春の芽吹き(3)
「空気感染らしくなく、サナレの水でもない――とすると、例えばだが、オアシスごとの水に何かあるかもしれないな。南西部の遊牧民らの使う」
「それもありえなくはないですね。決定的なものは未だ見いだせていない状況ですが」
農地での去り際に教えてもらった、ワースティタースで遊牧民らの出入りが多い酒場に立ち寄ることにした。場末も場末、城下の通りの忍び歩きが趣味のメリサもなかなか近づかない区域に入り込むことになる。傭兵姿のアークスはともかく、メリサは少々浮いて見えるだろうか。いちおう、マントで胸の獅子の紋章は隠れてはいるが。
「エールを二杯――あと、他の客にも一杯ずつ。これで足りるか?」
アークスが銀貨を一枚、店主に手渡した。初手から大盤振る舞いでいくつもりだ。とはいっても他に店内にいる客は5~6名ほどなのだが。店の一角にかたまっていた彼らにもエールが行き渡ったところで、こちらもジョッキを片手に近づいていく。
「どうだい兄さん達、何かいい稼ぎ話はないかな」
アークスが言ったように比較的若い、赤銅色の肌の遊牧民らの集まりであった。少しだけ沈黙があったが、一番奥に座っていた濃褐色の髪の男が口を開いた。
「さて、最近あったいい話と言えば、今エールを一杯奢ってもらったことくらいかな」
男がエールを一口飲み干すが、その褐色の瞳は笑っていないように見えた。
「困っている話でもいいんだぞ。余所者に話して何か、いい話に繋がることもある」
「そうさな……部族の間でちょっとした面倒ごとがあってな。年寄りが病でくたばりそうだってんで、昔に部族から離れた縁者を探して遺産分けしたいとか、耄碌した記憶に付き合って人探しをしている状態だ。ったく、手がかりも碌にないってのに」
「それは確かに大変そうだな。で、この都に手がかりはあったのか?」
「いや。その老いぼれの記憶じゃオリナのほうだって言ってたんで、今までそっちを探していたんだが、あてがなくてここまで来てみた状態だ」
男がまた一口、エールを飲み干した。その目はアークスではなく、メリサのほうを向いていた。
「その年寄りがだな、何年前のことだか覚えていないっていうんだが、若い娘だって言い張るんだよ。どんな婆さんになっているのか想像もつかんのだがな。金髪に、紫の瞳だとか言っていた」
酒場が一瞬、静まり返った。話を続けている男以外も、メリサを見ている気がする。
「婆さんになっていたら、白髪でわからなさそうだな」
努めて平静を保ってアークスが話を続ける。
「そうだろう、だから困っているんだ――案外、そこの坊やに女物の服を着せて、適当に耄碌爺の話に合わせてやりゃあ満足するんじゃないのか、とも思っているんだがな」
「……そんなにはっきり金髪とも、紫の瞳とも言えない色だと思うんだが」
居心地が悪くなってメリサが口を挟むと、男が喉の奥で笑った気がした。
「駄目かな。老いぼれの目を誤魔化す程度には、いけるかと思ったんだが」
男はエールを飲み干し終えると、席を立った。
「――まあ、ちょっとした冗談さ。何、流石にエリモスの騎士に縁者はいないはずだ。だがもしそんな娘を見かけたら、知らせて欲しい――俺はカルヴノ氏族の長、ヴァスターレだ」
濃褐色の髪の男、ヴァスターレに続いて、他の男達も店を出ていった。
「妙な話だな」
妙どころで済ませていいものだろうか。メリサには不吉なものしか感じられない。
「本当にその人物を探しているように見えなかったな。適当にそれらしい者を仕立て上げて、その遺産とやらをいただく腹づもりなのかもな」
薄暗い店の中に、二人と店主だけが残っていた。口髭の店主がポツリと呟く。
「最近、急に出入りが増えましてね。ここに来れば繋ぎがとれると思いますよ」
「そいつはどうも――ご馳走様」
王宮への帰路の間、時おりメリサは背筋に妙な不快感を覚えていた。宮殿まで直行する気になれず、二人して表通りを少々ぶらついて気を紛らわせながら、夕暮れより少し前に帰り着いた。
――そして、夜は夜で別のやるせない感情につつまれていた。
「ああ――よかった。待たせていなかっただろうか」
「い、いえ別に、そんなことは」
本当に、何がどうよかったのかわからない。いつもはどちらかというと固めの表情を崩さないアークスが、妙に安堵した表情を見せているのがよくわからない。嬉しいのか、変な感じがするのか、自分でもわからなくなってくる。ショールの端で口元を隠しながら、香草の芳香が漂う月夜の庭園に佇み彼を待っていた間、メリサは湯上りの朦朧とした脳内でそんなことを考えていた。
「それで――以前、お守りを貰っただろう。あれの礼ができないものかどうか、ずっと探していたのだが。どうにも、いいものが見つからなくてな――気に入ってもらえるだろうか」
彼が差し出したのは、月の光を照らして鈍く輝く、銀製の透かし彫りの葡萄の葉だった――『トゥレラの瞳』の別の色の組み合わせだ。赤葡萄をイメージした金の葉に紫の石の配色に対し、白葡萄をイメージした銀の葉に翠の石を配したもの。そういえば今日の帰り、雑貨屋を覗いていた時のあれか! と理解し少し脱力した。そのための時間つぶしだったのかと思うと何とも複雑な気持ちになる。
「以前貰ったあれに比べると、なかなか細工に納得がいかなくて、迷ったのだがな。だが、幸運というものは他者から譲り受けることが大事なのだろう。俺が貰ったものほどの力はないかもしれないが、それでも、少しでも分け戻すことができればと思ってな」
それはそうだろうと思う。確かあれはヴノの鍛冶師に特注したとか父が言っていた。あれを先に見てしまったらどれも見劣りしてしまうに違いない――ただ、それでも嬉しいと思ってしまった。
「あちらの色のほうが、どう考えても貴女には合っているとは思ったのだがな。こちらの色を着けた姿も、見てみたいと思ってしまって」
「そ、そこまで気にするほどのことでもありませんが――ありがとう、ございます」
今の状態では色がどうとか気にする状況ではないと思うのだが、素直に受け取っておくことにした。受け取ろうとしたら彼が後ろにまわって、銀の鎖の留め金をとめてくれた。その後でメリサの長い波打つ髪を掻き上げ、鎖を髪の下に落ち着かせる。メリサの前にまわってその首筋を眺めた彼が、すこし目を細めたような仕草ののち、溜息をついた。
「明日は、私はコルポスに戻ることになります――またエリモスに来る機会は、何度かあると思います。この次も、会ってもらえるだろうか」
「え……そ、それは、確実にお約束できるものではありません。未来は、誰にもわからないものでしょう」
今回のような随行の視察ならともかく、一人で勝手に来られても対応できない。そうは言っても、本当はほぼ常に会っている状態なのに。なんだかその部分に関しては、面白くない気持ちになる。
「……わかりました。それでは、一年の間、待っていてもらえるでしょうか。それまでに、必ず会いに来ます」
右手を取られて、手の甲に口づけられた。まるで英雄譚の一幕にあるような、騎士が姫君に対する態度だ――自分がされたことなのに、なぜか他人事のようにそれを眺めていた。
「それでは――良い夜を」
「え、ええ、良い夜を」
なんだかんだありながら、最後にあっさり去っていった彼の後ろ姿を茫然と見つめながら、メリサもはっと我に返り、落ち着かない心持ちのまま自室まで戻った。
翌朝、目が覚めた時に、貰った護符を首に着けたまま寝てしまったことに気がついた。朝日の下では、その銀細工の中央に嵌められた石は、緑にしてはかなり青みがかっているように見えた。