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ACT4  雪町 楓(2)

 雑居ビルの屋上に楓はいた。眼下に広がるのは夜の東京の街。もうすぐ梅雨に入ることを感じさせる湿った風が楓の頬をなでていく。やり場のない憤りを抱えたまま、楓はしばらくただ風に当たっていた。こんな生暖かい風では頭を冷やすには至らないが。

 しばらくそうしていると、下から忠志が上がってきた。楓の隣に陣取る。

「一服させてもらうぞ。楓もどうだ」

「いらない」

「さいで」

 楓は仲間内では有名な嫌煙家だ。煙草を吸う人間に対して「そんなものでわざわざ国に税金を落としてやる奴の気が知れない」と言ってはばからない。そんな楓の隣で堂々と煙を吐くのは忠志ぐらいだ。

 眼下の夜景に視線を向けたまま楓が訊く。

「古川はどうした」

「帰ったよ」

「そうか」

 わずかな沈黙の後、少し気まずげな様子で楓は呟く。

「さっきは、悪い。助かった。あのままじゃあいつを殺しかねなかった」

「まぁ、気持ちはわかる。俺だって、他の奴らだってあいつを憎んだんだ。俺は逆にすっきりしたよ。お前が怒りをぶつけたおかげでさ」

 普段の楓はもっと冷静な人間だ。周りの人間もそれは十分に知っている。だからこそ楓がこんな風に抑えられないほどの怒りをぶつけたことで、同じ思いを抱えた人間は逆に冷静になることができたということだった。

 忠志にしろ、古川を連れてきた男たちにしろ、ここに集まる者たちには共通項がある。それは誰もが、A事件で家族の誰かを失った遺族だということだ。それが彼らをつないでいる唯一と言ってもいい絆だ。もちろんそれは暁也も同じこと。

 楓自身がA事件との関係を知ったのは中学を卒業する頃だった。

 物心ついたころから育った雪町の家は、楓の実家ではない。楓の母は彼を産んだ三年後に亡くなり、シングルマザーだったために遺児となってしまった楓を養子として迎えたのが遠い親戚だった雪町夫妻だった。

 雪町家には義姉と義兄がいて、楓はわけ隔てて育てられた。自分がよそ者であることは幼い頃から知っていたし、夫妻も隠すことはなかった。

 幼少の頃の記憶で、鮮明に焼きついている光景がある。楓が一人で絵本を読んでいた隣の居間で、スーツ姿の男たちが雪町夫妻とちゃぶ台を挟んで対峙した光景。楓はそれを少しだけ開いた襖の間から見ていた。男たちは何度も頭を下げ、なにやら紙の束と薄茶の四角い塊を差し出していた。当時は何かわからなかったが、後から思い返した時、その薄茶の物体は封筒か何かに入った札束だったのだと理解した。

 おそらくそれは、自分の命をつないでいる対価。その金と引き換えに、生かされている。

 その思いを抱えたまま、しかし誰にも話すことなく受験の時期を迎えた。奨学金を申請し、高校に入ったら雪町家を出ると決めていた。

 受験に関する様々な手続きに必要なため、印鑑を探していたときだった。引き出しの中から、奇妙な書類を発見した。

 そこには自分の母親の名前が書かれていた。それは母の死亡診断書だった。

 なぜそんなところに仕舞われていたのか。楓はその内容を確認した。添付されていた病歴を細かく記録したものも含めて。

 そのとき初めて、A事件というものの存在を知った。

 何かが、一本の糸でつながった気がした。自分が雪町の養子になったこと。幼い記憶に残る金銭授受の光景。それらの示す本当の意味。全てを理解した後に湧いてきたのは、事件の原因を生んだ警察組織への激しい怒りだった。

 A事件に関してわかることは徹底的に調べた。事件の経緯、当時の被害状況、多く残された遺族。その中で暁也の存在を知った。そこから、楓の復讐計画は始まった。

 最初はたった二人からだった。いまや同士は十人を超える。それでも遺族全体からすれば氷山の一角に過ぎない。

「あまり気負いすぎるなよ」

 深く追憶に沈んでいた楓は、忠志のその一言で我に返る。忠志は煙草を携帯灰皿でもみ消し、手すりにもたれて楓のほうを見る。

「A事件の被害者も遺族も山ほどいるんだ。その憎しみや怒りを全部背負って晴らすなんて無理な話だ。俺らは俺らのやり方で奴らに一杯食わしてやるしかない。暁也は先鋒としてよくやってくれた」

 はじめは何を言おうとしているのかわからなかったが、それは忠志なりの暁也への哀悼だった。

 忠志は楓よりもひと回り年上だ。楓や暁也にとっては少し歳の離れた兄貴分というような存在で、付き合いも長く信頼も厚い。忠志も二人のことは実の弟のようにかわいがっていた。暁也の死にやるせなさを抱えているのは忠志も同じだった。

「俺は……千春には申し訳ないと思ってる」

 その発言を聞いた忠志は急にぷっと吹き出した。笑われたほうの楓は一体今の発言のどこが面白かったのか理解できずに渋い顔をする。

 笑いの発作が治まったらしい忠志はびっくりするようなことを言い出す。

「千春さんかぁ。ひょっとして楓ってそれぐらい年上でないと女として見れないとかそういう話?」

「はぁ?何言ってんだよ」

「だっていきなり呼び捨てってすごくね?今日の突然告白女子とは扱いが違いすぎるだろ」

 楓はあからさまに気持ち悪そうな顔で忠志を見やりながら、今日ここへ来る前の出来事を思い出した。

「別にいきなりじゃないだろ。暁也と会ってすぐくらいに千春にも会ってんだから。だいたい俺は女に興味がないんだよ。俺の中で女はつぐみだけだから」

「裕子ちゃんは?」

「あれはまた別だよ」

 渋面のまま頭をかく。忠志にとやかく言われる話ではないと思う。

「わっかんねぇな。それってマザコンとかそういうもんなの?それともゲイな自分に納得するための後付けの理由?」

「知らねぇよ。俺が聞きたいぐらいだよ」

 半ばげんなりしながらも、楓はまるで独白のように語る。

「不思議だよな。つぐみと……母さんと過ごした記憶なんてもうかけらも残ってないのに。それでも他の女を女として認められないってのは、何かの呪いなんだろうか」

 苦みばしった顔をする楓をよそに、ともすれば再び笑いの発作に襲われそうな様子で忠志が言う。

「まぁその辺は裕子ちゃんに慰めてもらえよ。最近会ってんの?」

「会ってない」

「あんまり放っとかないほうがいいぜ?ほら、一応乙女心ってかさ、そんなんもあるんだろうから」

 楽しそうに他人事に茶々を入れる忠志に、楓はとうとう返す言葉がなくなった。


 翌日は朝から霧のような雨の降る肌寒い日だった。涙雨と呼ぶには少し頼りないような雨粒が傘をじっとりと濡らす。

 暁也の葬儀は彼の実家でひっそりと執り行われた。家族と、数少ない近親者のみ。楓は忠志とともにその中に混じる。

 僧の読経が続く中、順番で焼香を上げる。高校時代の写真が使われた遺影に目をやるとさすがに胸が詰まった。正直、誰かの死を悼むなどという人間らしい感情がまだ自分に残っていたのかと、不思議なような気もする。それほどまでに全てをA事件の復讐のために注ぎこんできたから。

 そのとき、ふとその祭壇に違和感を覚えた。何かがおかしい気がする。葬儀の祭壇などまじまじと見たことはないので、はじめその元はわからなかった。焼香を終えて立ち上がったときになって、ようやく違和感の元を掴んだ。

 本来その中心に据えられているはずの、棺がないのだ。

 どういうことだろう。疑問が渦巻いたまま葬儀は続いていく。

 式は読経だけで終わった。参列者の数にしろ内容にしろ、ひどく寂しい式だった。

「楓君」

 葬儀が終わり、静かに帰っていく参列者に続いて仏間を出ようとしたときだった。暁也の母、千春に呼び止められた。喪主を務めた彼女はひどく疲れた様子で、喪服を重そうに引きずっている。以前目にしたときより随分痩せた気がする。楓はかける言葉が見つからず、ただその場で頭を下げた。千春に顔向けできない楓に対し、その頭上から降ってきたのは、意外な言葉だった。

「あの子、本当に自殺なんかしたと思う?」

 楓は思わず顔を上げた。泣き腫らしたのだろう、充血した千春の目と目が合う。

「どういうことですか」

 一体何が言いたいのだろう、と思って訊き返す。千春は迷いがある様子で視線を下方へさまよわせる。

「返してもらえなかったの。暁也の遺体。警察から」

「どうして」

「わからないの。明確な説明はなかった。ただ司法解剖が必要だから、終わったらこちらで火葬して遺骨を返すって」

「司法解剖?」

 おかしな話だった。警察の発表では暁也は署内の留置場で自殺したということだ。死因がはっきりしているのだから、司法解剖をおこなう必要はないはずだ。それとも、その死因に疑うべき所見があったということか。

「ねぇ、これってどういうことなのかしら。私には……何かを隠されているとしか思えないの」

 迷いながらも、千春は自分の抱いている疑念を吐露した。下手をすれば、息子を亡くした母親の妄念ととらえられかねないことを。他の人間には言うことができなかったであろうその疑念。それを楓を引き止めてまで伝えた理由を、千春は意を決したように告げた。

「あのね、私、本当は知ってたの。暁也が何をしようとしてたかも……楓君が何者なのかも」

 外の雨音が大きくなる。霧雨はいつの間にか本降りの雨に変わっていた。

 楓はしばし言葉を失った。千春は、知っていた、全てを……?

 まるで言い訳のように千春が言葉を継ぐ。

「あなたと同じよ、楓君。私はことさら調べたわけじゃないけど、自分の息子と同い年の遺族がいることは知ってたの。初めて暁也が楓君を連れてきたときにわかったわ。ああ、この子がそうなんだって」

「じゃあ、俺が暁也に近づいた目的もわかってたはずですよね」

「何となくね」

 楓は理解に苦しんだ。巻きこんだ楓が言えることではないが、危険なことに首を突っこんでいることはわかっていたはずだ。引き止めたりしなかったのだろうか。

 千春はゆっくりと首を回し、ある方向に視線を向けた。同じ方向を楓も見る。

 そこにあったのは、一枚の写真。映っている人物は大村 正和。千春の亡き夫であり、暁也の父親。A事件で命を落とした者の一人。

 そう、千春もまた遺族の一人なのだ。

 千春は楓の手にそっと自分の手を重ねた。ひやりとした小さな手。

「私は、感謝してる。あの子の友達でいてくれて。父親のいないあの子の味方でいてくれて。その気持ちはずっと変わらないわ」

 そして再び楓と目を合わせる。涙をこらえた強いまなざし。

「だから、生きて。あの子の分も、必ず」

 重ねた手に力がこもる。楓はただじっとその思いを受け止めていた。それが自分が今できる唯一のことだった。

 沈黙が降りた部屋の中に、激しくなったざぁぁという雨音だけがいくつも、いくつも響いた。


 忠志が運転する車の後部座席で、楓は黙って流れていく景色を見ていた。分厚い雲のせいで空は暗く、灰色のビル群は普段よりも圧迫感が増している。それらの景色はしかし斜めに流れていく雨にほとんど隠れているはずで、実際楓の目には何も映っていなかった。どこにも焦点を結ばないその目が見ているのは、目まぐるしく流れていくこれまでの軌跡。その流れから気まぐれに浮上したような様子で楓がぽつりと言う。

「さっきの話、どう思う?」

 それは忠志に尋ねるというよりも独り言のようだった。

「暁也がもし、自殺じゃないとしたら。あいつはなんで死んだんだ」

 その声はひどく静かだった。しかしその声の奥には、暗い怒りがくすぶっているのがわかる。感情をあまり顔に出さない楓は穏やかな人間に見られることが多い。しかしそれは見た目に表れないというだけのことだ。一度心の中に生まれた怒りはまるで熾火のように消えることなくくすぶり続ける。

 それを誰よりも知っている忠志はあえて明るい声で告げる。

「さぁ、どうする。楓が決断すれば、俺たちはついていくだけだ」

 それは楓の背中を押すと同時に、その孤独に寄り添う言葉だった。そうしてこれまで支え合って生きてきたのだ。

 楓は静かな声で告げた。

「けりをつけよう、あの事件に。俺たちの怒りを、そいつらに知らしめてやる」

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