「前を向け、前を向けってさ。一体どっちが前でどっちが後ろなんだよ」
「――――え、」
ぐわん、ぐわん。
突如、眩暈のような感覚が俺を襲った。
その場にまっすぐ立っていられなくなって思わずしゃがみこんだ。
ぐにゃりと、視界が歪んだ。何だって?
しんじゃったひとのこえって、まっさきにわすれちゃうのよ?
「ほんと、一番最初に忘れちゃうのよ。だからね、街中で呼ばれてもきっと気付かないの。カワイソウなのよ」
ぐるぐるとした気持ち悪さが未だに収まらずに目を閉じたままでいると、彼女の言葉だけが呪文のように耳に入ってくる。
「でもそれはしょうがないの、だって忘れてしまわないとその人は生きていくのが大変なんだもの。だから悪くないの、しょうがないのよ。そうやって声も、体温も、忘れていかないと人は幸せになれないの。そして、最後に残るのは思い出だけになるのよ、綺麗な思い出だけになるの」
どうしてそんな話になるんだ、そう言いたくても喉がはりついてしまったかのようで、声が出なかった。耳を塞ごうにも、両手が両耳を探すことを拒んだ。動けなかった。
「でも、それで幸せになれない人もいるの。忘れてしまえばしまうほど、不幸になる人もいるの。無理矢理に忘れたことにして、死んだように生きている人がいるの。そういう人と目が合うとね、こうしてひとりぼっちになるのよ。ねえ、たちばな」
次の言葉を待たずに俺は勢いよく立ち上がって走り出した。
さっきまで動けなかったくせに、まるでそう決められていたかのように走り出した。どこに、なんて考えていなかった。とにかく彼女の声が聞こえないところに行きたくて走り出した。
大して広くもない店内を走った。裏口の扉の鍵を開けてドアノブを何度も回した。確実に鍵は開いているのにビクともしなかった。飲み物を補充するウォークへの扉も開かなかった。夢だと思いたかった。
「無理矢理じゃ、出れっこないわよ」
俺が走るのをやめるとレジへと繋がる扉から鳴海さんがやってきて、ひょいと俺の首根っこを掴んで元いた売り場へと簡単に戻されてしまった。突然走ったから少し息があがる。
その代わりに少しだけ冷静になったような気がした。少しだけ、だけども。
「もし外に出られても、またたちばなはひとりなのよ」
「俺は、……一人なんかじゃないです」
通っている大学にはそれなりに友達だっている。中学、高校の部活の仲間だって連絡を入れればすぐに飲みに行けるくらいの友好関係は築いてきたはずだ。
「うそ」
そんな俺の精一杯の返答も彼女はあっさりと否定する。
息をするように否定する。
「たちばなに何人友達がいるかなんて、そんなことは関係ないの。とっても関係ないのよ。だってたちばなは死んだように生きているんだもの、それはきっと楽なことだもの。全てなかったことにして生きているなんて、とても楽なことなんでしょうね、たちばな」
どさどさ、どさり。
座り込んだままの俺の目の前に、何かが無作為に落ちてきた。
落とされた。
それが何かを認知した途端に俺は悲鳴をあげそうになった。
毎日陳列棚に規則正しく並んでいる、それはメロンパンだった。
外はカリカリ、中はふわふわを売りにしている一個百五円のメロンパンだった。今はセール中でポイントカードを持っていたら九十円になるメロンパンだった。陳列棚にあった全てのメロンパンが、彼女の手によって雨のように降ってきた。
「疲れたの? お腹がすいたの?」
「あ、」
「こんなに沢山あるんだから、きっと食べたって大丈夫なの」
「っ、」
「メロンパン、きっとおいしいのよ」
「やめ、ろ」
やめろ、やめてくれ。
俺はメロンパンが嫌いなんだ。売り場に並んでいても、視界に入るだけで気分が悪くなるくらいメロンパンが嫌いなんだよ。
そんな俺の事情などおかまいなしに、彼女はいっそ気持ち良いくらいにメロンパンを降らせて遊ぶ。自分が買おうとしていたネギトロは律儀に食べずにいるくせに、メロンパンはおもちゃのように扱っている。高いところから何度も何度もメロンパンを俺の元に降らせる。
いい大人だろうに、鳴海さんまで一緒になって降らせる。俺の視界にはメロンパンしか映らない。大嫌いなメロンパンしか、映らない。大嫌いなのに、大嫌いなのに。
「自分の感情に嘘をついて蓋をして生きるのは、とっても楽だと思うの」
またさっきと似たようなことを彼女は言う。それも、俺の心を読んでいるかのような言葉だ。何を知ったような口を利くんだ。ぐるぐると思考がぶれる、眩暈とはまた違う。彼女の言葉が呪文のように耳について離れない。
死んだように生きている、死んだように生きている、そんな楽な生き方をしている、俺。
「……死んだように生きている、っていったよな、さっき」
自分でも驚く程低い声が出た。意識していた敬語もなくなった。座ったままで俺は彼女を睨みつける。その表情からは感情を読むことは出来ないが、それに構わず俺の口は勝手に動く。
「ここで働いているとな、色んな人間が来るんだよ。その中でも特に多いのは年寄りだ。毎日毎日同じ時間に必ず来る。杖をついた人も、たかが数個の商品を選ぶのに数十分かかる人もいる。手が震えて小銭が上手く出せなかったり、俺が何回金額を言っても聞き取れない人もいる。そんな年寄りがな、毎日毎日酒や煙草を買いに来るんだ。日常生活も十分に送れないような年寄りが、酒や煙草をまるで命より大事なものかのように買っていくんだよ。それを見ていっつも俺は思うんだ、あんな風になるまで生きてなんかいたくないって。あれこそ、死んだように生きているって」
誰にも話したことはなかった。毎日営業スマイルで接客しながらこんなこと考えているなんてつくづくつまらない人間だと自分でも思うが、案外誰もが思っていることなんじゃないかとも思う。
人生五十年、というのはあながち間違いではないのだろうと考えるようになったのはコンビニでバイトを始めてからだ。自分の意志でやりたいことを不自由なく行えるのは、精々そのくらいまでなのだろう。
「確かに、そうかもしれない。でも今のたちばなには、そのお年寄り達が縋っているお酒や煙草のような存在がないじゃない。縋るものすら、ないじゃないの」
何も言い返せなかった。
別に言って欲しい言葉があったわけじゃない。それでも、ぐさぐさと傷を抉るような言葉をつらつらと並べてくる彼女は、まっすぐで、俺には痛かった。
「お見通しってわけか」
「いいえ。私は超能力者じゃないもの」
「こんなことしておいて?」
「言ったのよ、これは病気だって」
「君的にも俺がここから出られないとマズイんじゃないの?」
「そうよ、困るの。だからたちばなには前を向いてもらわないと困るのよ」
「前を」
「そう、前」
前、なんて曖昧な言葉なのだろうか。
確かによく使われる言葉だ、前を向いて、前向きに、前を見て。
ああ、そういえば俺もよく言われた言葉だ。いつだか、思い出せない。嘘。思い出せないフリをしている。もうずっとしている、これに限ったことじゃない。
思い出さないようにしていることが沢山ある。その事象自体を記憶から消そうとしていた。そうすると本当になかったことになってしまっていた。いつの間にか、本当に声すら思い出せない。
「前を向け、前を向けってさ。一体どっちが前でどっちが後ろなんだよ」
「よく言われてきたの?」
「ああ、言われたさ。それ程俺が落ち込んでるように見えたんだろうよ、いや実際落ち込んでいたんだ。だから周りの人間は俺を励ました、――――前を向いて彼女の分まで生きろ、って」