春の芽吹き(2)
「待て! 待ってくれ」
反射的に身を翻し駆け去ろうとしたところを、それよりも速くショールの端を掴まれて、動きを止められてしまった。ショールが頭から落ちかけて、この夜闇でも比較的目立つ金褐色の髪が、彼にも見えてしまっているだろう。
――どうしよう。先程までうっかり口ずさんでいた唄を聞かれていたのだろうか。メリサは彼に顔を背けたまま、どう応えようか、完全に混乱してしまっていた。
「……済まない。いきなり不躾で申し訳ないが、以前にも会ったことがないだろうか?」
もう何度も会っているだろうに、と毒づきそうになって、すこし思考を落ち着かせることができた――おそらく彼は、今の自分を『メリサ王子』だとは思っていないのだ。そうだ、確かに先程の唄は『あの時』以来、口に出していない。この月明りでは、姿ではなく声のほうで判断されているのだろう。
「いや、あの、決して変な意味ではなく。……確か、そう、去年の冬の城下で。祭りの時だった」
『変な意味』というのは、昔乳母が教えてくれた、巷によくいる『知人と間違えたふりをして婦女子に声をかけて親しくなろうと画策する』輩のことだろうか、などと余計な豆知識を脳内から引っ張り出したりしてみたが、まだ自分の頭を完全に落ち着かせるまでには至らなかった。
引っ張られていないほうのショールの片端で口元を覆いつつ、メリサは恐る恐る彼のほうを振り返る――駄目だ、暗すぎてどういう表情をしているのかわからない。だが、向こうも困惑しているような気がする。いつもの彼らしい喋り方ではない。
「ああ、俺は――アークス、だ。そちらは……ロディア、という名ではなかったか」
まさか偽名をしっかり覚えられているとは思っていなかった。わざわざ知っている名前を改めて告げられるとも思っていなかった。どうにか言い逃れようと思うにもそのすべが思いつかず、メリサはついこう返してしまった。
「……はい」
見えない彼の表情が何故か、安堵したように思えた。しまった、知りません人違いですと言って走り去ればよかったと今更思い至ったが、既に後の祭りだ。
「そうか。よかった……そうか、王宮勤めの方だったのか」
何がどうよかったのかわからない、という態で無言で佇んでいると、その微妙な空気が伝わったのか、彼がさらに普段の彼らしくない態度で話しかけてきた。
「ああ――そうか、俺のほうがここにいるのが変に思えるのか、そうだろうな――済まない、以前出会った時には本当のことを言ってなかった。俺はコルポスの騎士だ。前回は王命での視察だったんだが、今回は、メリサ王子の随行で来ている」
それは知っているし、それ以上のことも知っている。何故わざわざ知っている話を二度聞かねばならないのだろう――やっぱり先程の問いに応えず逃げ去っていればよかった。なんだか彼に無駄な話をさせているのが心苦しくなって、つい口を開いた。
「そう、でしたか……それでは、遠路お疲れのことでしょう。どうか、ごゆっくりお休みくださいまし」
一礼して礼儀正しく場を去ろうとしたのだが、先程放されたはずのショールの端を再び掴まれた。
「いや、その――せっかくまた会えたのだし、これも何かの縁ということで、少しいろいろ聞きたいことがあるのだが」
なんだかやはり、いつもの彼らしくない。あとやはり乳母が以前に言っていた『せっかく』とか『これも何かの縁』とかいうのもそういう輩の常套句ですよ、という警告を思い出したのだが、アークスがそういう輩のようなことをするとも思えないし。何とも、変な状況になってしまったものだ。
「あまり長い話にならなければ――少しだけでしたら」
別に今後の予定などないが、長く話しすぎてボロが出てもまずい。メリサがそう告げると、また彼はホッとしたように軽く息をついて言葉を続けた。
「……この間はいろいろ、世話になったな。ご親族に礼ができれば、と思っているのだが、やはり家の方も王宮勤めでいらっしゃるのか」
「え、その……母は、亡くなりました。父……の名を言うことは、許されておりません」
「そ、それは済まないことを聞いた……申し訳ない、だが気に病まないでくれ。俺も母を亡くしているし、父を知らぬ日陰者だ。奇遇なことだな」
半分くらい誤解を招く言い方をしてしまったが、よくよく考えると彼のほうが不遇な人生を歩んでいることに気がついた。父を知らないどころか生まれた直後に河に流され、母君ともまともに言葉を交わしていないという話だ。病床とはいえ父は存命だし、幼い頃の母の記憶があるメリサのほうが、遥かに恵まれているだろう。
「では、後見の方はいらっしゃらないのか……?」
「……いえ、王妃様の庇護をいただいております。実の母のように接してくださいます」
「そうなのか、良い御方なのだな」
何となく父王のほうに話を持っていくのはまずいと思って母側の話ばかりしてしまっているが、どんどん墓穴を掘っているような気分になっていた。
「普段は、どのようなお仕事をなさっているのだ」
「……この宮殿では、この庭の手入れをさせていただいております。母の仕事を継ぎましたもので」
「そうか、綺麗な庭だな……つい目を惹かれて、踏み込んでしまった」
いい加減、自分でも口が滑りまくって余計なことを口走っているのを止めたい。彼が庭に目をとられている隙に、メリサは早咲きのカミツレを数輪摘み、その小さな白い花束を彼に差し出した。
「枕元に置かれると、心地よい眠りに誘ってくれると言われております。明日のお勤めに差し障りがあってはいけませんから、よろしければどうぞ――では、お休みなさいませ」
ほのかに林檎に似た香りのするその花を彼に押しつけるように持たせ、今度こそ彼を振り切って去ろうと決意する。
「あ……! 待ってくれ」
また掴まれた! 何度目だ一体、とは思うものの、無視できない自分が悲しい。
「その、明日も会うことは……できるだろうか」
まさかの予約取りつけと来た。これはもしかして、泥沼に嵌まっていく過程のような気がするのだが、気のせいだろうか。
「ぜ、絶対にとは、言いきれませんが……時間があれば、この庭にいるかもしれません」
「そうか。では、明日この時間に、ここで待っている」
他人の家の庭を勝手に待ち合わせ場所にするな! と思ってしまったが、了承してしまったものは仕方ない。そして今度こそ別れを済ませた。何故だか、非常に疲れた。
自室に戻ってすぐ、寝床に倒れ込むように寝転がった。髪に移ったカミツレの微かな香りが漂うなか、メリサは眠りの淵に落ちていった。
翌朝、城下及び農耕地帯の視察に向かうことになった。
「広いだろうから、馬をお借りできるかな。その後で少し城下にも足を延ばしたいが――どうかしたか、メリサ?」
「い、いえ、別に」
本当に大したことではない。ただ昨晩のことが気になってまともに彼の顔を見ることができなくて、終始俯きがちになっているだけだ。けろっと忘れたような顔でごく普通に話しかけてくる彼のことが何となく、恨めしく思えた。
それでも秋蒔きの小麦が刈り取られる風景が、心を穏やかにさせてくれる。
――この地を守らなくては。この国のためだけではなく、カルディヤ海全土の平和のためにも。そのためにも、このサナレ河の上流――南部で起こっている異変を軽く見てはいけない。
「すまないが、南部に詳しい者はいるかな。少し話を聞きたい」
作業の合間に幾人かに話を聞いたが、上流の水質に直接的な異変があるわけではない、ということだった。
「ただ――何ていうか、ですなぁ。少し西の遊牧民らの様子が少々、慌ただしい感じがしますなぁ。噂の病に関して、何か良い薬がないかどうか、出稼ぎついでに聞いてまわっているのでしょうかな。昨年お上に陳情しても芳しくない様子でしたから、尚更あてにできんのでしょうか」
そこを突かれると陳情された側としては辛いのだが。メリサは思わず溜息をついてしまった。