聖血の壺(1)
「皆、メリサのために迷惑をおかけした。申し訳ない」
父王の寝室に通されたアークス、ルトゥーム、パルウ、ネブラら4人の連合王国の騎士は、床から半身を起こした状態のサヴラ王から声をかけられ、礼を返した。メリサは父の傍に付き添った状態で、彼らを見つめ返した――騎士の姿で、ではない。女物の衣装で、病床の父の状況を鑑みて、華美すぎない落ち着いた色合いの蘇芳色のドレスを身に着けていた。ヴェールは髪は覆っているものの、口元を覆う部分は取り除いてある。一般的に家族、親族の男性らに対する装いだ。古い考え方では礼を欠く振舞いととられることもあるのだが、メリサは彼らの前で顔を隠す気になれなかったのである。
「いえ、こういう事態を考慮してこその随行でしたので。当然のことをしたまでです」
アークスが言い切るのを聞いて、何とはなしに顔に血の気が上った。何故だかまともに彼の顔を見られなくなってしまって、メリサは思わず俯いてしまう。その後をルトゥーム卿が言葉を続けた。
「ですが、まだ安心はできません。あのヴァスターレという者、まだ姫のお命を狙っていることでしょう。こうなってしまった以上、姫は宮殿内で厳重にお守りする他ないのでは」
「そんな、まだ事態は何も解決しておりません。”熱砂病”の治療方法すら、見いだせていない状況なのに」
メリサが思わず身を乗り出してルトゥーム卿に反論しようとすると、彼は容赦なく言い放った。
「姫。それは他の者に任せればよろしいのです――もう茶番を演じる必要はないのです。ミナスの予言、『南天の凶相』とは、どう考えても禍つ赤星アダリス――『熱砂の王』の脅威のことと解釈できます。かの存在が力を取り戻すための、最後の鍵としての贄が貴女であると。それを彼奴の目から隠し通すことが、予言の真意だったのでしょう。それが露見してしまった以上、貴女が迂闊に動くことは許されませぬ」
反論の余地のない卿の言い切りように、メリサは瞳を翳らせて俯くほかなかった。
「メリサ、お前は下がっておりなさい――儂としてもルトゥーム卿の仰ること、尤もと思わざるを得ませぬ。こちらとしては至急ティグリス卿に伝令を出し協力体制を整えますが、皆様はいったんコルポスにお戻りくだされ。これ以上は我が国の問題です。協力を要請する可能性はありますが、それは武力においてではないでしょう。エクェス王ほか他国の王によろしくお伝えくだされ」
「ですが――」
アークスが何か言いかけたのを、傍にいたネブラが手で制した。もう片方の手で布に巻かれた『戦神の槍』を持っている彼は、常になく緊張した面持ちでアークスを見つめ、その後に首を振った。
「承りました。ですがこちらとしても少々、確認したいことがいくつか御座います。明朝まで、しばしこちらに滞在する許可を頂きたいと思っております」
二人の様子を把握しているであろうルトゥーム卿がサヴラ王に申し出、父はそれに無言で頷いた。4人が部屋を辞した後も、メリサの心は纏まらず、さざ波のように揺れ動いていた。
「本当に大変なことでしたね、メリサ君。しばらく、ゆっくりお休みくださいませ」
王子・王女らの普段の居室となっている”翡翠の間”にて、心配そうなエフィメロプテロ王妃に声をかけられ、メリサは力なく頷いた。この場にはパスハリツァ、リヴェルリの妹弟が、おそらく初めて異母兄と思っていた自分の女姿を目の当たりにして、どちらも母譲りの緑の瞳に複雑な表情を浮かべている。9歳のリヴェルリなどはどこまで事情がわかっているのやら、目を丸くして不思議なものを見ている、といった様子だ。
メリサはその鳶色の髪をそっと撫でで、哀しげに微笑んだ。彼が成人するまでは、と張りつめていたものが切れてしまい、自分でも途方に暮れているのがわかる。メリサよりも父に似るに違いない、と勝手な期待を膨らませていたこの少年に対して、自分がしてあげることはもう、このくらいしかないのであろうか……
「失礼致します。実は、卿のお一方が、面会を願い出ておりまして」
伝言を伝えに来た女官の話では、パルウだということであった。王妃が許可を出して彼を”翡翠の間”に通す。
「いや、済みません――連れがいろいろと今後の方針を話し合っているところなんですが、俺はお呼びでないみたいでしてね。姫や皆さんのご機嫌を伺ってこいと、放り出されて来ました」
宮廷作法に則っているとは言い難い不躾なもの言いではあるが、それが似合ってしまっているのがパルウなもので、どうにも憎めない。王妃もヴェールの陰で微笑を洩らしつつ、彼を迎え入れた。
「お気遣い、有難う御座います。メリサ君も心細くしていらした様ですので、歓迎いたしますわ。でもよろしければ、こちらのリヴェルリにも話し相手になってやってはくれませんでしょうか。自分が目標にしていた”兄”が突然居なくなってしまったので、この子にもショックだったようですのよ」
やはりそういうことだったらしい、メリサが苦笑してパルウに目を向けると、彼も彼でやや緊張していた相好を崩したようだった。
「いやぁ、それを言うならこっちにもそういうのがいますよ。俺だって、初試合でメリサ――姫に打ち負かされたのは、悔しいどころじゃないものでしたからね」
「そうは言っているがな、リヴェルリ、彼が私の代では筆頭騎士だよ。たぶん、今手合わせしたら、私が勝てる気がしない。あの時は油断を誘って狙っていったようなものだったからね」
「そうだったのですか?」
リヴェルリもやはり王族の男子に洩れず、騎士同士の御前試合の話題になると途端に目を輝かせる。メリサとパルウを交互に見比べて、興味深そうに話を聞いていた。
「でも、もう一人はそれどころじゃない落ち込みようですよ。姫と似たりよったりの女顔で今まで騎士仲間にもからかわれていたんですが、”一応”メリサには勝てている、というところで今まで自尊心を保っていたような奴がいましたからね。それが本当に女だったってわかってそのへんの気持ちがガラガラ崩壊しているところです」
「あ……」
誰のことを言っているのかわかったのはメリサだけではなかったようだ。隣にいたパスハリツァも、思わず口を挟む。
「ああ、もしやヴノの若君でいらっしゃいますか? 二月には、妹君と楽しくお話しさせていただいたのですが。私もびっくりしたのですよ、まさか兄より綺麗な殿方がいるとは思っていませんでしたから……」
そこかしこからも笑い声が上がり、不安に澱みがちになっていた宮殿内の空気がいくばくか、明るさを取り戻しつつあるように感じられた。
――まだ何も、解決してはいない。それを忘れてはいけないとは思いつつも、ここにひと時の安らぎがあった。