇団の助力を受けながら演技の練習を始めて一か月が経過していた。シナリオは完成済み、大道具や舞台装置の準備も既に済んでいる。
ただ肝心の主役の演技が完成に至っていなかった。主役に関しては劇団の力を借りられず、マグナたち自身で務めねばならない。リピアーの演技はとっくに及第点であったが、マグナはまだまだといったところだ。
とくにシナリオ後半の恋愛シーンが絶望的であった。
「マグナ、お前さんは難しく考え過ぎなんだよ。何も考えずにブチューってやりゃいいんだよ」
「そーだ、そーだ」
恋敵役兼大道具係のマルロー、愛の女神役兼振付け指導役のトリエネがからかい混じりの言葉を入れる。
「け、けどな」
マグナは困ったような顔を浮かべた。正直彼は参ってしまっていた。
リピアーへの接吻……
それはたとえ演技でも、彼には犯すべからざる神聖な領域のように思えてしまった。どれだけ覚悟を決めたつもりになっても、いざ彼女の美しい顔を前にすると体が固まってしまうのだ。
困っているマグナに、リピアーが優しく語りかける。
「心配要らないわ、マグナ。落ち着いて心の整理をしてくれればいいわ。他の演技も後もう一息といったところだし、きっと大丈夫だから」
「リピアー……」
リピアーはいつでも優しくて慈愛に溢れていた。そしてそれがちっともブレやしないのだ。トリエネが懐くのも頷ける。真の強さとはこういうものを言うんじゃないだろうかとマグナは思った。
だからこそ、だからこそ彼女の唇は、彼にとって不可侵の領域のように思えて仕方がなかった。
◇
しばしの休憩を挟んだ後、今度は踊りと歌のレッスンを始める。劇団員の人の指導もあり、素人でしかなかった四人の技術は着実に上昇していった。当然プロに比べれば、まだまだである。それでも舞台に上げても演劇として成立はするだろうという、及第点に達したことへのお墨付きは頂いていた。
後は開演のその日まで、より研鑽を重ねるのみである。
レッスン後、休憩している彼らの元に一人の老人が訪れた。
浅黄色の逆立った髪と眼帯に、裕福そうな服装。裏世界のNO.3、マルクス・ボルクス・ファムエルトであった。マルクス商会の長であり、全世界に様々なコネクションを持つ世界屈指の大商人。今回のような素人による演劇が由緒あるウィントラウム公立劇場で開演できるのも、偏に彼のサポートによるものであった。
「こんにちは、練習に精が出ているようだね」
穏やかさの中に強かさのある声だ。
トリエネはマルクスの姿に気が付くと、軽快に駆け出して彼に飛びついた。
「わーい!マルクスお爺ちゃんだ!」
「トリエネも頑張っているようだね、よしよし」
トリエネは顔をくしゃくしゃにほころばせている。そんな彼女の頭を老人は慈愛の感じられる所作で撫でた。その姿はまさしく爺さんと孫娘であった。
「そういやトリエネはお爺ちゃんって呼んでるけどよ、トリエネはリピアーに拾われて育てられたんだから、マルクスの爺さんとも血縁関係はないんだよな?」
マルローが今更な疑問をリピアーに問うた。
「そうね、うちの爺さんたちは皆トリエネを可愛がっていたからね。バズやムファラドも相当溺愛していたわ。彼らにとってトリエネは孫娘同然だし、トリエネにとっても彼らは祖父同然の存在なのよ」
「えへへ、私お爺ちゃんが三人もいるんだー♪すごいでしょ?」
「そしてその内訳が世界最強の傭兵、世界最大の資産家、世界最高の商人なのだからスゴいわよね」
「まじかヨ……トリエネ、俺お前と兄妹だった気がしてきたわ」
「私、こんな変なお兄ちゃんいないよ?」
マルローのボケに、トリエネはいつになく真面目なリアクションを返した。
やがてマルクスが席に着いた。トリエネはコーヒーを入れると彼の元へと運んだ。
「ありがとう。ところでリピアー、レッスンは順調かい?」
「概ね問題なく推移しているわ。これも貴方や劇団の方々のお力添えあっての賜物だわ。本当に何てお礼を言ったらいいか」
「いいさ、気にする必要ないよ。ここの座長も私に借りを返せるいい機会だと、そう言っていたからね」
「だから話がトントン拍子に進んだんだな」
マグナの言う通り、劇団に話を取り付けてから今に至るまで、調整で大きく難航する局面は無かった。素人の演劇が、劇場で催される演目枠の一部を譲り受けて開演される。通常では有り得ないことだったが、それを実現してしまえるのがマルクスという男だった。
「ただ宣伝をする以上、ある程度のクオリティーは要求されているからね」
「それは勿論だわ」
「興行収入に関してはそれほど気にする必要はないよ。もともと利益目的で催されるものでもないし、そもそも資金面はボクが提供しているからね」
「本当に、何から何まで世話になるわ」
そんなやりとりをしている時だった。
劇団員の一人が唐突に部屋に入って来た。
「マルクスさん、ちょっとすみません。ウィントラウムの人権団体を名乗る方がいらしているのですが……」