第109話 太古の世界で③
トリエネには町一つを滅ぼせるほどの恐るべきウィルスが眠っていた……
リピアー曰く、そのウィルスもまたアタナシアから来たと思われるとのことだった。
――ようやく、リピアーが裏世界にトリエネを縛り続けてきた真意が明らかとなった。
リピアーはこの恐るべき病が再び現れることを怖れていたのだ。それだけではない、その病の存在が世間に知られることを特に怖れていた。
「私の能力で現在トリエネの中のウィルスは失活状態にあるの。ただひとたび能力が切れれば発症してしまう。そして、それはトリエネが死ぬだけでは済まないわ。周辺一帯を巻き添えにして、死体の山を築くことになるでしょうね」
「聞く限り本当に恐ろしい病だな」
「そして私が何より危惧しているのは、その病の存在を知った何者かが悪用しないかということよ」
「悪用なんてできるのか?」
「普通の人間にはできないと思うわ。ただこの世界には、神の能力や神器というものがある。悪用されないとは限らないのよ。町一つを簡単に滅ぼせる疫病をもし利用でもされたら……」
「……そりゃ、トリエネを表社会に出したくないわけだ」
「表社会で暮らす以上は、出自の問題は避けては通れない道だと思ったのよ」
マグナは理解していた。
裏世界にトリエネを縛り続けることは、リピアーにとっても不本意であるはずだった。彼女はトリエネの幸せと世界の安寧とを秤にかけて、泣く泣く後者を選んだのだ。
本当に強く、そして優しい女性だと思った。
「あの病がどこから来たのかは分からない。けれど、なんとなく推察はできているのよ」
「推察?」
「おそらく、あの病はアタナシアから来たんじゃないかと思うのよ」
「俺たちやドゥーマが探している伝説上の聖地……そこから来たと?」
「確証はないわ。ただミサキの父親、ハルトを調べていて思ったの。フランチャイカで確認した記録では、彼はアンドローナ王国から来たことになっていたわ。私とトリエネも、マルティアの町が壊滅した後はまずフランチャイカへと流れ着いた。連邦内の他国に行くよりもそちらの方が近かったし、何よりあの国は身分さえ我慢すれば、流れ者でも受け入れてもらえる国だったから」
「……」
その身分制度を自分が壊したんだな、とマグナは思った。
「ハルトはアタナシアから出奔してフランチャイカに辿り着くまでの間は、アンドローナ王国で過ごしていたってことか?」
「ええ、それももしかしたらマルティアの町で暮らしていたのかもしれない。そしてハルトを匿っていたから、アタナシアがもたらした疫病によって町ごと滅ぼされた」
「確かに、筋書きは通るな……」
「けれども推測の域を出ないし、だからこそ確かめなくてはいけないわ。ハルトの忘れ形見であるミサキが、何かしらの手がかりを知っているはず」
ミサキから情報を得る――
それにはまずミサキの意思疎通不可の呪いを解く必要がある。その為にはレイザーの力が必要で、結局この時空から現代に戻れなければ、話は進まない。
明日に備えて今夜はもう休むことにした。
マグナは周囲をきょろきょろと見回す。少しでも寝やすそうな場所を探していたのだが、ぽんぽんと何かを叩く音がする。
見れば岩に腰を掛けたリピアーが、自身の太ももを叩いてアピールしていた。
「マグナ、枕ならここにちょうどいいものがあるわよ」
リピアーと太古に飛ばされ二人ぼっちになってから、彼はどぎまぎさせられてばかりであった。
思わず彼女の太ももに視線が向いた。リピアーは男物のコートこそ羽織っているが、その内側はショートパンツに黒いストッキングの組み合わせであった。彼女の脚がとても艶めかしく映った。
「……いいのか?」
「構わないわよ。私の肉体は眠りすらも必要としないから」
「そうか、不死の肉体だから……」
「私の肉体は常に最良の状態に保たれ続けている。だから睡眠は必要でないし、というか不可能なのよ。食事と違い、私は眠りに関してはすることもできないわ」
リピアーは少し悲し気に虚空を仰いぐ。
「もう二十年も眠っていないから、眠るということがどのようなことなのか思い出せなくなってしまったわ。私にとって夜は、ひたすら長く、そして孤独な時間……」
「……」
眠ることすらできない人生……
マグナには想像し得なかった。
「御免なさい。こんなことを言われても、どう答えるべきかなんて分からないでしょう。ともかく、私は眠らなくても問題ないし、一晩中起きていても疲れることすらないから、遠慮なく枕にしてくれて構わないわ」
「……なら、お言葉に甘えて」
そしてマグナは体を岩の上に、頭をリピアーの太ももの上に預けた。俗に言う膝枕の状態になる。
正直恥ずかしさもあったが、興味の方が勝っていた。なによりリピアーにあれだけお膳立てされて断れるほど、彼は野暮にはなれない。
ストッキング越しにリピアーの脚の感触が伝わって来る。滑らかな質感、そして内側の太ももの弾力。幸福な気分だった。太古に飛ばされた当初は慌てたものだが、今ではレイザーに感謝したいくらいだった。
リピアーはマグナの頭を撫で始める。母のような優しい所作だった。
そして、彼の耳元に囁くように言う。
「マグナ、どうして顔をそっちに向けているの?」
「そ、そっちって?」
マグナは顔を、リピアーの体のある方とは反対側に向けていた。
「こっちを向いてほしいわ。でないと、貴方の顔が見れないでしょう?」
「……」
マグナは寝返りを打つようにして、顔をリピアーの体の方へと向けた。
眼前にリピアーの下腹部が映る。途端、彼女の香りを強く意識するようになった。蠱惑的な匂いだった。この香りは太ももの寝心地の良さとは相反して安眠妨害であった。
リピアーは頭を撫で続ける。子供を愛でる時と同じような愛おしさが感じられた。
その所作にマグナはいよいよ疑問を抱いた。
「なあ、リピアー……思ったんだが、何故俺をそこまで気にかけてくれるんだ?」
「……そうね。貴方がかけがえのない人だから、かな」
どういう意味だろう、とマグナは思った。
「ねえ、マグナは過ぎ去りし神々がどんな風に能力を授ける相手を選ぶか知ってる?」
「いや、知らないな」
「私も知らないわ。推測だけど、気分次第かもしくは悪意を以て選んでいるんじゃないか思うのよ」
「そうなのか」
「だって、そうでしょう?私のような死にたがりには不死の能力を与えたし、ドゥーマのような危険人物に世界の一部たる力を与えた。神々はこの世界で暮らす人間をあえて苦しめたくて、そうなるように力を授けているんじゃないかと思うのよ」
確かに言われてみれば思い当たる節はあった。例えば悪しき女王フェグリナに成り済ましていたアヤメがそうだ。あの残虐で自己中心的な人物が、欲望の神の能力を得るというのはどこか出来過ぎている気がした。
――では、自分はなにゆえ?
「だからこそマグナ、貴方は奇跡の存在なのよ」
「奇跡?」
「だって正義の神が見初めて力を与え、それが本当に優しくて世界の為に戦う素晴らしい人だったんですもの。だから、私は貴方に興味を持った」
「……」
「そして実際に話して、やはり貴方が正義の神に相応しい人柄だということが分かったわ。私は見たいのよ、貴方がこの世界をどのように導いてくれるのかを」
リピアーの言葉に、彼はまたしても感極まりそうになっていた。
ラヴィアという前例が既にあるので、行いを称賛されること自体は初めてではない。しかしこうして言葉を選りすぐって称賛されることは存外に嬉しく、特にフランチャイカでの失敗を未だに引きずっている彼には望外の喜びであった。
マグナはごまかすようにして目を閉じた。「ありがとう、必ずその名に恥じない正義の神になってみせるよ……」そう言ってしばらくすると、寝息をたて始めてしまった。疲労が彼を健やかなる眠りの淵に、速やかに誘い込んだ。
リピアーは星空の下、愛おしげに彼の頭を撫でている。
夜風に髪を靡かせながら、その寝顔をひたすら見つめ続けていた。