冬至祭(3)
「なるほど。これは確かに、いい眺めだ」
『朱椰子亭』の最屋上に位置する物見塔からは、エリモスの北部に広がるカルディヤ海の全景が一望できる。東にはその海に流れ込む、大河サナレ――エリモスの繁栄の基盤でもあり、『河の女神達』アデルフィアらの長姉として神格化されているそれが、その壮大さを物語るように存在を主張している。
そのカルディヤ海の向こう岸に見えるのが、コルポス王国。自分の目指す場所がそこにある。
本当に、数奇な運命だ――予言を司る月の女神ミナスより、『南天の凶相が消え去るまで、その姿を偽り育てよ』という神託が、メリサの誕生時に告げられた。それを無視できない不吉なものと感じた両親によって、メリサは王子として育てられたこととなる。
予言の戒めが解かれるその時は、暦に詳しいソフォステラの老賢者ですら見当がついていない。神託を守り通したその先に待っているのが、この広大な碧い海の向こうにそびえる連合王国騎士団の本拠地、コルポス宮殿ということになるわけだ。
思わず、ある詩の文句が口をついて出た。亡き母が幼き頃のメリサに語り聞かせていた、どこか風変わりな内容の童唄。
『道に迷って困っていた花売りの娘は、戦を終えた帰り道の兵隊さんに会った。
兵隊さんは道を教えた。「この河を下っていくといい」
兵隊さんは火串をくれた。「何かの役に立つかもしれないよ」
娘が河を下っていくと、火串を河に落としてしまった。
そしたら河の精が出てきて言った。「この火串は熱すぎる、はやく持っていって」
娘は別のもっと大きな河にやってきた。また火串を落としてしまった。
その河の精が出てきて言った。「暖かいね、もらってもいいかな」
娘が火串を与えると、河の精は言った。「お礼に家を用意してあげましょう」
娘は河の精のくれた葦の家で、その後を幸せに暮らしたとさ』
「変わった歌だな、聞いたことがない」
「そうなんだ、私にもよくわからないんだ――ただ何となく、歌いたくなって」
その理由は薄々自覚してはいる。今後は人前で歌うことは許されないだろうからだ。今年の晩夏に17になって、今後コルポスの騎士団の営舎で生活することになる。宴で歌唱を披露する機会がないとも限らないが、この歳でこんな高い女声を出していいわけがない。その最後の歌を、何故か今、彼に聞いてほしいと思ってしまった。穏やかに自分を見つめる、深い青緑色の瞳を前にして――
「ああ」
ぽつりと、メリサは呟いた。そして視線を眼下の碧い海に戻す。
「貴方の瞳は、この海の色みたいだと思ったんだ――」
嘘偽りのない気持ちが、自然と口をついて出た。それを聞いたアークスが、ふっと相好を崩す。
「それは、まるで口説き文句だな。何か期待していいのかな?」
言われるまで気づかなかった。そんなつもりで言ったわけじゃなかったのに。面白がっている様子のアークスを前に、なんとも居心地悪くなって、話を切り上げるためにとっておいた最後の手段を使うことになった。
「……今日はいろいろ、ありがとう。私にできる礼は、これしかない。どうか、受け取ってくれ」
先刻の騒動で鎖が千切れた『トゥレラの瞳』を差し出した。それを見たアークスははっとして、気持ち固い面持ちになる。
「いや、それは大事なものじゃないのか」
「いいんだ。私にとってこれの役目は今日終わったのだ。古くから幸運は渡り歩くものだとされている」
今日暴漢に襲われたところを救われた時点で、この護符はその役目を終えたのだ。その功績を挙げた彼にこそ、次に守りの加護が与えられるべきなのだ。
秋の実りを司る神トゥレラは、その象徴たる葡萄から作られる葡萄酒と、それがもたらす狂気や酩酊をも司る。そしてかの神は片目と引き換えに芸術の才を手に入れたとされ、芸術の神としても崇められる。その失った目を模したものが、狂気などの禍つものから身を守るとされる『トゥレラの瞳』であって、それは気紛れでひとつところに留まらないものなのだ――
躊躇いがはっきりと見てとれるアークスの手をとり、その大きな掌に葡萄の葉の形の護符をしっかりと押しつけ、メリサは逃げるようにその場を去った。一度も振り返らなかった。
急ぎ足で、宿に押さえていた一部屋に駆け込み閉じこもる。この隊商宿はメリサの乳母の縁故であって、メリサのことは承知の上でお忍びの際に使うことを了承してもらっている。自分の身を詮索するような輩がいても口を割らないだろうし、うまく誤魔化してくれるはずだ。
だからもう、戻らなくてはならない。エリモスの第一王子、メリサ・ルベルに。
部屋に置き去りにしてあった男物の衣服と長刀を眺めながら、メリサは何故だか哀しい気持ちになった。その気持ちに整理をつけるための、今日の外出であったのに。自分は何に、心惑わされているのだろう。