「彼女の、―――声。笑ってる彼女の声が、思い出せない」
彼女。
もちろん目の前にいる小桜紗乃子とは別人だ。
自分の口から彼女の話をしたのは、いつぶりだろうか。驚く程すんなりと言葉になった。
こんなにもあっさり口に出来てしまって、いいのだろうか。
今まで、なかったことにしていたのに。蓋をしていたのに。
「やっと、かしらね」
鳴海さんがひとつ溜息を吐いた。
「続けてくれるかしら」
そう俺の話を促して、鳴海さんはレジカウンターに腰掛けた。
それを真似したかったのか彼女もレジカウンターに座ろうとするが身長が足りずぴょんぴょん跳ねていて、見かねた鳴海さんが慣れたように彼女を軽々と持ち上げた。隣に座れた彼女は少し満足気だった。
俺は変わらずメロンパンの海の中心に座り込んだままである。
「言葉にするのは良いことよ、頭の中がすっきりするの」
鳴海さんのウィンクをもろに受けてしまった。どうせなら可愛い女の子のウィンクが良かった、なんて冗談を脳内で思いつくということは自分にはまだ余裕があるのだろうか。いや、きっと蓋をこじ開けようとしている自分と、必死で蓋を閉じたままにしたい自分の両方が存在していて、その結果思考が空回りしているのだろう。
「別に恋人とか、そんなんじゃなかったんだ。ただの友達、いやもしかしたら友達未満だったかもしれない。同じ講義を取っていて、それでよく顔を合わせるだけの仲だったのかもしれない。あれ、これじゃあ他人みたいだな」
口にする。彼女との思い出を口にする。確認するように、独り言をトツトツと呟く。
「最初に話しかけてきたのは彼女だったよ。これは今でもはっきりと覚えてる。俺が一回生のくせにぼーっとして板書もせずに外を見ていた時のことだ。そうだ、俺は彼女と同じ講義の時は必ず窓側の席を取っていた。不思議に感じたんだろうな。そんなに外に面白いものがあるの? って、右隣に座った彼女はそう言ってきたんだ」
そりゃあもう驚いたね、何せ彼女の声は講義だということを一切気にしないボリュームだったんだ。普通に友達と会話する時のような声の大きさで一回も話したことのない俺に話しかけてきたんだよ。
当然マイクで講義をしていた講師は俺達を見た。するとどうだろう、睨みつけられた彼女は悪びれた風もなくその講師に手を振っていた! これにも驚いたね。注意する代わりに大きな咳払いをして講師はまた話し始めて、ほっとしたのはきっと俺だけだったはずだ。だって彼女は悪気が一切なかったんだから。
そこでお互い目が合った。同時に笑ってしまったものだから、マイクを通して二度目の咳払いが聞こえてきた。
そうだ、そんな出会いだ。
「思い出なら沢山覚えてるよ」
「なら、話せばいいのよ」
「うまく話せる自信がないな」
「いいの。私はたちばなの上手な話が聞きたいわけじゃないもの」
「酷いな」
そう言って俺は少し笑った。
自然に笑えたことに驚いた。バイト中の無理に作った笑顔以外に、笑えたことなんてここ最近あっただろうか。彼女が死んでから、俺は笑っていただろうか。思わず口元を右手で覆うと、確かに口角は上がっていた。
話せばいいと言われるがままに、俺は記憶を遡った。
思い出さないようにしていた期間が長すぎて、所々ぼんやりと霞がかった思い出を手探りに紐解いていった。
講義が被ると必ず右隣の席に彼女が座るようになったこと。食堂の二人用の席で一人で昼食をとっていると、さも当然のように向かいの椅子に座ってきたこと。図書館で勉強していると無言でテキストを差し出してきて解説を頼まれたこと。偶然、俺がバイトしているこのコンビニに彼女が来たこと。知らない番号からの電話に出たら彼女の声がして「そういえば名前教えてほしいんだけど」と言われたこと。「順番が違うだろ」そう返したこと。そういえば俺も彼女の名前をその時まで知らなかったこと。彼女がすごく面白そうに笑ったこと。
「あれ」
「どうしたの、たちばな」
「……あれ?」
ここまで饒舌に思い出を語っておいて、ふと思った。
彼女はよく笑う人だった。いつも笑っている人だった。思い出の中の彼女はいつも笑っていた。表情は出てくるんだ、それなのにどうしてだろう、おかしい。
「思い出せない」
「何を?」
「彼女の、―――声。笑ってる彼女の声が、思い出せない」
死んだ人の声って、真っ先に忘れちゃうのよ。
閉じ込められてすぐに言われた言葉が頭をよぎった。彼女はよく喋る人だったから、毎日その声を聞いてきたはずなのに。本当に、全く思い出せない。
必死に記憶を辿る。映画を見た、ご飯を食べた、遊園地にも行ったしカラオケにも行った。思い出はどんどん出てきて記憶の中の彼女は俺に沢山話しかけているのに、彼女の声だけミュートしたかのように俺に届かない。
酷い焦燥感が俺を襲った。
彼女の声を思い出せないことがたった今明確になり、ふわふわと安定感のない足場に座り込んでいるかのような感覚に陥る。
「あーあ」
カウンターで足をぷらぷらと揺らしながら、小桜紗乃子はそう漏らした。床に座り込んだままの俺が彼女を見るには必然的に目線を上げなければならなく、その意図はなくとも彼女に見下されている構図になった。
「カワイソウよ、その彼女。忘れられちゃった、忘れられちゃったのよ。たちばなが忘れようとするから、楽に生きようとするから、なかったことにして生きる時間が長くなってしまったから。残念、とても残念なの」
口調は今までと変わらないのに、言葉一つ一つが今までで一番鋭く俺に刺さった。
それが焦燥感を煽る。
「俺の、せい、なのか」
「たちばなのせいに決まっているの。たちばなが自分で蓋をしたのに、たちばなはそれを他人のせいにするの? 前を向いて彼女の分まで生きろ、って周りの人は言ったんじゃないの?」
「だから、」
「いつまでそうしてるの? いつまで座り込んで、一人で立ち上がろうとしないの? いつまで顔を背けているの? いつまで前を向こうとしないの?ねえ、たちばな」
「っ、だから! 前を向け前を向けって! 一体どっちが前でどっちが後ろなんだよ!」
「――――そんなの私にだって分からないの!」
凛、と。
焦りがピークに達した俺の怒鳴り声をかき消すように、小桜紗乃子の大声が店内に響き渡った。
同じトーンで静かに喋りつづけていた彼女が、初めて怒りのようなものを含ませて叫んだ。
ぼんやりとしていて今まで閉じ込められた時から一度も合うことの無かった彼女の瞳が、この時初めて俺の瞳と向き合った。
彼女の瞳は、ぼんやりとなんてしていなかった。俺をまっすぐに見据えて、視線を逸らすことを禁じていた。強い光を宿していた。
彼女はそのままトン、とカウンターから下りて店の入り口の自動ドアの前まで歩いた。その後ろ姿からすらも目を逸らすことができなかった。閉じ込められたままなので自動なはずのドアは無反応で、辿りついた彼女はくるりと俺と鳴海さんを見るように振り返った。彼女のおさげが遠心力でゆるりと浮いた。
「どっちが前かなんて、私は知らないの。知るわけないのよ」
「じゃあ何で、その言葉を俺に言うんだ。他の奴らと同じ言葉を、どうして俺に言うんだよ!」
「それでもたちばが踏み出さなきゃいけないからなのよ。ちゃんと、ちゃんと意志を持って一歩を踏み出すの。だからね、たちばな」
ここで彼女は一度言葉を切った。
大きく息を吸う。
「勇気を持つの。逃げ出さずに一歩を踏み出したら、そこがたちばなにとっての前なのよ」
「一歩踏み出したら、そこが俺にとっての……前?」
彼女の言葉を復唱する。
逃げ出さずに一歩を踏み出す、なんて、俺にできるのだろうか。
それは物理的な一歩なのか、精神的な一歩なのか。一歩なんて簡単に言うけれど、どうしたら踏み出せるのかなんて今の俺にすぐ浮かぶのか。ぐるぐる、もやもやと、その言葉を頭の中で反芻させていると、床に落としていた左手がカサリと何かに触れた。
「……あ、」
メロンパンだった。
そうだ、俺はメロンパンの海の中にいるのだ。無数に散らばった、メロンパンの中心にいるのだ。俺が、大嫌いなメロンパン。いや、違う、嫌いなんかじゃないんだ。嫌いだと言い聞かせてきただけなんだ。
メロンパンは――――彼女の大好物だった。