紅菫の乙女
「ネロ家って……噂にしか聞いてませんでしたが、すごい大商家なんですってね」
新年早々、コルポス王妃として擁立された元ミナス神殿の巫女、ラクリマ嬢の素性が巷では詮索され取り沙汰された。それに伴い彼女の実家の宗家にあたる豪商、ネロの連合王国に対する援助などが持ち上がり、ルトゥーム卿はその対応に追われていると聞く。
「援助が打ち切られても受けすぎても面倒な相手だからな、ほどほどの貸し借りで済むように、気の抜けない交渉を続けているようだ」
メリサはエリモス王宮の控えの間で、公には会えない客人と対話していた。サヴラ王が連合王国騎士団に復帰して以後、メリサは王妃の補佐を受けながら摂政の務めをこなしていた――基本的には、南部の遊牧民らの対応、およびその対策の薬材の輸入管理に集中している。熱砂病の脅威を完全に取り除くまでは、と自ら父に懇願して受けた任務だ。
「アークス卿は……最近は、どのようにお過ごしで?」
「フレトゥムの勢力をごっそり削ったところなんだがな。まだ不安材料がないかどうか、そっちのほうに視察に行ったりもしている」
「そう……ですか……」
エリモスが危うかったのは先年までのことだ。その懸念が取り除かれた今、彼がそうそう訪れることもないのだろう。あの災厄あっての出逢いだったのだと思うと、何とも皮肉なものだと、思う。
「それと……他にも少し、気になることがあってな。ルトゥームらがデオス教徒の動きに不穏なところがないか、時おり報告が欲しいと言ってきている。お前――いや、貴女にも無関係の話ではないからな、充分に気をつけてくれ」
「はい……有難うございます。こちらは、その辺りはキニスに協力してもらっています」
「信用できるのか、あいつは」
眉を顰めるアークスが可笑しくて、メリサはかすかに微笑んだ。
「どうでしょうね、彼は『アークスの旦那を敵に回すようなことは、なるべくしたくない』と言っておりましたから。頼みにしてもいいと、思っておりますよ」
暫しの沈黙ののち、アークスが手を伸ばしてメリサの耳飾りに触れた。さらりとメリサの金褐色の髪が、髪を覆うヴェールの隙間から零れ落ちる。そのまま少しだけメリサは彼に寄り添い、束の間の至福の時に浸った。
*
その後メリサ王女は、リヴェルリ王の即位までエリモス王国の摂政を務め、引退後はストリディ諸島の離宮に居を移すこととなる。彼女は公の場では常に、菫の花を象った耳飾りを身に着けていたため、”紅菫の乙女”とも呼ばれた。
彼女は生涯独身で過ごしたとも、離宮にて父の知られぬ子を産み落としたとも伝えられている。だが、今となってはその真偽は、定かではない。
<完>




