Chapter 22 下町京香
――学校から、生活保護のことで話があるって。
叔母さんの、ひっそりとした声が耳に残っていた。すぐに遠のいた。
京香は久しぶりの制服を着こなしながら、考える。
生活保護。
いつか、公民の授業で教わった。
国民の生存権を守るためだとか、そういう理由で、京香のような生活困窮者には行政から手当が出されることになっているという。
学校の先生たちが京香にそれを勧めたのは、「事件」が起こるよりも一ヶ月ほど前のことだったと思う。と言ってもまあ、常識的に考えて、両親がいなくなって、事実上の一人暮らしにされてしまった生徒のことを教師が見過ごすはずもないだろうが。
今でこそ、電気や水道の公共料金のぶんは、お母さんの銀行口座に余っていたお金でやりくりしているにしても、それが尽きるのも時間の問題だ――ある先生が言っていたのを思い出す。
そんなこと、どうだっていいのに。
ちょうどいいと思っていた。
せっかく、疎ましいと思っていた両親が死んでくれたんだから。
このまま自分も家で野垂れ死んで、誰にも見つけられないままいたかった。せいぜい自分がここに生きていた証拠がなくなっている時に見つけて欲しかった。なのに。
どうして皆、自分なんかのことを必死に助けようとするんだろう。
靴を履いて玄関扉を開ける。
腹立たしいほど、空は青く晴れている。五月も下旬に差し掛かる頃だ。さんさんと降り注ぐ日差しに照らされる。少し汗ばむような陽気が、体を包む。
「おはよ、京香ちゃん。……って、もうそんな時間でもないか」
電車から降りると、ホームに叔母さんがいた。
黒のスーツとタイトスカート姿で、手に鞄を下げている。さっきホームに降りたばかりみたいだった。艶やかな栗色の長髪が風になびいている。
京香の乗ってきた電車がホームを離れていく。
そのタイミングを合わせるように、叔母さんは「行こっか」と京香に言った。それで無意識のうちに下に向けていた顎を持ち上げて、頷く。
行きたくないとは、言えなかった。
駅の改札を出るとすぐに、大きな道路があって、その隅の電柱に、京香の所属する高校の名前が矢印とともに掲げられている。その文字が京香に、鬱屈とさせる印象をよこす。
『県立 三生高等学校』
ふたりで、誰もいない昇降口をくぐる。六時間目の授業中ということで、校舎は静まり返っていた。体育館から聞こえる生徒たちの掛け声がやけに耳につく。
来客用のスリッパを借りる叔母さんと一緒に靴を履き替えて、職員室へ向かう。
廊下を歩きながら、京香は内心ほっとしていた。
自分の上履きや席が落書きだらけになっているんじゃないかと思っていた。よくドラマなんかで見る『いじめ』がそういうものだったから。ああいうのは大抵、椅子や机に、自分が今までことばで言われて来たように――死ねとかいう悪口が書いてあるものだから。
――もしも叔母さんの目の前でそんなのが露わになっていたらと思うと、お腹の底がきゅっと冷える。
「……どうする? おばさんがノックしようか?」
そんなことを考えていたら、職員室の目の前まで来ていたのに気付かなかった。不意に隣から声をかけられて慌てて首を叔母さんの顔に向ける。
互いの目が合う。京香が首を振ると、それを合図にしたように叔母さんは優しく微笑んだ。
「……うん」
京香はそっと頷いて扉を叩く。声をかけると、すぐに女の先生が出てきた。その人に用件を伝えると程なくして男の先生が入れ替わりで現れる。
「こんにちは」
池田先生。年の頃なら三十代くらいの、学年主任の先生。大量の紙が挟まったバインダーを手にして、切れ長の目を京香の方に向けている。
身を縮めてぺこり、とおじぎをする京香に、池田先生は、
「はじめまして。学年主任の池田と申します」
隣の叔母さんに、頭を下げて挨拶をする。
「久しぶり、京香、元気してたか?」
「はい」
京香が小さい返事を返すと、池田先生は再び背筋を伸ばして叔母さんの方に向き直る。二人は二三言葉を交わしあってから、
「今日は、生活保護の件でしたが、立ち話もなんですから、どうぞこちらへ」
バインダーを脇に抱えた池田先生は、京香と叔母さんをそれぞれ一瞥してから、片手を広げてどこかへ案内しようとした。
と、そこで何か思いとどまったのか、一度動きを止めて京香を見る。
「そうだ。京香は、どうする?」
そこで言葉を区切って、今度は視線を叔母さんの方に移した。
「いえ。本人に話を聞かせるかどうか判断に迷いまして」
――その言葉に、少し考え込む。
頼りにしていない人を頼りに、話し合わなきゃいけないんだ。自分自身の問題だとはわかっていても、どうしてもその思いが胸につっかえて、池田先生と話すのは少し気が引ける。
それに、いつしか人と話すことが「苦手」になってしまっている自分に、うまく話し合いがこなせるだろうか不安だった。どうせ自分の思いをぶつけられないんだったら、もどかしさを感じるくらいだったら、圏外にとどまっている方がいいに決まっている。
それに――。
何より、あのセリフだけは言われたくない。
大人が可哀想な子供に使うあの同情のセリフ。それを言われたら、無性に悔しくなって泣いてしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。
――身勝手な結論だとは、自分でもわかっているのだけど。
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