ACT3 大村 暁也(2)
「おう、石井。上がりなら付き合え」
「はい?」
優美が書類を片付けて刑事課室へ戻ると、自身の机でなにやら手帳とにらめっこしていた高岡が声をかけた。案の定高岡の分の調書を書かされた優美はうろんな目でその姿を見る。高岡は背もたれから重そうに体を起こすと、かけてあった背広を肩に引っ掛けてこちらに歩いてくる。
「前払い認めねぇっつったのはおめぇだろうが」
「聞こえてたんですか」
意外だった。優美としても期待はしておらず、むしろそんなことを言ったことも頭の隅に追いやっていたほどだ。呆気にとられているうちに高岡はさっさと出て行こうとするので、その後を慌てて追う。
外に出ると、街は夕暮れに沈もうとしていた。梅雨入り前の薄い色の空がぼかしたようなオレンジ色に染まってゆく。
高岡は優美の前を振り返りもせずにすたすたと歩いていく。その後ろ姿がなんだか少し小さく見えて、優美は内心どきりとした。現場の一線で優美のような若い刑事を育てながら、自身も共に走り続けている高岡。刑事というのは体力勝負だ。体を壊して惜しまれながら閑職につく元刑事も少なくはない。まだまだ若く見える高岡でも、やはり体は衰えてゆくのだ。いつまでも新人気分で頼っているわけにはいかない。
ふと優美は不安になった。自分は果たして高岡の期待するような刑事になれているのだろうか。後を任せて安心して引退してもらえるような、そんな刑事への道をちゃんと歩けているのだろうか。その日はそう遠くない未来、確実にやってくる。今回急に取調べを代わるなどと言い出したのは、遅々として進まないこの状況を憂えたからではないのか。ふがいないと、思われたのではないか。
てっきり居酒屋に入るものだと思っていた優美は、高岡が地下の隠れたバーに入っていくので驚いてしまった。どれだけひいき目に見ても、似合わない。しかしそんな優美の思いなど知る由もなく、高岡はどんどん階段を下りていってしまう。まさか引き止めるわけにもいかないので、優美は仕方なくついていった。先に立って高岡がドアを開けるとカラン……とドア上部に付けられたベルが鳴った。
「あぁ、いらっしゃい」
マスターらしき男性が高岡に声をかける。どうやら常連らしく、お決まりのようにカウンターに座る。優美は恐縮しながらも、勧められるまま高岡の隣の席についた。
渋い声で注文を聞かれて、高岡は「いつもの」と慣れた調子で頼む。その様子に、本当にこの店の常連なのだと納得せざるを得ず、釈然としない気分のまま優美は「それじゃあ、おススメのものを」と続けて頼んだ。
マスターが奥に引っこむと、優美はこらえきれず高岡に尋ねる。
「あのぅ、よく来るんですか、このお店」
全然似合わないんですけど、という言葉が喉まで出かかったが、すんでのところで飲みこむ。高岡は一瞬何を訊かれたのかわからないというような顔をしたが、すぐに応えた。
「あぁ、まぁ、たまにな。ここは麻木――さっきの奴な――あいつの店だから」
「お知り合いなんですか?」
「知り合いどころか、あいつは高校時代の柔道部同期だ」
「……まさか」
優美は顔が引きつるのを隠せなかった。何の冗談だと思ったのだ。
麻木というらしい先ほどのマスターは細面で、ロマンスグレーの髪を上品に整え、深い皺の奥で穏やかに笑んでいた。その落ち着いた物腰はとても高岡と同世代とは思えない。それに。
「柔道をされていたにしては、線が細すぎます」
カウンターで隠れていたため上半身しか見ていないが、腕も腰も細く、筋骨隆々という感じではない。柔道をしていると足腰にも腕にも重く大きな筋肉がつくものだ。優美が着やせして見せるために陰でどれだけ努力していることか。それを言うと高岡は笑った。
「まぁ昔の話だ。数年前まで指導者をしてたらしいが、そっちも引退して久しいくらいだからな。だが当時は強かったんだぜ?主将を務めたこともある」
その時麻木が戻ってきたので、彼の話はそこまでとなった。
麻木が高岡の前に出したものを見て優美は内心呆れた。それはどこからどう見ても日本酒だった。「こんなおしゃれなバーで日本酒かよ」というつっ込みは心の中に留めておいた。これがここでいつも頼むものだというのだから手に負えない。熱燗でないのがせめてもの救いかもしれない。
そんな高岡の前から自分のほうへ視線を戻すと、そこにもグラスが置かれていた。こちらはれっきとしたカクテルのようだ。薄いピンク色のお酒が三角のカクテルグラスに注がれ、さくらんぼが飾られている。
「チェリーブロッサムというお酒です。あなたを見たとき、季節はずれの桜を見たような気持ちになったので」
渋みのきいた声でにこやかにそんなことを言われ、優美は頬が熱くなるのを感じた。麻木の紳士的な雰囲気にのまれ、バーという非日常の空間にのまれ、優美はまだ呑んでいないのに酔ったようにぼぅっとしてしまう。
そんな様子を横目に見ていた高岡がにやりと笑ってからかう。
「まぁ、桜ってのはあながち間違いじゃねぇな。警察の紋章は桜の代紋っていうくらいだ。本人は桜なんて柄じゃねぇが」
「高岡さん一言余計です」
せっかくこの雰囲気に酔っていたのに、高岡のおかげで台無しだと優美は思う。一方で麻木は桜の寓意を言い当てられて照れたように笑っている。
その後は特に話が弾むということもなく、高岡はしばらく冷の日本酒をゆっくりと堪能していた。一方の優美はこの店には初めて連れてこられたわけで、常連らしい高岡のように堂々と振舞うことはできない。そもそもバーなどという空間に足を踏み入れることさえない優美にとっては、この店はハードルが高すぎた。初見の店でいきなり放っておかないで欲しいと思う。しかし高岡はそういうところに気を回さない人間なので、優美も諦めて供されたカクテルを味わうことにした。甘みが強すぎず飲みやすい。後味もさっぱりとしていて、最後にふんわりと桜が香る。カクテルはおいしいが、やはり場違いな空気にのまれる度合いのほうが大きい。
日本酒の注がれたグラスが二度目に空になった頃のことだった。高岡はおもむろに鞄を開いて紙の束を引っ張り出し、優美の前に放った。それはA四用紙が何枚か綴られた何かの資料だった。高岡が目配せをして麻木が奥へ引っこんだので、これが今日の本題だったのだと見当がついた。
手に取り、資料に目を落とす。読み進めるうちに、優美はどんどん酔いがさめていくのがわかった。
「これは……」
ともすれば混乱しそうになるのを必死にこらえて頭をフル回転させる。そこに書かれていたことは、あまりにも突拍子のないことだった。しかしそれは大変重要な情報だった。いま優美たちが追っている事件の、根幹に関わるような。
酒が入っているのが嘘のような至極真面目な調子で高岡が言う。
「俺は何もお前に全部丸投げにしてたわけじゃねぇ。……それ漏らすなよ。俺のクビが飛ぶ」
それはそうだろう、と優美は思う。なぜならそれは、決して外に漏れてはいけない警察の内部情報だったからだ。
いつの間に高岡はこんなことを調べていたのだろう。それを思うと空恐ろしくなる。優美とは違いベテラン刑事である高岡は、警視庁側の捜査でもその腕をあてにされて駆け回っているはずだ。その合間に調べ上げたにしては、その資料は詳細すぎた。全力で捜査しながら、一方で下手をすればクビが飛ぶような内部情報を掴むなど、常人にはできない離れ業だ。
「この、古川さんって確か、警視庁の現刑事部トップですよね。現場からのたたき上げで、すごく優秀な人だって……」
「ああ。古川は俺の同期なんだ。同期の中であいつが一番の出世頭だった。現場にいたときはよくバディを組んだもんだ」
「そんな人が、どうして……」
どうしてこんな事件に関わったのだろう。みなまで言わずとも当然のようなその疑問は高岡にも伝わったようだ。苦々しい表情で絞り出すように言う。
「敵は思いの外近くに潜んでたってわけだ。全く、とんだところから寝首を掻かれたよ」
カウンターに肩肘をつくと、高岡はぐったりとうなだれる。疲れているのだろう。それはおそらく、多忙な捜査のためだけでなく。
「なぁ、石井」
「はい」
「他人が人にしてやれることなんて、ちっぽけなもんだよなぁ。この手に掬えるだけの水を分け与えてやるくらい」
高岡は両手のひらで椀の形を作り、その中を覗きこむ。まるでそこに本当に水を湛えているかのように。
「人間が人間を救うことなんて、本当の意味では無理なんだ。そんな考えはそもそもおこがましいんだよ。神様じゃあるめぇし。見ろ、こんなちっぽけなことだぜ?せいぜい。……だから警察なんて仕事はいつまでも公務員なんだろうな。そんなおこがましいことに、片足どころか両足突っこむような仕事だもんなぁ」
それはまるで独白のようだった。警察に身を置く己を励ますようでもあり、呪うようでもあった。
翌朝、出勤したばかりの優美のもとに、吉田が駆けこんできた。
「石井さん、大変です」
「どうしたの?」
その様子に優美は呆気にとられた。息を切らした吉田の顔は真っ青だった。こんなにあからさまに血の気の引いた人間というのは、遺体を別にすればそう目にするものではない。尋常ではない事態なのだろうと察しはついたが、そこまでの事態というのがうまく想像できなかった。そのうちに息を整えた吉田が震える声で告げる。
「大村が、死亡しました。自殺と思われます」
「……へ?」
言われたことがすぐには飲みこめず、優美は力の抜けた変な声で訊き返した。ぽかんとする優美に業を煮やしたように、吉田はその肩を押して強制的に回れ右をさせる。これまでにないほどの力技だった。
「とにかく、留置場に来てください。まだ救急隊もいますから」
吉田と共に留置場へと急ぐうちに、優美にもだんだん事態が飲みこめてきた。この事件の重要参考人であり、被疑者である大村が、死んだ……。
鍵が空いたままの鉄格子に手をかける頃には、優美も吉田と同じように震えていた。自分の目で確かめなければならないと頭ではわかっていても、足がすくんでしまう。その先には見たくない、認めたくない現実が口をあけて待っている。
恐る恐る歩を進める。他の刑事と、救急隊員とみえる青白い服を着た男が数人、その部屋の前に固まりになって中の様子を窺っている。
鉄格子越しに中をのぞく。ちょうど大村が担架の上に寝かされるところだった。その体が運ばれた後の床には黒っぽいしみができている。既に事切れている大村にはすぐに毛布がかけられたが、その一瞬に目に入った口元から上着にかけて広がった赤が焼きついて離れない。
仕事柄、遺体には今まで何度も対面してきた。人間というのは恐ろしいもので、そんな非日常も繰り返しているうちに慣れてしまう。だからその光景自体にはもうとっくに慣れているはずだった。しかし。
優美は急に目の前が暗くなるのを感じた。次に光を感じた時には、床に座り込んでいた。隣で吉田が慌てたように背中を支えてくれている。そうしてもらわなければばったりと倒れるところだった。
「だ、大丈夫ですか」
その緊迫した声で、逆に優美は少し落ち着きを取り戻す。優美よりずっと青い顔をして今にも倒れそうな後輩刑事に心配されている。こんなことではいけない、と気合を入れる。
「ちょっと待って。大丈夫だから」
何とか体勢を立て直しているうちに、大村の遺体は救急隊の手で運ばれていった。その場にいる全員が、その様子を固唾をのんで見守った。
そんな沈黙が支配する中、優美の耳にかすかな声が届いた。
「どうしてこんなことに……」
同じことを思っていた優美はその声の主を目だけで探る。そのときの声の距離感からして、すぐ隣の吉田ではありえない。あまりにも小さな囁きで声の特徴までは捉えることができなかった。よく話す者なのか、まったく面識のない者か。この場に優美と面識のない者などいないはずだが……。
いや、いた。
この場にいるのは明らかにおかしい人物が一人、刑事たちに紛れこんでいる。
警視庁刑事部のトップ、古川 雅彦。
その顔写真を見たのはつい昨日のことだ。高岡と行った、あのバーで見せられた資料の中に、それはあった。こんな事態が偶然であるはずはない。
現場に出ることなど今はほとんどないであろう古川は、優美には明らかな違和感を伴って見える。何とか他の刑事に紛れようとしているようだが、無理があると思う。周りの刑事たちは気づかないのだろうか。古川は青い顔をして大村がいた部屋をじっと見つめている。
「石井さん、立てますか」
「あ、うん。ありがと」
吉田は心配そうに優美に肩を貸してくれる。まだ体にうまく力が入らない優美はありがたく甘える。そうして立ち上がったときには、もう古川の姿は見えなくなっていた。
一体どういうことだろう。考えようとすればするほど、心のどこかでそれを拒否する自分がいる。心臓が早鐘を打つ。深入りするな、と脳が激しく警鐘を鳴らす。
古川が本当に関わっているとすれば、これはただの犯罪ではない。この事件の裏には、何か重大な秘密が隠されている。それはともすれば警察という組織自体を根本から揺るがしかねない、重大な秘密。
優美には一つだけ、思い当たることがあった。それはできればあまり考えたくない可能性だった。
群がっていた刑事たちも去り、人気が少なくなった頃、ようやく一人で歩けるようになった優美は吉田と共にその場を後にした。今後のことを考えるとその足取りはひどく重かった。