ACT3 大村 暁也(1)
取調室には長い間、重苦しい沈黙が降りている。石井 優美は机を挟んで座っている男、大村 暁也を睨むように見据える。
「何か話してくれないと終わらないんだけど」
優美は苛立ちを抑えられずにいた。せめてもっと時間があれば、と思う。取調べは神経戦だ。追い詰められたほうが負ける。均衡が崩れたときに、ほんのわずかな糸口を掴めることがある。それを逃すほど優美は腑抜けではない。ただ、大村は崩れなかった。完全な黙秘を決めこみ、正面にただじっと座り続けている。
こういうときは刑事側が不利だ。時間も限られているし、苛々が募れば正常の判断が難しくなる。優美は自分を落ち着かせようと、目を閉じて静かに息を整える。そして、改めて大村と対峙する。
優美の印象でいえば、大村はとらえどころのない男だった。今はグレーのスウェットにジーンズというどこにでもいるような服装のその男には、髪を染めていなければ特段目立つところはない。太っても痩せてもいない体格で、想像していたよりも小ざっぱりとしている。どこにでもいる、普通の男。ある意味あまり犯罪者という雰囲気はない。しかし優美は大村にある違和を感じ取っていた。
それは、感情の欠落。まるで人間としての感情を持っていないように、いや、もっと根本的な、自我と呼べるものが欠如しているように見えるのだ。
大村は喋らない。逮捕したのは応援要請していた捜査官だが、話を聞く限りではその瞬間から、たった一言も発していない。それに加えて、感情らしきものを読み取れるような表情の変化もない。取調べを輪番でおこなっている他の捜査官に聞いてみても、いつもそんな様子なのだという。
普通、被疑者として勾留されて取調べを受けていれば、黙秘していようが供述していようが何らかの感情を抱くものだ。それはあるいは苛立ち、あるいは悲観、あるいは憎しみ、あるいは後悔。だが大村の表情からは、そのどれも読み取ることができない。たまに詐欺師などで自分の感情を完全にコントロールしている人間もいることはいるが、大村から受ける印象はそういった類のものともまた違う。そもそもの感情を発露する主体としての自我自体が存在しないような空虚感。魂を抜かれてしまったかのような、人間ではなくただの人形と対峙しているような感覚。それは薄ら寒い不気味な感覚を優美にもたらす。そんな大村の取調べは、ひどく神経をすり減らす作業だった。
午前の取調べを終えて狭い取調室から廊下へ出る。空気の濃度が違う気がして優美は大きく息を吸った。部屋の空気がどれだけ重かったかを改めて知るところとなった。
すっかり凝り固まってしまった肩周りの筋肉を伸ばすようにストレッチしながら刑事課室に戻る。するとそこには、久しぶりに目にする姿があった。
「高岡さん……?」
それは今も警視庁の合同捜査本部で捜査を続けているはずの高岡だった。
「よう、元気か」
「どうしたんですか?いきなり現れたらびっくりしますよ」
「んだよ、いちゃ悪いかよ」
「そうは言ってませんよ。ただ心臓に悪いなぁと思っただけです」
「相変わらず口悪いなお前」
言葉とは裏腹ににやりと笑う高岡は何かを優美に向けて放る。慌てて受け取ると、それは優美が最近よく飲むメーカーの缶コーヒーだった。こういうところを高岡はよく見ている。特に好きだから飲んでいるというわけではないが、今の優美はそんな高岡の気遣いが嬉しかった。
「その様子じゃあ相当参ってんな?」
「……いただきます」
缶を開けながら、そんなに疲れた顔をしているだろうかと思う。一応被疑者からなめられないようにしっかりめに化粧はしている。派手に、という意味ではなく、こちらの疲れや弱みを気取られないようにクマを消したり、血色よく見せるチークを入れたり。取調べは対面でおこなうので、こうした印象も結構大事だったりする。それでも疲労が透けて見えているのならちょっと問題だと思う。ただ高岡の観察眼が鋭いだけとも考えられるが。
「でも、本当にどうしたんですか?そちらの捜査だってあるでしょうに」
警視庁の合同捜査本部はいまだ健在で、高岡もそちらに参加している。大村の逮捕は表向きでは暴力事件の被疑者となっているし、実際今のところ調書はそちらの事件であげている。とはいっても完全黙秘なのであげるほどのこともないが。
高岡からの指示で、大村を例の連続事件関連の被疑者と目していることは伏せてある。今それを知っているのは高岡と優美、そして吉田といった優美に協力している数人の捜査官のみだ。よって捜査本部ではいまだに組織犯を疑い、逮捕のために動いている。それを知っているから怪訝な顔をしている優美に、高岡は自分のコーヒーをすすった後に応えた。
「飽きたんだよ」
「飽きた?」
思わず素っ頓狂な声で訊き返す。一体この先輩は何を言い出すのだろう。当の本人は特に気にするでもなく飲み終えた缶を手近な机に置く。
「それより石井、ちょっと頼みがあんだが」
「……なんですか」
あからさまに身構えた優美を見て高岡は笑う。そんな大したことじゃねぇよ、と気軽に言う。
「大村の取り調べ、ちょっと俺と代わってくれ」
「え?高岡さんが取り調べるんですか?」
「別にずっととかじゃねぇぞ。今日午後イチとかでいい」
「こんなところで堂々と油売ってたらまずいんじゃないですか?」
「油売るったって、取調べは仕事じゃねぇか」
「ご自分の職務を放棄してることには変わりないでしょ」
慇懃無礼な優美の言い様に、本当なら怒ってもいいところだと思うが、逆に高岡はにやりと笑う。
「そんなこと言っていいのか?どうせ進展してねぇんだろ?俺が突破口になってやってもいいんだがなぁ」
「ぐぅ」
やっぱり喰えない人だ、と優美は思う。結局何もかもお見通しなのだ。その上で自分の思う方向に人を動かすのだからどれだけ策士なのだろう。戦国時代のようなときに生きていたら裏から国を動かす陰の実力者になっていたかもしれない。
いっそ楽しそうにこちらの様子を窺っている高岡に、優美は観念した。
「別にいいですよ。好きに調べてください。でもばれたらご自分で何とかしてくださいね」
この場合調書は自分が書くことになるのだろうか。さすがに高岡自身に書かせてはばれずに済ますのは至難の業だろう。捜査員のほとんどを警視庁に確保されている今、署内はがら空きで誰かに見咎められる可能性は低い。だが調書となるとその人間の癖が顕著に出る。手書きのものを残すわけではないが、見る人が見ればどの捜査官があげた調書なのかぐらいは簡単に見破られてしまう。優美はなんだか自分の仕事が増えそうな予感がしてため息をつく。
「まぁそう憂うな。悪いようにはせんよ」
「お願いします。これ以上トラブったら胃に穴開きます」
「全くおめぇはひ弱だなぁ。そんなんじゃ刑事は務まらんぞ」
「わかってますよ」
終始楽しそうに笑っていた高岡は優美に背を向け、去り際に手を振りながら告げた。
「んじゃそういうことで。手間賃は前払いな」
「は?前払い……って、えぇ!?」
優美は手の中を見る。先ほど投げて寄越された缶コーヒー。自販機で買ったとしても百円ちょっと。どう考えても割に合わない。
「認めませんよ!後できっかり請求しますから!……もう」
振り向きもせず出て行った高岡に優美の言葉が届いていたかは不明である。
目的のわからない犯罪は、人々に恐怖を刻み付ける。
だから動機の解明が必要なのだ。
事件を解決に導き、一般市民が安心して暮らせる社会にするために。
世間はニュースやワイドショーで事件を騒ぎ立てる。
不安だからだ。不安は共有することで和らぐから。
世間を震撼させた事件の核心は、すぐ、そこに……。
意外なほど丁寧なノックの後、高岡は取調室のドアを開けた。机の向こうに座っている大村は、入ってきた高岡の方を見るでもなく、静かにじっとしている。この世界が長い高岡は他の捜査官が尻込みするそんな大村の様子にも動じることはない。むしろリラックスした様子でその若い男に対峙する。
「初めてお目にかかりますね。この時間の担当になった高岡といいます。ひとつよろしく」
物腰は柔らかだが芯の通った張りのある声で名乗った高岡。その声が届いているかも疑わしいほど、大村はピクリともしない。かといってその声が聞こえていないことはありえない。勾留される者はその前に健康上問題がないかある程度検査される。大村に聴覚異常などの所見はなかった。
感情は相変わらず読み取れないが、疲労は溜まっているのだろう。大村はやや椅子の背もたれに沈みがちな姿勢で机の一点に視線を据えている。それが余計に魂のない人形のような風情を醸し出している。
高岡はその視線の先にちょうど来るように手帳を開く。まだ何も書かれていない、更のページ。
「実は今、私は別の事件を担当してるんで、こちらに関しては詳しくないんですが、まぁ問題ないでしょう。あなた、全然喋ってないみたいだし。石井って捜査官がいたでしょう。あれは元々うちの班の預かりでね。私が面倒見てんですが。まぁ、気が向いたら喋ってやってくださいよ。あいつもだいぶ焦れてるんで」
隣で優美が聞いていたら抗議するどころか足でも踏まれそうな台詞をさらっと吐くと、高岡は手帳にペンを走らせ始めた。時折大村の視線を確認しながら。
「こんなこと言うのもなんだが、私はこの事件じゃ部外者なものでね。正直に言ってしまうと、あなたから何かを聞きだそうとしゃかりきになる気はないんですよ。そんなわけで、あなたは喋らなくて結構。こちらが勝手に喋りますんで、ただ聞いていてくれればいい」
取調べをする刑事としては如何なものかという発言をしながら、しかし手元ではまったく別のことをさらさらと書いていく。
そのとき、驚くべき変化が起こった。今の今まで全くといっていいほど表情を動かさなかった大村が、眉をピクリ、と動かしたのだ。その小さな変化を高岡は見逃さなかった。
手帳に高岡が書き示したもの。それは――
――古川 雅彦を知っているな?
相変わらず大村は喋らなかったが、その反応は是と応えていた。高岡はそのとき初めて普段優美に見せるようなにやりとした笑みを見せた。ただ、その目は笑っていない。
「警察ってのは難儀な職分でね。事件なんて起きてくれないほうが世の中のためなんだが、うちらだって手柄を立てなきゃならない。仕事ですからね。何もしないでお給料もらうわけにはいかんのでね。まぁ事件がないからって何もしてないわけじゃないんだが、そこはまぁ、世間一般の方々には見えにくいんですわ。派手な事件が起きてくれたほうが体裁がいいっていう。まぁ、矛盾してますわな」
口ではただの愚痴のようなことをだらだらと喋りながら、高岡は手帳にペンを走らせ続けた。明らかにそれは、大村に対するメッセージだった。
――古川は俺の同期だ。よく酒を酌み交わす仲だ。
警察の人間を仲間に引き入れようなど、なめた真似してくれやがる。
「おや、どうしました?顔色が悪いですね」
口調はあくまでとぼけた様子で。しかしその目が、その表情が、真の高岡の感情を表していた。
それは、怒り。それもすぐには収まることのない、大村に対する激しい憤怒。
「ちょっと、君。こちらに水かなんか差し上げて」
「え?あ、はい」
急に声をかけられた書記を務めていた若い警官は、大村の様子を見て慌てて出て行った。
今では、高岡には大村の動揺が手に取るようにわかった。どんなに感情を表面上取り繕おうとも、体は正直だ。無意識の生理現象までコントロールするのは難しい。今の高岡のまっすぐな怒りを受け止めればそれは当然の反応といえる。
つぅ……と垂れた冷や汗を睨むように見て、高岡は低く囁く。他の者に聞きとがめられないように、かすかな声で。
「お前らは負けたんだよ。この事件の真相、俺が必ず暴いてやるからな」
そのとき初めて、視線を動かした大村と目が合った。動揺しているはずのその目は全ての光を吸い込む漆黒の闇のように、何も映していなかった。