新年の宴(1)
結局、エリモスの傭兵部隊にそれらしき入隊希望者が現れたという話は聞いていない。旨味のない話だと判断されてしまったのだろうか。まずい対応をしたものだと、メリサは今になって後悔している。
本来はこういう場合、由緒ある家からの推薦状などが決め手となるのだ。あの時ほどほどに裕福そうな身なりの娘を助けたのは、一食や装飾品の一つで片づけられてしまうような縁が目当てであったわけではない。あてのない旅の傭兵としては、そこから親に紹介されて……というコネが繋がることを期待していたのであろう。
身元がばれる危険を冒してでも自分の名で紹介状を書いて、しっかり封蝋して持たせてやればよかったのではないか――『人との繋がりは大事にせよ』という父の教えが、全然実践できていない。まだまだ自分では役者不足だ。
「メリサ殿。聞いておられますか」
険のある低い声に咎められ、メリサは我に返った。自分より僅かに前方を歩いていた、父王よりは若いが相応の歳を感じさせる威厳を持つ、黒衣の騎士が振り返りこちらを見ている。
「すまない。どうも緊張しているようだ――いかんな、こんなことでは」
過ぎ去った年の出来事など気にしている場合ではない。もう年は明けたのだ。そして自分は今、コルポス王国の宮殿の門をくぐろうとしている。一国の王族としてではなく、新参の騎士として。
今まで不甲斐ない自分を厳しく鍛えてくれた、父王の信頼篤いティグリス卿。その小柄ではあるが頼もしい背中を眺めながら覚悟を決める。彼に頼れるのも今日限り、よくて2~3日後までだ。以後は同年代の騎士らの集まる営舎に配属され、集団生活を余儀なくされる。
思わず自分の身なりを確認してしまう。身に纏う黒衣には、胸部にエリモスの紋章である赤い獅子と、金の葡萄の蔓が印されている。太陽神ソールの眷属である『権威の獅子』ディエースと、実りを司るトゥレラの象徴たる葡萄の組み合わせだ。ちなみに属領の領主であるティグリス卿は、同様の黒衣に黄色い豹と銀の葡萄の蔓の組み合わせであり、見る者が見ればその縁戚関係がわかることだろう。
胸は布できつく締めあげていて、上半身だけなら裸になってもすぐにそれとは判るまい、とは思うものの。まったくの不安がないとはとても言えない。何しろティグリス卿が言うには、営舎の寝所は二人一組ということだから――
「メリサ!」
緊張していた最中にかけられた明るい声に、思わずそちらのほうを振り向くと、背の高い銀灰色の髪の青年の姿があった。明るい青色の衣に金色の斜線が入っていて、その上を白い鳥が舞っている。北方で絶大な信仰を誇示する『氷雪の賢女』こと女神ウェネフィカの象徴。それを身に纏う青年の水色の瞳は、メリサもしっかりと覚えていた。
「アルデアじゃないか! 久しぶりだ」
連合王国中で最北に位置する国、グラシエスの王子だった。連合王国に加入するのが最も遅く、その際サヴラ王が心を砕いて説得にあたったと聞いている。そのため父王同士の親交が深く、数年前に彼はエリモスに遊学に来ていたのだ。もっとも二歳年上の彼はやはりこの騎士団に加入したため、ここ数年は音沙汰なかったものだが。
「とても背が伸びたのだな。すっかり置いてかれてしまった」
「メリサもそのうち、すぐに追いつくよ」
至って悪気のない彼の言葉には、力なく微笑むしかなかった。そもそも北方人のほうが大柄な傾向にあるというのは置いておいても、ありえない話だからだ。女の身で、これ以上背が伸びるとも思えない。
「よいよい、賑やかなことじゃ」
やや場違いな呑気そうな声がさらに加わり、その出どころを探ると、ティグリス卿よりもさらに小柄な褐色の肌の老人の姿があった。存命する連合王国の騎士の中では最高齢のはずの――ソフォステラの最長老の地位にあるタルパ卿だ。もっともメリサをはじめほとんどの者が『長老』『老師』と呼ぶことのほうが多いのだが。単なる一介の騎士とは格が違う扱いなのだ。
「タルパ老師も、お久しぶりです」
幾人かの知った顔に会えて少しばかり、緊張が緩んできた。何しろタルパ老師もティグリス卿と同じく、メリサの秘密を知る数少ない人物だ。女神ミナスの予言の解釈を試みて、父王がわざわざエリモスに招いたことすらある。以後メリサのことをずっと気にかけてくれている。
「そうそう、お前さんにこれを渡しておこうと思うてな」
老賢者がメリサの手に何か固いものを握らせた。掌を開いて見てみると、古びた真鍮製の鍵だ。
「儂にあてがわれた部屋じゃが、医局のすぐ隣にある。儂はわりと留守にしておるからの、何ぞ困った時には使うがよい」
「……ありがとうございます!」
同室の者にどうしても見せられない着替えの時などを考えると、確かに重宝するだろう。これで心配の種が随分と軽くなった。すごく心が前向きになれた気がして、とても嬉しい。
気持ちを新たに大理石の宮殿内を巡らすと、やはり着ている上衣の色でどこの国の出身なのか、が見てとれる。緑色の衣は草原の広がる遊牧民の国、リヴァディのはずだ。統一戦争の英雄譚にもある通り、代表氏族の長は現コルポス王の養父ともいえる、強い絆で結ばれた同盟国だ。別格で優遇されていることは間違いない。
紫の衣は……銀や黒などの差し色のばらつきが激しいが、確かコルポスの北東の山岳地帯が領土である、ヴノのはずだ。交通の便があまりよくないため、氏族ごとの差が強く出ているらしい。筆頭氏族はこちらも統一戦争の初期に加盟していたはず。やや領土の狭い国とはいえ、鉱山資源が豊富と聞いていて、やはり軽視できない。
タルパ老師も纏っている薄黄色の衣は、ソフォステラのものだ。各国の中で最も質素倹約を貫いていて、身に着けている装飾品などもひときわ少ない。ソフォステラの騎士はその性質上文官扱いされることも多く、タルパ老師や噂に聞くルトゥーム卿なども、王室顧問のような待遇であるらしい。
あとはエリモスの黒、グラシエスの明るい青などが見かけられ、コルポスは濃い紺色のはずだ。氷を連想させるグラシエスの青とは違い、カルディヤ海の深い青が思い起こされる。コルポスの守護神は嵐を司る戦神ヴェルテクス、そしてその眷属である『波濤の銀狼』セイリオス、もしくはその化身とされる六条の銀光の星が象徴で――
そこでふと、メリサは思い至ることがあった。どこかで見た気がする? いや、騎士の上衣や紋章旗ではない。もっと小さな、一瞬の出来事で――
式場内に、大きな角笛の音が響き渡った。新年最初の式典が今、始まろうとしている。
この式典の最も重要な催し物は、新規に参入する騎士の紹介を兼ねた御前試合だ。当然、メリサも騎士団の総帥にお目通りした後に試合に出場することになる。まずは総帥たるコルポス王にしっかりと礼儀に則った挨拶をしたうえで、試合に挑む気迫と集中力を整えなければならないのだが――
上座にしつらえられた玉座に歩み寄る人影を見て、その集中力が途切れそうになった。濃紺の上衣の上からさらに、贅を尽くした金糸の刺繍が施された紫のマントを羽織っている。濃い灰色の髪は結わえずに垂らされているが、瞳の色は以前にも見たことのある、海の青緑色だ。小さすぎてしっかりと確認できないが、左手の中指には指輪が嵌まっていて――それは多分、青い石の上に六条の銀色に輝く星の意匠が凝らされているはずだ。以前に一瞬だけ見た、彼の指に嵌まっていたものと同じ。
灰色の髪のコルポス人というだけでも、思い出してもよかったはずだ。彼の人はその髪の色と、国の象徴たる銀狼セイリオスになぞらえられた『コルポスの灰色狼』という異名を持っている。
だが、まさかあの時に、海を渡った砂漠の国にいたと誰が信じられるだろうか。コルポス国王、アステリ連合王国騎士団総帥、オルド神群最高神祇官を兼任する、ラプロ・エザフォス連合王国の宗主、エクェス・デクスィア=ヒェリ・カエシウス。
その人は、メリサの出会ったアークスという名の旅人と、同じ髪色と瞳の色と顔の持ち主だった。