最初の試練(4)
「――どうしたの、メリサ」
部屋に戻った直後のアルデアの第一声がそれだったのは、無理もない。片袖を引き裂いて力なく俯いたままの同室者の様子は、どう見ても只事ではないと思えるだろう。だが、メリサは今日起こった出来事を彼に伝えることはできなかった。マグナム卿から口止めされてしまったからだ。
それでも目の前の、本気で自分を心配してくれる友人に縋りたいと、思ってしまった。自分の寝台に腰かけ、やはり視線は下に落としたまま、力なく呟く。
「……アルデアは、ここに来てから、何か失敗をしたことがあるだろうか」
「え……そうだね、色々ありすぎて何から応えようかな……」
すこし状況が飲み込めたようだが、メリサへの答えには返しづらいのか。アルデアは安堵したような困ったような表情でやはり寝台に腰かけ、言葉を続けた。
「僕はね、この宮廷の礼儀作法に疎かったから。後で浴場の休憩所で皆と話をして、まずいことやってたなって後から気づかされて、途方に暮れたりしていたよ――大丈夫だよ、まだ入ったばかりだもの、みんな大目に見てくれるよ――で、その失敗の内容は、詳しく聞いてもいい?」
彼の穏やかな言葉に涙が滲みそうになりながら、それでもやはり首を振った。その様子を見たアルデアはその水色の瞳を細め、立ち上がってそっとメリサの肩に手を置く。
「とりあえず、風呂に入ってきなよ。気分転換にはあれが一番だよ」
そこに異論はないが、どの程度気分が晴れるかは疑わしかった。
その後、休憩所などを覗いてみたものの、マグナム卿の姿は見かけなかった。もう日は暮れ、宮殿内の移動もしづらい頃合になってきている。明日改めて状況を聞くしかない、彼にしか聞くことはできないのだから――そうは思うものの、今晩は眠ることができるとは思えなかった。
朝の稽古に、マグナム卿は来ていなかった。寝不足にも関わらずまったく眠気のない状態でその日課を終えたメリサは、代理で場を取り仕切っていたグレモス卿に彼の居場所を聞く。
「総帥の執務室にいると言っていた――何か伝言があるなら、伝えるが」
「いえ、どうしても、直接お伺いしたいことがありまして」
簡潔に礼を述べてその場を辞す。執務室ならば話は早い、総帥の様子が直接窺える――手早く身なりを整え、足早に宮殿の回廊を突き進んだ。
滅多にやることではないが、いちおう、王族・準王族ランクの騎士らは単独での謁見が許されている。新米の若造が試みるのは印象がよくないかもしれないが、昨日の事件あっての今日だ、変に思われはしないだろう。追い払われたらその時はその時だ。
歩哨に「昨日の件で」と言葉を添えて取次ぎを頼むと、部屋に通された。中央奥の、大理石の執務机に座る人物と、その横にマグナム卿の姿が認められた。しばしば訓練を免除されて内務に就いているルトゥーム卿の姿は見えない。先程の稽古の場にもいなかった――少々不自然に思ったものの、この組み合わせは昨日の話をするには最適だ。
「よぉ」
あまり緊張感の感じられないマグナム卿の声に、そして何より平時と変わらぬ佇まいの総帥の姿に、とりあえずメリサは安堵した。
「申し訳ありません、昨日の件がどうしても気になって――あの、お加減は、問題ないのでしょうか?」
「え? ああ、心配は無用だよ、この通り」
「あの後、ルトゥームにも診てもらったんだがな。お前の処置が適切だったって、褒めてたぜ」
「そう、ですか……」
安心できる状況のはずなのに、何故か違和感を覚えた。総帥は署名し終えた書類を目の前に広げ、インクが乾くのを待っていたようだ。遠目にもわかる流麗な文字。右手の脇には筆箱が置かれていて――?
違う。確か総帥は……あの時の総帥は、確か……
視線を横に滑らせると、左手の青金石の指輪が見えた。確かに昨日も嵌めていた、だが……
メリサは、ごくりと唾を呑みこんだ。
「あの……」
口に出すのに躊躇いはあった。これは、もしかしたら、自分は言ってはいけないことを言おうとしているのかもしれない。だが、どうしても気になって、確かめられずにはいられなかった。
「本当に、大丈夫なのでしょうか?――昨日の、あの方は」
その瞬間、執務室の空気が凍りついたように感じた。総帥とマグナム卿の動きが一瞬固まったのだ――長くも短くも感じられたその時を過ごした後、総帥がふっと相好を崩し、メリサに穏やかな声で語りかけた。
「来なさい」
二人の後に続いて辿り着いた先は、宮殿の最上層にある総帥の寝室――に足を踏み込んだ後、その片隅に掛けられていたタペストリをめくり上げて現れた通路だった。
「さっき入り口が見えていたと思うが、あちらは基本的には鍵がかかっていてね」
狭い通路を通り、行き止まりに辿り着いた後、総帥は軽くノックしてからすぐに扉を開けた。
「入るよ」
相手側の了承を待たない早さで開けられた扉の先には、薄黄色の衣を纏った栗色の髪の人物と、寝床に入ってはいたが上半身は起こした状態の、灰色の髪の男性がいた――
「総帥」
ルトゥーム卿が眉をひそめてその名を呼んだ。その目はメリサを睨んでいる。何故ここに連れてきた、と言わんばかりの表情だ。
「仕方ないだろう、ばれてしまったんだ」
軽い口調でその批難の眼差しを受け流し、総帥はメリサを振り返り、部屋にいる人物全員が見渡せる立ち位置に動いてからこう告げた。
「私の双子の弟の、アークスだ。時折『影』を務めてもらっている」
「あれな、世間一般じゃ死人扱いになってるやつ」
そうだ、確かに統一戦争の英雄譚では、僭王から王位を奪還する際に亡くなったとされている。それが彼。アークス。間違いない、エリモスで出会った彼だ。
「訓練の初日――マグナム卿と手合わせされていたのも、そうなのですね」
目尻に涙が溜まった、しかしどこか喜びを隠せないメリサの様子に、マグナム卿も少々躊躇いつつ応える。
「まあな――何でわかった?」
「総帥は、右利きでいらっしゃいますよね。でも、あの時はどちらかというと左利きのように見受けられました。それで」
「……両利きに見えるように、していたつもりだったんだがな」
床に入っている人物がはじめて口を開いた。総帥と同じ声だが、どこか違うようにも感じられた――いや、こちらの声のほうが、メリサには聞き覚えがあると思えたくらいだ。
「アークス・アリステラ=ヒェリ・カエシウスだ」
全ての名を知らされ、やっと納得がいった。カエシウスはコルポス王族の氏族名だが、それ以外は古典語で総帥の名は『右手の馬』、彼の名は『左手の弓』を意味する。はじめから、対になっている名前なのだ。しかもその意味は、馬上弓の習慣のあるリヴァディらしい発想で、おそらくリヴァディの王によって付けられたものなのだろう。
「あの、お身体の具合は」
「問題ない。昨晩少し熱が出たくらいだ」
「メリサ、お前が気にすることじゃないぜ――あの時助けに入らなきゃならんかったのは、俺のほうだ。その前にこいつが先走ったんだから、自業自得だ」
「全くですね。立場に見合った演技ができていないというのは、少々問題ではないのですか」
怪我人に対して容赦のない声が二方向から上がったが、残った一人、総帥はそれをただ面白そうに眺めているのみであった。
「いや、面白いことになったね。気づかれるまでの時間、ルトゥームの最短記録を塗り替えたね」
「そうなんですか?」
「筆跡でバレたってやつだろ? あれも基本的に名前しか書かせていないのに、よく見抜けたよなってやつ」
「利き腕が違うとか、あんなに明確にわかるものを前にして、気づかない他の方がおかしいんです――まあ、私は内務に携わらせていただいているわけですから、他の方より有利だったかもしれませんが」
言われ放題のまま黙っている彼の左手の中指には、やはり青金石の指輪が見えた。
「その、指輪も……僅かに違うように見受けられましたが」
「お、そこにも気づいたのか」
「……書簡の偽造に使われたら大変だからな。ネフェロディス王が、わざわざ微妙に変えたと言っていた」
「元々はね、私達が見つけられた時に揺り籠に一緒に入っていた、一対の耳飾りだったそうだよ。だから二つ――もちろんこれも、機密事項だからね」
その機密事項とやらを何故か楽しそうに話す総帥と、どこか拗ねたようにそっぽを向いて黙っている彼と。顔も声も同じでも、いまはまるで別人に見えた。
「――あの、例の曲者の件はどうなったのでしょう」
「ああ、そっちはまだ調査中だ。生憎身元の割れる奴じゃなかったんでな――そっちはおいおい、だ。しかし参ったな、少人数での遠乗りだってあらかじめ噂を流しておけば……とは思っていたんだが。昨日マジに当たり籤を引くとは思わんかった」
「そういうことだ……済まなかったな、お前を危険な目に遭わせた」
「いえ、そんな……私こそ、お役に立てず、申し訳ありませんでした」
よくわからないが、彼が自分のことを気にかけてくれていたのだ、と思えて、何故か嬉しいと思ってしまった。メリサのその様子を見た彼は、なんだか居心地の悪そうな顔をしてまたそっぽを向いてしまった。
「エリモスは今、いろいろ面倒そうだからな。俺よりもお前に何かあるとまずいだろうと思った。それだけだ」
「あ、そういえばお前、去年の冬に視察に行ってたって話だったか?」
「あ……」
やはり、そういうことだったのか。彼のことを知れた、それは嬉しいのに、メリサの心の中にわだかまるものが残っていた。
――私は、彼に全てを話せていない。
その想いが、少しだけ、今の喜びに翳りをもたらしていた。