62 葡萄酒
引き続き侯爵令嬢ミア・グラフ視点です。
執事に連れられて食堂へ。
私がトーマスと部屋に入った時にはすでにお父様が紅茶を飲みながら座っていた。
お父様は侯爵であるからムダに広い晩餐会用の大広間もあるけれど、来客がない場合はもっぱらこの食堂を使う。
食堂は10人掛けくらいの円卓がすっぽりと収まるサイズで、私は晩餐会でのかたっ苦しいディナーより、この食堂での夕ご飯の方が昔から好きだった。
家族で食べるんだったらこれくらいの広さで十分だから。
「会いたかったぞ、ミア」
父であるグラフ侯爵は私に満面の笑みを向けた。
「父上もお元気そうで」
私はドレスの裾を持ち、身体を傾け挨拶をする。
「はは、お前が礼儀作法をわきまえてるのは承知している。
ただ、娘から礼を尽くされすぎるといささか寂しくなるというものだ。
ここには私と部下しかいないのだ。
ミア。
お父様の前なのだ。
少しくらい、気を許した態度をとってはくれないか?」
今はおどけたような仕草を見せる父であるが、その実礼儀作法にはうるさい類の人間だ。
今の言葉を真に受けて、気を許しすぎると途端に父の逆鱗に触れてしまう。
扱いが難しい人なのよね。
お母さまが亡くなられてから一層気難しくなってしまった。
だから、私はお父様の望む娘を演じてきたつもり。
「ふふ、それではお言葉に甘えて」
お父様にそう言いいながら私はゆっくりと椅子に座る。
「お父様に私の葡萄酒を注いでいただこうかしら」
上目づかいでお父様を見つめて、「酌をせよ」とわがままを言ったふりをする。
娘の可愛らしいわがままを許容する父親、というのがお父様が演じたい役割。
わがまま過ぎても遠慮しすぎても父の不興を買う。
部下たちはそのラインをわきまえ切れずよくお父様を怒らせていたっけ。
……はあ、私のお父様だとはいえ本当に面倒な男ね。
「なんだ、ミア。
まだお父様に甘えたい年頃なのか……ふん、そんなことではまだまだヨメにはやれんな」
葡萄酒を上目遣いでねだる私を見て、お父様は嬉しそうに葡萄酒の瓶を片手に私の元へと歩み寄り、トプントプンとなみなみ葡萄酒を注いだ。
グラスを持ち上げ舌で転がすようにテイスティング。
酸味を抑えた飲みやすい葡萄酒は、きっと上等な品だろう。
葡萄酒の利き酒などで見当違いのことをしゃべると貴族たちの間で偉く評判が下がるから、私は美味しいものはどれかわかるようにあまり好きではない酒であってもある程度たしなんではいて、どういう味が上等なモノかは知っている。
「ふふ、この葡萄酒は上品な味ですね。
ヘタリリスの30年物かしら」
ヘタリリスはベケットから遠く西方の葡萄酒の有名な産地で、香り高く酸味を抑えた味わいが特徴的だ。
私は本当言うともう少し甘い葡萄酒の方が好きだ。
ヘタリリスは私の舌にはえぐみを感じてしまうんだけど、どうやらこの独特のえぐみが通好みらしい。
熟成が20年を超すとさらにえぐみと香りが増してくる。
お父様はヘタリリスの熟成物をとてもありがたがって飲んでいて、家臣たちには分けてあげない。
お父様が家族だけにふるまうお酒だから簡単な利き酒なんだけど。。
「さすがミアだな。
ふふ、ヘタリリスの28年ものだ。
私はこの香りをかぐだけで嬉しくなってしまう」
グラスに注いだ葡萄酒を上方に掲げ、愛おしそうにシャンデリアの明かりに照らして赤紫の色彩を楽しんでいるようだ。
「なあ、ミア。
こうして親子で食事を楽しむのもあと少しだと思うと切なくなるな」
視線を葡萄酒のグラスに向けたままお父様はぼそりと私につぶやいた。
「……ジークムント家が嫌になったらいつでも帰ってきていいんだぞ?」
お父様はおどけたように私にそう告げた。
ふん、一回嫁いだ貴族の娘が出戻るのを見栄っ張りのお父様が許して下さるわけないくせに。
でも、お父様は普段見せない寂しさを声色にまとわせていて、私も少しだけ寂しくなってしまった。
「ふふ、そんなことお父様がおっしゃるなら婚約なんてやめてしまおうかしら」
「ははは、それは嬉しいようでお父様は困ってしまうぞ。
いつまでも子離れできない侯爵だと周りの貴族たちに笑われてしまう」
お父様はおどけた声をだしながらも目は既に笑っていなかった。
……寛大なふりをするくせに、支配的なのよね。お父様は。
「……お父様」
私はゆっくりと息を吸い込み立ち上がった。
ちらりと隣に座るトーマスを見やると、小さく口笛を吹きこちらを見ないフリ。
本当に小物ね、コイツは。
「どうした、急に立ち上がって」
「私、ジークムント家との縁談を取りやめたいと思います」
吸い込んだ息を一気に吐いてしまうほど力を込めてお父様に私の意思を伝えた。
「……ミア、今なんて言った?」
お父様の顔が一気に険しくなり、私を見つめた。
見つめたっていうより睨んだって言った方がいいかもね。
まったく、そんな顔するくらいなんだから私の言葉を一言一句聞き漏らさなかったのでしょうに。
お父様の私には決して向けてこなかったまなざしに少しひるんでしまいそうになるけど、反対なんて予想してたこと。
「まさか他に好きな人が出来たとか言い出すんじゃないだろうな」
眉毛を吊り上げて私を睨みつけるお父様に気合で負けない様に、私はおなかにぐっと力を込めてお父様へ向き直り、笑顔でお父様に話しかけた。
「そのまさかです。
すみません、一緒になりたい人が出来ました」
「……だれだ、舞踏会であった伯爵あたりの小せがれに言い寄られて舞い上がってしまったのか?
まったく、舞踏会や晩餐会などの社交は経験としてお前にさせていただけで、色恋などにうつつを抜かさぬようきつく言い渡してあっただろう?」
やれやれと首を振りため息をついたお父様は、落ち着きを取り戻したように見えた。
「伯爵辺りのせがれはお前を手練手管で落とすように親である伯爵から言い含められているのだ。
たとえ家格が釣り合わなくても恋愛結婚であれば昨今はもてはやすのが世間であるからな。
まったく、お前に言い寄ってきたせがれどもはグラフ家とのパイプを作りたいだけだぞ?
まあ、お前は美人だから伯爵の息子たちもまんざらではないだろうけどな」
父は少し満足そうにしながら話し続けた。
私に群がる男たちの大半が背後にあるグラフ侯爵とのつながりを求めていた。
私は16になり結婚適齢期になったから、最近は断りの礼状を書くのがおっくうになるほど舞踏会や晩餐会などのお誘いがひっきりなしに届いていた。
私は本当にただ断りの手紙を書くのが面倒なだけなんだけど、お父様は山のように届くその求愛の手紙に困っている私を見てとても満足そうにしていた。
自分とのつながりを求めているものがこれほどいるのかとある意味ステータスを感じていたのだろう。
「まあ、家格の合わない伯爵たちの中にも役に立つ人材はいる。
場合によっては結婚を認めてやらないこともないぞ。
私は心が広いからな」
娘のわがままを認めて格下の相手との恋愛結婚を認めた進歩的な侯爵。
お父様が欲しいのはその肩書だけでしょう?
「どこの家の人間なんだ、そのお前が惚れた相手というのは」
微笑みを絶やさないお父様に向かって私は満面に笑みをうかべてこう告げた。
「リク・ハヤマ。
凄腕の武闘家ですわ。
私の心はリク様に奪われてしまいました」
父は怪訝な顔をして私を睨み続けていた。
「リク・ハヤマ。
聞いたことがない、どこの伯爵のせがれだ?」
私は貴族にしか惚れないと心底思いこんでいるお父様を見てなぜだか私は嬉しくなった。
……私は今までお父様に反抗するなんて考えもしなかった。
私は、お父様に反抗してまでもリク様と一緒に居たいほど、リク様が好きなのだと思った瞬間嬉しくなったんだ。
「いいえ、お父様。
伯爵令息などではございません。
リク様は凄腕の……平民です」
目いっぱいの笑顔を浮かべて私は父へ話しかけた。




