Chapter 0̸ スマートフォン
ふらふらと、ひとりで校舎を歩き回る。
ポケットに忍ばせていたスマホを見ると、時刻はもうすぐ二時になろうとしていた。あと三十分もすれば授業が終わって、生徒のみんなが廊下に溢れてくる。
それまでには帰りたい。帰れるだろうか。
同席を断って二人と別れた今。叔母さんたちは、いったいどんな話をしているんだろう。考えたくもなかった。こういう時に限って、むやみに働こうとする想像力を振り払うように首をぶんぶんと振る。
もう帰りたい。
そんな心持ちが、自分の身体を、脚を動かしているようにも思う。意味もなく元来た道を戻って下駄箱の前で立ち尽くしていた。
学校という空間が、怖かった。
今自分がこうしているうちにも、あの人たちは同じ場所で授業を受けているのだから。
どこからともなく、あの三人のうちの誰か一人でも現れたらと思うとぞっとする。授業中でもトイレや保健室に行くと言って抜け出してやってくる恐れは十分にある。見つかったらきっとただでは済まされない。
不安から隠れるように、下駄箱の陰にもたれかかった。
そうやって、しばらくぼんやりしていると、かん、かん、かん、と、廊下の突き当たりの階段から足音が聞こえてくる。
恐れていたことが、現実に降りかかってくるかもしれない。
無意識に背筋を伸ばして身構えた、そのとき。
「誰かいるのですか?」
聞き覚えのある声がした。
落ち着いた声を聞いて、それがあの三人のうちの誰のものでもないとわかって安心する。声に応じて一歩足を踏み出した。
向けた視線の先には――佐藤先生がいた。
「下町さん」
彼は京香を見るなり、少し驚いたように眉をあげる。
「どうしたのでしょう。今は授業の時間ですが」
細くて背の高い、池田先生よりもずっと若く見える先生だった。まだ高校生と言われてもあまり違和感を抱かない程度の見た目をしている。それでいて彫りの深い顔は整っていて、少し日本人離れしているようにも見えた。もしかしたら外国の血が少し入っているのかも、というのが京香の持つ印象だった。
投げかけられた質問の返答がすぐには浮かばず、固まる京香に佐藤先生はやんわりとした笑顔を浮かべながら近づいてきた。
「いえ。別に責める気はないのですが」
生徒に対して先生が敬語で話すのは、あまり慣れない感覚だ。
「その……事情があって遅刻してきたんです」
「それはそれは」
小さな声で返事をすると、佐藤先生は腕を組んでそれに頷いてから、
「僕はその事情とやらに触れる気はありませんが――と言うのも、何より君はそういう対応をひどく嫌っているようですしね」
京香の心を見透かしたように言って、ニッコリと笑顔を見せる。
「それよりちょうどよかった。下町さんに一つ聞きたいことがあったのです。ああ。これは聞きたいことというよりお願いといった方がいいかもしれませんが」
首を傾げる京香に、人差し指をピンと立てた。「前長輪得さんのことです。彼女は放課後いつも下町さんの家に手紙を届けに行っているようですが」
急に前長さんの名前が出てきて、驚いた。
前長輪得さん。
転入生で、お父さんの仕事の関係で手続きする時期が遅れたとかで、今年の四月の新学期が始まってしばらくしてから京香のクラスに入ってきた――。
あの可愛らしい顔が、人物像と共に思い浮かんだ。
「できればそのタイミングで、前長さんにこれを渡していただけないでしょうか?」
「それって……」
「彼女のスマートフォンですよ。昨日の放課後、そこの階段で拾ったもので」
言いながら佐藤先生は、Yシャツの懐から一台のスマホを取り出す。
それは、京香も知っている有名メーカーの、つい最近発売された新モデルのものだった。ゴールドの表面がテカテカと光を反射させていて、真新しいのが一目でわかる。
「よろしければ、お願いしたいのですが」
「は、はあ」
佐藤先生は、京香にそれを手渡して言う。そこで、どうして先生が、直々に渡そうとしないのかはほとんど考えていなかった。
代わりに、ふと気付いた。
京香が他の大人に抱くようなあの嫌悪感は、彼に対しては湧いてこないでいる。――その理由はなんだろう。佐藤先生が自分のことを勝手に慮るようなことを言わないで、放っておいてくれるからなのか、親しく接してくれるからなのか。それとも何か他に訳があるのか。少し考えただけではわからない。
でも、この先生は、他の生徒に対してもそうだった気がする。
他のどの先生よりも生徒に近い存在。その表現が正しいのかは別としても、佐藤先生を嫌う人は思いつく限り誰もいなかった。その存在自体が、いつの間にか自分の中に入り込んでいたと言うのが妥当かもしれない。
思えば思うほど、不思議な人だった。どうして、今の今までそれに自分が気付かなかったんだろうと思えてしまうほど。というより――何度気づいても、そのたびにすぐ忘れてしまっているような。
「それでは、よろしく頼みますよ」
片手を上げて去っていく佐藤先生。京香は浅くおじぎをして、やがて彼が職員室に入っていくのを見ると、壁に寄りかかってスマホの外観を眺めてみた。
まず、違和感があった。
スマホを買ったら、大抵の場合は液晶保護のためのフィルムやケースを取り付けるのが普通だろうに、それが一切付いていない。見たところ買ってからほとんど手がつけられてないみたいで、なるほど画面に指紋が目立つわけだ。
そこで、もしやと思って、ついでのつもりで電源に触れてみると――やはりというべきかも知れない。ロックがかかっていなかった。
これを拾ったのが先生だったから良かったものの、普通に考えて、女子高校生がスマホにセキュリティの一つもかけていないというのは、珍しいというよりも危険だ。慌ててすぐに電源ボタンを押して画面を閉じて、深く息をついて考える。
同時に、反面、前長さんらしい――とも思っていた。
頭の中にもう一度彼女の顔が思い浮かぶ。
不思議な、女の子だった。
不思議と言っても、佐藤先生のようなものでもなくて、それより、もっとこう……一言では言い表せないような神秘的な雰囲気が感じがする子だった。
すごくかわいくて、運動神経がよくて、席は、京香の隣。同性の自分でもドキドキするような、細くて長いきれいな手足に長いまつげと、ヨーロッパ出身のお母さんから遺伝したという、金色のつやつやなサイドアップヘアが特徴的だった。
女の子としての理想的な見た目と、それでいて人懐っこい素直な性格が合わさったからなのか、一躍人気者になった彼女はあっという間にクラスに溶け込んでいった。
京香自身も、仲良くできたらいいなと思っていた。実際、席が隣同士ということもあって、転校してきてから最初の一か月は、話す機会もちゃんとできていたし、時々学校の行き帰りも一緒になったりした。
だからきっと、ずっと仲良しでいられると、思っていた。
それが、どうしてああなってしまったんだろう。
前長さんは、京香から少しずつ遠のいていった――。
その途端に、思い出したくもない記憶が一気にぶり返しそうになって、とっさに耳をふさいだ。あの人たちの忌々しい笑い声が聞こえてきそうだった。
どうして離れていった?
それは、あの人たちに、何か言われたから。
浦部さん。川崎さん。加藤さん。
三人の薄ら笑い顔が、頭の中に、黒い靄からぼうっと浮かび上がった。
一か月ほど前。いわゆる「いじめ」という行為が行われ始めた頃。昼休みの時間、前長さんの机があの三人に囲まれていた。そのときトイレから戻ってきた京香に気づいた加藤さんが、面白がるように京香を指さす。直後、四人の視線が一気に京香に注がれた。
「な……なに? どうしたの?」
当時、まだその三人は、京香に対して時々「ウザい」とか「キモイ」とか、今にしてみれば軽い悪口を言う程度だった。そういう茶化すような発言は普通の友達同士でもありがちなものだったから、京香はいじめられているということがよく理解できていなかった。
だから、つい聞いてしまった。
といっても、聞いても何も帰ってこなかった。浦部さんと、川崎さんと、加藤さんはニヤニヤといやらしく笑って、しばらくすると我慢できないといった風に口元を抑えて背を向けた。
前長さんだけは、何が面白いのかよくわからないといった様子で、ぽかんと首をかしげたまま、不思議そうに京香を見つめていた。
それで、すべてを悟った。
同時に、理解できなかった。
前長さんは、この三人に何を言われてしまったんだろう。
それは今でもずっと合点がいかないままだった。京香が理解しているのは、その日を境に、前長さんとの間に溝が生まれた、ということだけだ。
「……はぁ」
深呼吸をすると、少し落ち着いた。
実際のところ、前長さんは、あの三人のいじめに加担したためしはない。だけど、周りの女子のクラスメートがそうしていたように、みんなの前では少し避けるようなそぶりを見せていたのは確かだった。
それでも、信じている。
心の奥では、きっと前長さんもこんなことは望んでいないと信じている。それを京香に思わせる確定的な出来事があったのは、京香が学校に行かないことを決める二日くらい前のことだった。