第103話 ハンドマッサージ
公都行きの列車内で起きているのはマグナとリピアーだけであった。正義の神の傷心を見抜いたリピアーは彼女なりに彼を労わり始める。
列車が駅を発ちどれくらい経っただろう。いつの間にかマルローは軽いいびきをかいて眠りこけていた。彼の対面ではトリエネが、こちらも小さな寝息を立てながら背もたれに身を寄せるようにしていた。ミサキもトリエネの膝枕で眠っている。
起きているのはマグナとリピアーだけだった。共に車窓側なので、二人は必然向き合う位置関係になっている。
マグナはリピアーを見る。端正のとれた美しい顔立ちだった。しかし服にはあまり気を使わないのだろう。マグナは何気なく彼女を視界に入れていたに過ぎなかったが、リピアーは目が合った際に彼の奥底を見抜いてくる。
「正義の神、貴方なにか悩んでいるわね」
「……分かるのか」
「分かるわよ、なんとなく。私は色んな人を見てきたのだから。それに、あの眷属のこともあるしね」
「……」
彼の中でリピアーはもはや敵ではなく、すっかり仲間だった。マグナはフランチャイカ王国での出来事を話し始める。
厳格な身分制度の下、虐げられ続ける人々がいたこと。
自由で平等な社会を実現すべく、革命を起こして国王を退位させたこと。
しかし待っていた未来はより混乱した社会でしかなかったこと。
「そう、そんなことがあったのね」
「……俺は正直分からなくなっているんだ。何が正しくて何が間違っているのか。誰だって抑圧や差別の中で生きていたくはないはずだ。けれどもそれを取り払ったところで、みんなを幸福にはしなかった。今は俺の眷属が、無理矢理に近い人心掌握で治安を維持している情けない状態だ」
「……」
「俺はどうすればよかった?差別や虐待が公然と認められる社会を黙って見ているのが正しかったとでもいうのか?分からない、俺はどうすれば……」
いつの間にか感情を発露させていた。普段の彼には似つかわしくなかった。
手のひらを広げて見る。それはやっと掴んだか細い光ですらも、指の間から漏れてしまったような、そんな彼の心の哀しみを体現しているかのようだった。
そんな彼の手を、リピアーはそっと両の手で包み込んだ。
「……?」
「だいぶお疲れのようね。ハンドマッサージでもしましょうか?」
応えるまでもなく、リピアーはマグナの右手を自身の前まで持ってくると、丁寧に揉みほぐし始める。手のひらを押し込むように。指の一本一本を包み込むように。甲側をさするように。
そのひと時の中で彼は心地よい感覚に浸っていた。柔らかい手だった。初めは少し冷たかったが、今ではお互いの温もりが伝い合って温かい。
しばらく目を閉じて没入していたが、やがて疑問が顔をもたげてくる。
「……なぜ、俺はお前にハンドマッサージをされているんだ?」
「さて、なんででしょうね」
リピアーは目を閉じて、どうということもないふうに答えた。
「きっと、他人の思いやり方が分からないのでしょうね」
「……?」
「私には、貴方を慰められる都合のいい言葉も手段も思い浮かばなかったわ。ただそこに貴方の手があったからこうしてみただけ。もっといい方法があったはずだけれど、こんなことしかできない私を貴方は笑うかしら?」
「いや、そんなことは……」
「きっと同じなのよ、正義の神。何が正しいかなんて、きっと誰にも分からないわ。けれど貴方は純粋に人々のことを想ってしたはず。ならきっと、その想いが届いている人はどこかにいるはずだし、応えてくれる時だってその内来るはずよ」
そしてリピアーは最後の仕上げのように手の全体を擦ると、次いで左手のマッサージに移った。彼もすっかりその所作を受け入れていた。
「こうして手と手を重ね合えば温もりが伝わるでしょう?言葉などなくても、貴方がどういう人かは分かってくるわ。ふふ、正義を司る過ぎ去りし神は、だいぶ人を見る目があるのね」
「そ、そうか」
マグナもまた、温もりを通してリピアーの人となりが分かってきた。とても慈愛に満ちた心の持ち主だ。彼女が光なら、きっと天国や楽園に溢れるような光だろう。辛いことのすべてを投げ出して、そこに没入してしまいそうになる。
しかし投げ出すわけにもいかないし、それにこの奇妙なやりとりを経て、マグナは未来は分からないぞと思った。
リピアーと初めて出会った時は、ミサキを巡って対立していた。あの時は、たった三日を経るだけでこのようなやり取りをする間柄になるとは思ってもみなかったのだから。
「……俺にも、お前のことが分かってきたよ。とても思いやりに溢れた、素敵な人だと思う」
「ふふ、どうもありがとう」
リピアーが静かに微笑んだ、そこへ
「あー-!リピアーが正義の神といちゃいちゃしてる!」
と元気な驚声が聞こえてきた。
いつの間にかトリエネが目を覚ましている。
「なに?なに?私が寝てる間に何があったの?ねえ!」
トリエネは興味深々の様子で、顔をほころばせる。
リピアーはマグナの手を優しく放すと、「なんでもないのよ、トリエネ」とただそれだけ言った。
しかしトリエネは引き下がらない。
「えー、嘘だぁ!絶対に何かあったでしょ。ねえねえ、リピアーと何があったの?」
「……別になんでもないさ」
「ふーん、まあなんでもいいけどね!」
思ったよりもしつこく追及してこなかった。
トリエネにとっては、心を閉ざしがちなリピアーが他の誰かと懇ろにしている、ただそれだけが嬉しく、そこに至るいきさつまでにはそれほど執心していないようだった。
トリエネはマグナに近づくと、あえてリピアーにもかろうじて聞き取れる声量で耳打ちする。
「正義の神、リピアーと仲良くしてあげてね。リピアー言ってたもの、神の力を得た者はたいがい自分の為に力を使うのに、自分ではなく世の中の為に頑張れるなんてすごいって。リピアーも貴方になら、心を開きたいって、きっとそう思ったのよ」
「……そうか。俺もリピアーの言葉には救われたよ」
「うんうん!リピアーが幸せなら、私も幸せだから、どんどんリピアーと懇ろになってね!」
「こら、トリエネ、貴女何を言っているの」
さしものリピアーも照れくさそうな顔で、トリエネを彼から引き剝がした。
そんなやりとりを微笑ましく眺めながら、自分はそれほど褒められるような存在ではないのに、と思った。
世の中の為?
いや、結局は自分の為だろう。好き勝手に悪がのさばる世の中を彼は許せなかった。両親が強盗に惨殺された過去を思い出す。世の中の為と綺麗ごとで飾ってみても、自身の行いは所詮形を変えただけの復讐。それは善良な心からではなく、どす黒い憎悪の感情から生まれたものだった。
自分の心がそのようであることは、何よりもあの眷属が自分から生まれてきたことが証明していた。
マグナは、こんな自分に世界を救う資格などあるのかと、またしても不意に哀しく思い、視線を車窓に投げた。




