冬至祭(2)
「ここの魚料理は美味いと評判なんだ。私が保証するぞ」
安全な場所まで送っていく、と言って聞かない灰色の髪の男の申し出に気圧されたかたちで、最初に来た表通りを逆戻りする羽目になった。メリサが着替えを置いてきている隊商宿、『朱椰子亭』にはまだ距離があるが、礼がてら屋台の店に寄って一食奢ることに決めた。裂けたヴェールが目立たないよう、その端を器用に隠し持ちつつ、一見繁盛しているようには見えないやや辛気臭い内装の店に辿りつく。――こういう場所ほど案外に美味いものなのだ、そういう店を密かに発見して庶民の味を堪能するのも今日限りかと思うと、少々感慨深い。
魚介の旨味が凝縮されたスープと、出来たての白身魚の揚げ物を前にして、メリサは顔を覆う部分のヴェールだけを外す。もう少し高級志向の店では、女性のこういった振る舞いははしたないとされるものだが、最近はその慣習も緩くなっているし、何より異国の旅人らも多い大通りではそう気にされない。見咎められることも稀だ。
「そう言えば、名前を言っていなかったな。アークスだ」
言われて、一瞬返事に詰まった。メリサという名は男でも女でも通用する。わざわざ父がそういう名を選んでつけてくれたのだ。だが、一応こういったお忍びの時は別の名を使うようにしていた。
「――ロディア、という」
正確には母方の氏族姓だが、女性名でも通用する。全くの偽名とも言い切れず、本来女性であればメリサ・ロディアと名乗る。こういう場合、真実を口に出せない時は全くの嘘にもならないようになるべく心がけるものだ、というのが父の教えであって、メリサはそれに素直に従っていた。流石に本名のメリサ・ルベルと名乗るわけにはいかない。それでは氏族姓だけでこのエリモスの王族だとばれ、第一王子ということになっているメリサにとっては、顔を知る人から見ればたとえ女姿をしていても感づかれてしまうだろう。
「アークスは、エリモスの者ではないのだろう。どこから来たのだ?」
自分の素性を詮索される気まずさが先に立ってか、そう切り出した。彼は特に話し渋る様子もなく言葉を返す。
「ああ、コルポスにいた。連合王国の統一戦争が一段落したようだからな、他に雇い口がないかと思って、地方の様子見にあてもなくふらついている様だ」
コルポス。ラプロ・エザフォス連合王国の主導国で、エリモスからはカルディヤ海を挟んで北に位置する、現状での文明の先進国だ。歴史だけはエリモスのほうが古いが、それに甘んじていたことになるのか、一歩遅れをとっている状態にある。遅ればせながら近年になってエリモスもこの連合王国に加盟し――そして来年からは、メリサが父王の代わりに連合王国騎士団に加入する予定になっている、メリサにとっては無視できない話題の土地だ。
「コルポスかぁ。統一戦争も落ち着いたと聞いているしな。かといってエリモスにその手の働き口があるとすると……傭兵部隊かな。アークスなら歓迎されると思うぞ。馬に乗れるというなら尚更だ」
エリモスの傭兵部隊は地方部族の平定に駆り出されるものだが、何しろエリモスはだだっ広い砂漠の国だ。駱駝の活用はもちろんだが、戦闘時は馬の機動力が重要になってくる。コルポスはどちらかというと歩兵部隊が強いと聞いてはいるが、そのあたりはどうなのだろう――と、アークスを眺めていると、彼はどこか面食らった様子で呟いた。
「……随分その手の内情に詳しいお嬢さんだな」
しまった、口調からしてほぼ素に近い状態で話していた。良家の子女らしからぬ会話内容だ。気まずくなって黙り込み、白身魚の揚げ物に手をつける。衣がサクサクしていてその歯応えが心地よい。
目線が下に落ちて、アークスの左手の中指に嵌まる指輪が見えた。コルポスの成人男子の習慣で、書簡の封蝋を兼ねた指輪を常に一つ、身に着けていると聞いたことがある。やはりコルポス出身というのは嘘ではないようだ。しかし青い石の色が見えたのは少々気になる、印章指輪は基本的に金属のみで作られるはずなのだが……?
「……傭兵部隊の件は、参考にさせてもらうよ。それはさておき、国政のほうに問題はあったりしないのか? サヴラ王の具合が思わしくない、と聞いているんだが」
なかなか痛いところをついてくる。まさに問題はその部分なのだ。メリサの父、サヴラ王は晩夏に南部の視察より帰還して以来、熱病らしきものに患わされている。国内外を問わず話題の的になっていることだろう。
「……メリサ王子が代理として、連合王国騎士団に参加する予定になっている。その間はエフィメロプテロ王妃が摂政として、政を取り仕切るだろう」
「王妃は後妻なんだろう? メリサ王子と仲が悪いとかいう話はないのか」
「そんなことはない」
思わずむっとして即答してしまった。確かに内情を知らぬ者からすれば、王妃は先妻の子より実子のリヴェルリ王子を推そうとしているに違いない、ととられるだろう。それは半分は当たっているが、半分は外れている。彼女はメリサに分け隔てなどしない――メリサの事情を聞かされているのだから、尚更だ。
「そもそもメリサ王子には後ろ盾がない。ただ、リヴェルリ王子は幼な過ぎてまだ政務には就けない。その間の中継ぎとしてメリサ王子が立っているだけだ。そういう見通しが既に立っているのだから、今更騒ぐようなことは何もない」
小さな商家の出であったとされるメリサの母、ペタルダ前王妃と、有力貴族であるイメラ氏族のエフィメロプテロ現王妃では、その影響力は雲泥の差だ。自分でもなぜ父が、最初にそういう人を選んだのか理解できていない。若い頃の父王は案外にロマンチストで恋愛至上主義だったらしい、という話も聞かなくはないが、それはそれで後妻に思いっきり政治色の強い選択をしたのも何とも極端な話だ――まぁ、そういう話を抜きにしても、現王妃は申し分のない良い人だとは思っているが。
「そう言えば、メリサ王子は身体が弱いとも聞いているしな。それはそれで無理を推して騎士団に参加するというのも大変な話だが――」
「そう、その騎士団の話なんだが! 最近の活躍はどうなのだ、海の向こうのこちら側でも、そういう心躍らせる話のタネがないものか、期待されているのだぞ」
アークスの話を遮るように話題を切り替えてしまったが、そろそろエリモスの現状を詮索されるのにも飽きた。自分が病弱だという噂が密かに出回っているのは、できれば騎士団に加入させるのをなるべく遅らせようとしていた父の魂胆と、リヴェルリ王子に代替わりする際にことがスムーズにいくようにという腹づもりの結果だ。実際には病気ひとつしたことのない健康体そのものだが、そんな話題にいちいち付き合うのも気乗りしない。
自分が参加するか否か、というのを抜きにしても、アステリ連合王国騎士団の英雄譚はカルディヤ海を囲む国中の人気の話題だ。メリサとて幼い頃からその冒険譚にはわくわくして聞いていたものだ。騎士団の総帥たる現コルポス王の、その生誕直前より語られる物語。
謀反を企てた叔父により宮殿を追放された母君が産み落とした、父を知られぬ双子の赤子は、コルポスを流れるミセラティオ河に流され、カルディヤ海の東岸を領土とする騎馬民族の国、リヴァディの代表氏族の長の手で育てられたと聞く。
リヴァディの長の子との熱い友情、叔父王との再会と復讐、その最中に兄を庇って命を落とした弟君の悲劇、その後の周辺諸国との同盟を結びつつの連合王国の形成過程。これらがいわゆる『統一戦争』のあらましなのだが――男女問わず(とはいえ、メリサの思考的には男子寄りの血沸き肉躍る冒険活劇として)鮮明に印象づけられている。それらの最新の動きが気になるのは当然のことだ。
それはそれで話しにくいのか、アークスは先程までのメリサのように、やや気乗りしなさそうな態度にトーンダウンして語り出した。
「……だから、統一戦争が一段落したから、最近はそこまで話題になるようなことがないんだ。強いて言えば、その際に古参の騎士が大勢亡くなったからな。そろそろ新参の若い騎士に代替わりして、今後その活躍が期待されるところだ。特に目立つ人材と言えば――ソフォステラのルトゥーム卿かな。一昨年騎士団に加入して以来、その頭脳明晰さを買われて、若年ながら鳴り物入りで内務に貢献している」
ソフォステラはエリモスの東に位置し、俗に『賢者の国』とも呼ばれる、連合王国の中で唯一世襲制でない国だ。学問が発達していて優秀な神官・学者らが多数輩出されている。ルトゥーム卿という名前は聞いたことがあった。ソフォステラの最長老、タルパ老師の最後の直弟子で、僅かばかりかの老師と面識のあるメリサにとっては気になる人物なのだが、顔を合わせたことは一度もない。その彼に会えるのかと思うとやはり、興味津々だ。
「そういうわけだ――あまり面白い話ができなくて、申し訳ないな。そろそろ『朱椰子亭』とやらに送っていくことにしよう」
気がつけば海の幸も食べ尽くして、すっかり長話に興じてしまっていた。確かに、これ以上与太話に付き合わせるのも礼儀に欠くところだ。だがしかし――
「あ、ちょっと待ってくれ。一ヵ所だけ、寄っていきたいところがある」
手早く店の支払いを済ませ、隊商宿の方向に目がけて突き進んだ。行く先が変わるわけではない。
「何、大して時間を取らせるものでもない――ちょっと見せたいものがあるんだ」
この時なぜメリサがそう思い至ったのか、自分でもわからない。ただ何となく、そういう気持ちが沸き起こっただけなのだ。