ACT5 高岡 義斗(1)
警視庁を出て、高岡 義斗は今日何度目かわからない舌打ちをした。
大村が死んだと報告してきた優美の声は淡々としていた。その声音だけで優美が相当参っていることはわかった。感情的になれるほど心がついていっていないのだ。思い起こされるのは初めて一緒に事件を担当したときのこと。
高岡がこれだけ優美に手をかけるのは理由があってのことだ。最初の事件のとき、優美の実直な性格、刑事としての鋭さ、そうした元々持ち合わせたポテンシャルに期待と共に、危うさを感じたからだ。
二年前、優美が新米刑事として初めて担当したのは、不幸なことに殺人事件だった。東京は人口密度の関係で管区が細かく分かれている。新人の刑事が配属されたばかりの管区で最初に起きる事件が殺人事件というのはそう起こることではない。暴力団関係の抗争事件などは例外だが、それらは担当する係が違う。だからそれは本当に不幸な偶然だった。
高岡たちの班は優美を連れて現場検証へ向かった。遺体と対面した優美は言葉をなくした。絞殺体のため出血などは見られなかったが、その顔は恐怖に固まっていた。目が見開かれた、それはまだ高校生の少女だった。被疑者はすぐに目星がついたものの、かなり遠くまで逃走していた。結局四県にわたって捜査協力を依頼する事態になったが、一週間で逮捕までこぎつけた。三十代の男で、被害者とは出会い系サイトで知り合っていた。
班の一員として優美も取調べに参加した。新人としてはその手並みはなかなかのものだった。感情的にならず、淡々と、しかし確実に相手の供述を引き出していた。しかしそれをただ有能ととらえるのは間違いだった。このとき優美は感情を自分でコントロールしていたわけではなかった。ただ心がついていかなかったのだ。そのことがわかったのは警察での取調べが一段落して、被疑者の身柄が検察に引き渡された後のことだった。事件が一段落した矢先、優美は入院を余儀なくされるほど急に体調を崩した。体は昔から丈夫で病院とは無縁だったと聞いていた。高岡が見舞いに行くと、青くやつれた顔をしていた。口から食べたものはみな吐いてしまうため、点滴だけで栄養を取っている状態だった。急性の摂食障害と思われた。そのやつれきった姿を見て、高岡は認識を改めざるを得なくなった。身体が拒むのでは、優美はこの仕事に向いてないのかもしれない。しかし初手合いの首尾を見れば、その才能が優れていることは明らかだった。さて、どうするか。考えた挙句、高岡は班に優美を留め置いた。その段階で判断して切ってしまうにはあまりにも惜しい人材だった。
あれから二年。幾多の経験を積んで優美は成長したが、中身はあの頃のままだ。
高岡は優美になぜ刑事を志したのか問うたことがある。優美の応えはまっすぐだった。いわく、犯罪を憎むからだと。その思いが強いがゆえに、凶悪な事件を目の当たりにすると心が追いつかなくなるのだ。
夕暮れと呼べる時間はとうに過ぎていた。高岡はつい昨日優美と訪れたバーの扉を一人でくぐる。無言でカウンターに座ると、麻木が心得たようにいつもの日本酒を供する。
一人で傾けていると、来客を知らせるドアベルが鳴る。靴音を聞いただけで、それが高岡の待ち人のものだとわかった。
「よう……こっちに座れ」
カウンターへまっすぐ歩いてきたのは古川 雅彦だった。よくバディを組んだ男の靴音は今でも耳に残っている。
古川が隣に座ったのを確認して高岡から声をかける。
「急に呼び出してすまん」
「いや、いいんだ。久しぶりだな」
「捜査本部じゃ毎日顔合わせてるだろ」
「それはそうだが、こんな場所では久しぶりじゃないか」
「そんなぽんぽん誘えねぇよ。今じゃお偉いさんだしな」
麻木が古川に注文を訊くと「水でいい」という。
「んだよ、呑まねぇのか」
「すまん。この後まだ人に会わなきゃならないんだ」
「おまけに掛け持ち。まぁいいけどよ」
高岡は仕方なく一人で酒をあおる。隣の古川は出された水をひと口飲み、横目でその様子を窺っている。視線は感じていたが、あえて無視して無言で一杯目を空ける。
沈黙も重ければ、口火を切るのも重かった。まったく、いい酒なのに少しも旨くない。
結局三杯を空けた後、ようやく切り出した。
「なぁマサ、お前はいつだって俺らのエースだったんだぜ」
酒のせいか、声がかすれる。今さら古川の様子を窺い見るような気力はなかった。そんなことをしなくてもわかる。それぐらいには付き合いの長い相手だ。酔ってもいなはずの古川のグラスが、小刻みに揺れる。こちらが言いたいことは十分伝わっているようだ。それでも応える言葉を発しないので、仕方なく高岡のほうから切りこむ。
「お前が首突っこんでるってことは、やっぱりA事件がらみか?」
「高岡……」
こちらだって、酔ってなどいない。こんな状況で酔える人間がいたら見てみたいと高岡は思う。できることなら帰って呑み直したいが、おそらく疲労ですぐ寝てしまうだろう。
古川がA事件と関わりがあったと知ったのは、まだ二人とも所轄の刑事だった頃だ。その頃から古川の優秀さは飛びぬけていて、ノンキャリアとしては異例の速さで次期昇進を決めていた。そんな折に、ふとそんな事実を漏らした。
その相手が他ならぬ高岡だったのは、もっともよくバディを組んだからだろう。二人は性格は正反対だったが不思議と気の合うところがあり、当時からよくサシで呑む仲だった。よく行く居酒屋、なじみの酒。その日、二人は古川の昇進を静かに祝っていた。
「実は、俺はあの事件で、大切な人を亡くしたんだ」
古川の様子がおかしいことには気づいていた。自分が昇進するというのに嬉しそうな顔一つしない。その理由が、この告白だった。
「じゃあなんで刑事なんかやってんだよ、お前は」
「できることなら、この組織を変えたいと思ったのさ。根本から」
その為に必死で出世の道をひた走ってきた。反吐が出るほど嫌悪する組織に少しずつ染まりながら、何をやっているのだろうという徒労感を封じ込めながら。上に行かなければ、組織を変えることなどできないから。
「……あのとき言ってたことの、これが答えなのか?マサ」
随分と時間を隔てたが、古川は今や警視正という、ノンキャリアには定年まで勤めても登れる者のほとんどいない域まで達している。その古川を、高岡は敢えて昔なじみの呼称で呼ぶ。そこに高岡がどれだけの思いを詰めたのかは、残念ながら伝わらなかったようだ。
「わからないよ。本当はどうすればいいかなんて、もうとっくにわからなくなってるんだ」
「止めろよ!」
ドンッ!とカウンターを拳で叩く。一瞬他の客たちが注目したが、そのまま静かになったのでまたすぐ元の雰囲気に戻った。
古川は黙ってしまった。高岡がこんな風に怒りを露にするのは初めて見たからだろう。むやみに怒りをぶつけるような人間ではないことは古川も知るところだ。だからこれは、高岡の本気の怒りなのだ。
「俺だって知ってる。A事件がひでぇ事件だったことぐらい。だがだからと言って、それは罪を犯していいってことにゃならねぇ。あの事件から飛び火した犯罪者をよりによって警察組織のお前が増やしてどうすんだよ!」
声を抑え、歯の間から絞り出すように言った台詞には悔しさがにじんでいた。
一体どうしてこんな事になってしまったのか。古川はなぜこんな選択をしてしまったのか。高岡は同期としてずっと古川を見ていた。有言実行で出世街道をひた走る古川。ライバルと呼べる者は同期の中に何人もいたが、古川はそんな言葉ではくくれないような別格の人間だった。その姿がまぶしくさえ感じていた。
だから余計に、悔しかった。今まで積み上げてきた努力も実績もすべてこんなことのためだったのかと思うと、ただただ情けなかった。
ぽた……と拳に雫が落ちて、そのとき初めて自分が泣いたことを知った。怒りは度を越して悲しみになってしまったようだ。高岡はそれをあえて飲み下す。ここで悲しみにのまれたら心が折れてしまいそうだった。
「悪い、帰るわ。麻木、つけといてくれ」
グラスをことりと置く。もう力が入らない。随分重くなってしまった足取りで、高岡は古川を置いて店を後にした。
事件が動いたのは、それから二日後のことだった。
「捜査本部に緊急招集って、何かあったんですかね」
高岡に水を向けてきたのは、今回の捜査でバディを組んでいる安川 啓司という男だ。高岡よりもキャリアは浅いが、警視庁でいくつもの事件を担当した切れ者だ。
無線に入電があったのはつい先頃のことだ。街に出ている捜査官全員へ、本部へ戻るよう緊急の招集がかかった。聞き込みに向かっていた高岡たちは、それを受けて今警視庁へと引き返しているところだ。
助手席から、高岡は隣の安川をちらと見る。そのポーカーフェイスからは、長年いち警察官として数多の人間を観察してきた高岡にも、何を考えているのか読めない。警察の人間でなければ詐欺師にでもなっていそうな奴だとひそかに思っている。
「嫌な予感しかしねぇな」
喰えない面をした後輩刑事は、独り言のように呟いた高岡の言葉に同調したようだった。
警視庁に着くと、既に大勢の捜査官が集結していた。その人数の多さにうんざりしてくる。人間の密度が濃すぎて酸素が足りない。さっさと終わらせて外に出たいと切に思う。
良くも悪くも高岡は昔から現場人間だった。足で稼ぐ仕事が好きだし、向いていると思う。体を動かしていないと仕事をしたという気がしない。呑むために仕事をしているわけではないが、いい汗をかかないと酒も旨くない。もちろん警察の仕事が全て体力勝負というはずもなく、デスクワークもある。その辺もきっちりこなしてはいるものの、高岡はこういう合同会議のような雰囲気は苦手だった。所轄では事件が起きて捜査本部が立ち上がったとしても、せいぜい捜査官は数十人程度。簡素なテーブルを囲んで場合によっては席にさえつかない。それが今の合同捜査本部となると、捜査官は数百人規模。ホールかと思うぐらい広い会議室で、きっちり並べられた机と椅子の間にスーツの人間がひしめいている。正直それを見ただけで眩暈がしてくる。他の捜査官の報告を聞いているだけで日が暮れてしまいそうだと思う。
今日はいつにも増して、その空気が重い。というよりも、張りつめている。これまでなかった緊急招集という事態に何か感じているのは皆同じだ。
「妙ですね」
隣から安川が声を潜めて囁きかける。高岡もその違和感には既に気づいていた。
捜査本部には本来、警察記者クラブに所属する記者が同席している。メディアで流されるニュースの情報はこの警察記者クラブの発表に基づいている。大きな事件なので動きがあれば速報でも何でも使って伝えられるはずなのだが、その記者クラブの人間が見当たらない。
「緊急招集の上に緘口令……ますますきな臭ぇ」
高岡は頭をかく。すんでのところで舌打ちはこらえた。
全員が席につくと、本件の捜査本部を取り仕切っている浅井 薫がよく通る声で告げた。
「これより緊急の捜査会議をおこなう。なお予断の許さぬ状況により場合によっては中断する。各自速やかに動けるよう準備しておくように。加えて、今回の会議情報を外へ漏らす行為は厳禁とする」
普段よりも早口の慌しい説明。緊迫した空気に捜査員は水を打ったように静まり返った。
「まず状況を説明する。先頃午前十時二十一分に警視庁へ携帯電話より入電。逆探知をかけたが複数回線を経由しており発信地不明。これよりその内容を流す」
出たな、と高岡は思った。内容を聞いてみなければわからないが、おそらくは犯行声明。
高岡は多くの捜査官の隙間から、じろりとねめつけるように古川のほうを見た。古川は浅井の隣に静かに座っている。表情はなく、見ようによれば冷静な印象を受ける。ただ裏の事情を知っている高岡には別の見方があった。何かを必死に押し隠しているような……。
録音された音声がスピーカーから流れてきた。
「ジジ……この音声は自動音声です。警察の皆様にお知らせいたします。現時刻より八時間後に東京の主要機能を全停止いたします。回避方法として、次のことを実行してください。一つ、二十一年前のA事件について国民に公表すること。二つ、A事件に対する警察の責任を認め、謝罪すること。十分に実行されない場合、東京を全停止します。皆様の熟慮をお願いいたします。繰り返しお知らせいたします。現時刻より……」
しんと静まり返った中で流れたその音声はまるで機械音声のような奇妙な抑揚と継ぎ接ぎがあった。
音声が切られると、一時部屋は騒然とした。若い刑事の中にはA事件を知らない者も多い。
一方の高岡は這い上がってくる吐き気と眩暈で気持ち悪くなっていた。冷たい汗が背筋を伝う。それは犯人に対する嫌悪が生理現象として現れたものだ。安川が一瞬こちらを窺ったが、浅井が喋りだしたのですぐ前方に注意を戻す。
「このように犯行予告と言っていい入電があった以上、事件をテロ準備容疑として扱う。よって捜査情報は一旦マスコミ発表を含め全て非公開として対処する。犯人の言葉を信じるならば猶予は約七時間。捜査員諸君においては一刻も早い被疑者の確保を最優先に動いて欲しい。健闘を祈る。こちらからは以上だ。何か質問のある者は?……なければ各自現状報告に移る」
それからは各チームの報告が続いた。
会議の終わりに、これ以降問題の時刻までは本部召集はなく、各チームの新たな情報は本部に集約して一斉連絡で流されることが伝えられた。高岡はこの重い空気から解放されることへの安堵と、言い知れぬ焦りを同時に感じていた。
「東京の機能を停止するって、一体何をやるつもりなんですかね」
運転席についた安川は抑揚のない調子で言う。そこには疑問というよりも、犯人の言動を解せないというニュアンスがあった。
「犯罪者の考えることなんざ、たいてい解せねぇもんだよ」
今まで高岡が接してきた犯罪者たちはみな、動機を聞けば「そんなことで犯罪に手を染めたのか」と言いたくなるような者ばかりだった。それは高岡の性格によるところも多分にあるとは思う。実際裁判では情状酌量を認められた例も多い。だがそんなものは高岡は「クソ食らえ」だと思っている。刑が軽くなろうと、犯した罪が軽くなることはない、というのが持論だ。
流れていく車窓の景色。高層ビル群、広い道路、行きかう人々……。それらを黙って見つめながら考える。
犯行声明を寄越した犯人の言葉とこれまでの経緯を鑑みれば、おそらく狙いは送電システムに何らかのトラブルを起こすことなのだろうと推察できる。これまでの二件の事件は予行演習といったところか。やり口が昔日本で大規模なテロ事件を引き起こした某集団を想起させる。しかし今回の要はどうあってもA事件だ。だとすればその犯行の目的は警察の威信に傷をつけること。事前に犯行を予告していたにも関わらず、それを未然に防ぐことができなかったという結末。もちろん先の二つの事件を受けてセキュリティを強化しているはずだが、そちらの専門家が足りず小康状態だとも聞く。もうひとつ気になるのが古川の動向だ。警察の内情を犯人に流していると思われる古川がこの犯行に待ったをかけなかったということは、成功させる見込みがあるということだろう。高岡の言葉を聞いても少しも警察としての本来の職分を思わなかったのならば。
高岡は舌打ちした。東京の機能停止など絶対にさせない。
「なぁ、安川君。君の意見を聞きたい。どちらが正しいと思う?」
既に車は入りくんだ路地に差しかかっていた。それまで沈黙していた高岡が急に水を向ける。
「どちらが、と言いますと?」
「選択肢その一。このまま本部の方針に沿って捜査し、この事件の腐った犯人を取り逃がす。選択肢その二。本部の方針に逆らって真犯人と思しき人物を追う」
「何をおっしゃってるんです?」
安川は珍しくあからさまに不審をあらわした声で訊き返す。それが本当に高岡の意図がわからないからなのか、わかっていてあえてとぼけているのか、安川に限ってはどちらなのか判別がつかなかった。まったく、やりにくいと思う。
「とぼけんじゃねぇよ。お前もA事件のことぐらい知ってんだろ」
ここで高岡が言った本部の方針とは、A事件を表に出さずに事件を収束させることだ。その為の緘口令であり、捜査員にも暗に派手に動くことを控えさせている。
刑事を辞めたくなければ、A事件には関わるな――それはあの告白と共に、古川から言われた言葉だ。それはそうだろう。自分たちの組織を危うくしかねない問題に首を突っこんでいる部下など、上司なら誰も欲しがらない。そんなことがばれればクビが飛ぶのは時間の問題だ。
だから、これは賭けだった。安川がこちら側に引きこめる人間なのか、それとも組織に屈服する男なのか。
しばらく黙っていた安川は、ハンドルを握ったままため息混じりに問う。
「勝算はあるんですか」
「五分五分ってとこだな。とにかく時間がねぇ。……俺は別にお前を道連れにする気はねぇよ。のるかそるかは自分で決めてくれ」
「そこまで言っておいて、のらないわけにはいかないでしょう。まったくあなたという人は……」
ぶつぶつ文句を言う安川というのは今まで見たことがなかったので、高岡はクックッと笑った。