ACT4 雪町 楓(1)
さっさと講義室を後にする雪町 楓を、その名を呼んだ当人である川辺 忠志が慌てて追いかける。
棟から出たところで追いついた忠志が小声で言う。
「あんな言い方してよかったのか?」
「……何の話だよ」
「さっきの女の子だよ。普通女子ってのはああいう言い方されると傷つくもんだろ」
「俺はただ事実を言ったまでだ。それで傷つこうがどうしようが向こうの勝手だろう」
「まったく、乙女心もちょっとは理解してやれよ」
そんな軽口をたたきながら構内の並木道を抜け、正門とは違う小さな通用口のような門を出ると、路上駐車された黒いセダンが見える。忠志がキーを出して開錠し、運転席側のドアを開けて体を滑りこませる。楓は慣れた様子で後部座席に乗りこむ。そちらの窓はスモッグが貼られていて、かなりいかつい印象がある。
エンジンをかけ、忠志が車を走らせ始めると、楓はその場で着替えを始める。
「……いつも思うんだが、よくそんなところで着替えられるよな」
スモッグのおかげで外からは見えないものの、中からは外が見えているのだから、感覚としては衆人環視の中で服を脱いでいるようなものだ。
「なんか危ないプレイみたいだな」
忠志が引きつった笑みを浮かべると、楓は不服そうに言い返す。
「学生気取りな服装はカジュアルすぎて虫唾が走る。できればこんな格好したくないが、目立つから仕方ないだろう」
「帰ってから着替えりゃいいだろう。事務所までここから数分なんだし」
「そんなことしたらこの姿を他の奴らに見られるだろうが。俺はそれが嫌なんだよ」
「まぁお前がそうしたいならいいけどね」
話している間に楓は着々と着替えていく。スキニーのデニムは黒のスラックスに、リネンシャツとグレーのパーカーは紺のクレリックシャツ、バーガンディの細いネクタイ、黒のジャケットに。その出で立ちはもう普通の学生には見えなかった。
まるでその中の人間まで変わってしまったように、低い声で言う。
「それより今は、暁也のことだ」
「……そうだな」
逮捕された大村 暁也が勾留中に死亡したということは第一報がネットニュースで流れた。しかしその後は大きな報道がないまま二日が過ぎている。忠志が続ける。
「実家に問い合わせたら、一応葬式は出すみたいだ。そん時にお前の名前を出したぞ」
「それは別に構わない」
「参列するか」
「ああ。いつだ」
「明日十時、家で」
「わかった」
それきり楓は黙った。血色の薄い顔は無表情に沈む。
楓が暁也と出会ったのは高校生のときだ。成績優秀ないかにも優等生といった雰囲気の楓とは反対に、暁也は教師も手を焼く不良だった。授業中は教室にいないことが多く、いたとしても机に足をかけて座り、持ち込んだ漫画を読んでいるか携帯をいじっているか。教師が注意をしようものなら掴みかかって殴る蹴るの暴行。授業が完全に中断するので、みな諦めてやり過ごす。放っておいてもそのうち退学になるだろうと思われた。
暁也は血の気が多く、常にそのターゲットを捜しているような少年だった。ケンカっ早く、腕も立つのでその威を借る狐のような取り巻きも複数いた。そうでない者は恐れて暁也たちには近づかず、いつも遠巻きにしていた。
ある日の放課後、楓が一人で授業の復習をしていると、暁也たちのグループが入ってきた。
「それは俺らへの当てつけか?優等生君」
初めて暁也が楓にかけてきた言葉は、そんな言いがかりだった。暁也は新たなターゲットに狙いを定めて下卑た笑い方をする。
そうして暁也のほうから接触してきたことに楓は内心ほくそ笑んだ。この状況を待ちに待っていたのは楓のほうだった。
「能ある鷹は爪を隠すって言葉、知ってる?」
「はぁ?何言ってんだてめぇ……」
言い終えるかどうかという内に、楓は暁也の腕を絡めとって関節をきめ、窓際に押さえつけてしまう。一瞬の出来事で周りの人間は何が起きたのか理解できない。暁也はあまりの痛みに息を詰める。何とか振りほどこうとするが体を窓際の壁に押し付けられていて身動きが取れない。
「こ、の、優等生、風情が」
「優等生っていうレッテルは便利だよ。みんな腫れ物に触るみたいに干渉してこないからね。君のやり方も一つだけど、注目を集めちゃうからあまりいただけないな」
楓はいっそ楽しそうにも聞こえる口調で、しかし他に聞こえないように声を落として囁く。
「て、めぇ、暁也を離しやがれ!」
やっと状況を飲みこんだらしい取り巻きが叫ぶ。それでようやく彼らの存在を思い出したというように、楓はそちらに向き直る。暁也の関節はきめたまま。
「同じ目に遭いたい?そうじゃないなら、逃げたほうが無難だよ」
口調はあくまで穏やかだが、その目が本気であることを告げている。しかし後ずさりながらもその場を離れない数人の生徒を見て、楓はやれやれとため息をつく。
暁也を離した瞬間、一番手近にいた一人のみぞおちに一発、もう一人の首に手刀を見舞い、一気に二人を落としたのを見て、さすがに残りの生徒も教室から走り去った。
「やっと静かになった」
そう独りごちて、改めて暁也に向き直る。とうの暁也は呆然として立ち尽くしている。
「お前は一体何者なんだよ」
思わずという感じで呟いた言葉に、楓はふっと笑う。
「こんな優等生風情のことより、君のことだ」
楓は必要以上に近づき、低い声で言う。
「君、大村 正和の息子だね?あのA事件で亡くなった」
「っ!……なぜそれを」
「知ってるよ。必死で調べたんだ。同世代の遺族を」
「同世代?」
「俺は母親を亡くしている。あの事件の後遺症で」
このときの暁也の心境は、楓には手に取るようにわかった。逃れることはできないのだという、諦めにも似た境地。当然だ。楓はそこに暁也を追いこむことが目的だったのだから。
一見にこやかにも見える顔で、楓は告げる。
「取引をしないか?」
「何のだよ」
「君はこの学校に残れ。これからはあまり目立たないように。君が今までまいてきた種は俺が取り除く。そして時が来たら……一緒に復讐の狼煙を上げる」
楓はあえて「取引」という言葉を使ったが、もはや暁也に選択の余地などなかった。他言無用の秘密であるA事件の情報を共有した遺族同士。
「俺にどうしろってんだよ」
「ただ大人しくしてればいい。心を入れ替えたようなフリをして。後のことは、俺に任せろ」
言いたいことはいろいろあったのだろうが、それを口にすればそれは楓を敵に回すことを意味する。楓の実力はつい今しがた目の当たりにしたところだ。敵に回せば厄介なことは目に見えている。
「わかったよ。その話に乗る」
「そう言ってくれると思ったよ」
そのときだけは、楓の笑みにほんの少し人間味が混じった。
あれから約六年。長いような短いような時を共に過ごし、いつしか暁也は楓がただ一人友人と呼べる存在となった。
その一件以来暁也はすっかり大人しくなったために、楓は彼の母である千春からは感謝された。千春は夫を亡くしてから女手一つで暁也を育ててきた。そのことに引け目を負っていたのだ。暁也が荒れるのは、父親がいないからだと、自分の教育が至らないからだと。それが楓と出会って落ち着いたと思っている千春は楓のことを息子のいい友達としか認識していない。A事件に関する計画については千春には黙っていた。
車が停まったのは、雑居ビルの地下駐車場だった。コンクリートにはひびが入り、蛍光灯のカバーは変色して割れ、チカチカと点滅している。暗くじめっとした空間の隅にある小さなエレベーターで、ガタゴトと揺られながら最上階へ昇る。その階にはフロアが一つしかなく、昔はそれなりに大きな企業が入っていたようだが、築五十年を超えている今、そこは忠志が代表を務めるベンチャー企業の事務所となっている。今の時間は社員は退社しており、フロアの電気は消えている。
外はすっかり暗くなっている。窓の外の街灯や他のオフィスビルから漏れる光が明るく見えるほどだ。明かりはつけないまま、楓は窓際の普段忠志が使っているデスクに腕をつく。
ややして、先ほど自分たちを運んだエレベーターが階に着いてゴウ、という音を立てる。開いたドアから出てきたのは、楓と似通った身なりの数人の男。その中心には、なぜか腕を後ろ手に絡め取られた壮年の男がいる。その男は急に楓の前に押し出されたように膝をつく。捕らえられた腕を離され、前へ突き飛ばされた形だ。
楓はその前にしゃがみこんで男と目線を合わせた。男はこんな暗い部屋でもわかるほどに青ざめた顔をしている。そんな男をよそに楓は一見穏やかに見える微笑で、それとは対照的にぞっとするほど冷えた口調で話しかける。
「あんた、一体今まで何やってたんだよ」
怯えたように震える男を射抜くように見据えながら、抑えた声で続ける。
「あんた言ったよな?俺が捜査の目先をそらすから問題ないって。なのに暁也は逮捕された。それでも事件とは無関係の別件逮捕で実害は無いと。なのに暁也は死んだ。これがどういうことなのか、説明できるならしてみろよ!」
最後には怒号に変わっていた。男の胸倉を掴んで締め上げる。青い顔から冷や汗が浮いて光を反射する。
それはここへ来て初めてあらわにした、楓のまっすぐな怒り。もはや抑えることもなく解き放たれた烈火のごとき怒り。
「その辺にしとけ。死んじまうぞ」
冷静な声をかけたのは、いつの間にか似たようななりに着替えた忠志だった。楓の肩に手を置いてなだめる。
胸倉を離された男は咳き込んで大きく息をしながら、かすれた声で言う。
「すまない」
「謝られたって暁也は戻ってこねぇんだよ」
少し落ち着きを取り戻した楓は男のほうを見ずにその言い訳を聞いた。
「捜査本部の誘導は、うまくいったはずだった。途中で捜査を外れた捜査官がいたのは知っていたが、それが暁也君を追う目的だったとは知らなかった。勾留中にあんな形で命を落とすとは、予想ができなかった」
「あいつが自分から命を絶たなければいけないと思うほど追いこまれてたってことだろ。その片鱗ぐらい掴めなかったのかよ」
「それは……」
男は言葉を濁した。煮え切らない態度の男を今度は立ったまま見下ろす。
「あんた、本当はどっち側の人間なんだ?俺たち側か、それとも警察側か。なぁ、警視庁刑事部、古川 雅彦警視正」
楓は男のジャケットの内ポケットに手を突っこみ、引きずり出したものを目の前で広げる。それは男の顔写真が載った警察手帳。
その男、古川は警察手帳から目をそらすようにして俯く。
「……俺はA事件で朝子を亡くした。それだけは事実だ」
それ以上は言葉が出ないようだった。楓はやりきれないというように一つ重いため息をつき、手にした警察手帳を床へ放る。
「もういい。好きにしろ」
そのまま振り返ることなくフロアから出て行った。