ACT2 田中 沙絵子(2)
それから、数日後。
「沙絵子ちゃん!一緒にお昼食べに行こ」
大学は中間試験の時期にさしかかっていた。教授によってレポートで済まされる単位もあるが、一年生の沙絵子たちは一般教養が主で、その多くは今までの授業内容から解答させるテスト方式をとっている。沙絵子は受験以来の勢いで勉強してちょっと疲れていた。試験期間も変わらずバイトにも行っていた。
茜と顔を合わせるのは沙絵子のアパートでのパジャマパーティ以来だった。取っている単位自体ほとんどかぶっていないので、レポートのみのコマが休講になっている今の時期はそれもやむないことだった。
学食のメニューの中で一番おいしいと言ってはばからない唐揚げ定食を幸せそうに口へ運ぶ茜に、沙絵子はどうしても訊かなければならないことがあった。
「それで、例の彼とはどうなったの?」
「それがさぁ、あの日以来ぱったり見なくなっちゃったんだよね。どうしたんだろ」
それはその日まで会えていたのがただの偶然で、やはり運命などではなかったからでは?……とは沙絵子は心の中で思っても決して茜には言えなかった。
「そうなんだ。それは寂しいねぇ」
「沙絵子ちゃんそんな風に思ってないでしょ」
「げ、ばれた」
「沙絵子ちゃんの嘘はすぐばれるよ。心がこもってないのが丸わかりやし。まぁいいけどね」
茜は大口を開けて唐揚げをほおばる。その様子ではあまり気にしていないようだ。
「それよりさ、私気になることがあるんだけど」
自分のハヤシライスを口に運んでいた沙絵子は、茜のその発言に身構えた。いきなり茜がそういうことを言い出すときは、たいがい妙な方向に話が転がる。
「何?」
「沙絵子ちゃんってさ、好きな人いるよね」
「ぶふっ」
思わず食べていたハヤシライスを吹いてしまった。慌てて紙ナプキンを掴む。茜が定食を食べ終えていたことが救いだったようなそうでもないような。
茜は以前沙絵子に彼氏がいるのか問い詰めた時と同じような視線を投げてくる。どうもこういうときの茜はやりにくい。
「何よいきなり」
「だって私ばっかり恋バナしてんのも不公平じゃない?それに」
「それに何よ」
「最近沙絵子ちゃん、ずぅっと見てる人いるでしょ。一緒に取ってる概論の講義中」
「ぐぅ。よく見てるなぁ茜……」
確かに沙絵子には、今秘かに気になっている人がいる。茜の言うそのコマしか被っている講義がなく、おそらくは学部も違うために姿を見ることができるのはその週一回の講義のときだけ。
「確かに気にはなってるけど、茜みたいに好きとかそういうんじゃない感じだけど。だいたい名前も何も知らない人だし」
「甘いよ、沙絵子ちゃん」
「あ、甘い?」
思わず素っ頓狂な声が出た。そんな沙絵子をビシッと指差して茜が言う。
「恋ってのはね、スピードが勝負なんだよ。つまり、直感。あ、この人いいな……って思ったならその後好きだって自覚する可能性が高いんだから。早くしないと他の人に掻っ攫われちゃうよ」
「いやぁ、そんなこと言ったってさぁ……てか既に彼女とかいるかもしれないわけだし」
「だめだよ!行く前から諦めちゃ」
「は、はぁ……」
やはり沙絵子の思った通りだった。こういうときの茜は厄介だ。
「で、私にどうしろと?」
訊くと茜はにやりとした。もう悪い予感しかしない。
「もちろん、ガンガン行くに決まってるでしょ。うちもサポートするからさ」
そのサポートは本当に沙絵子のことを思ってなのか、それとも単なる興味本位か。それを問うても始まらないことは何となく察しがついていた。
それから、二人の(主に茜による)沙絵子と件の彼の接触を図る作戦が始まった。そもそも名前もどこの学部の学生なのかもわからない相手だ。そこで茜がサークルなどのつてを頼ってまずそうした基本情報を割り出す。その結果。
「ユキマチ カエデ。工学部三年。周囲の話では、おそらく彼女はいない」
いつもの学食で、声のボリュームを控えめにして茜が報告する。手にした携帯の画面には大学の入学記念のアルバムの写真を又撮りした画像が映し出されている。確かに彼の姿だ。写真の下に小さく名前が書かれている。雪町 楓。
その写真に見入っている沙絵子に、さらに声を潜めて茜が続ける。
「この人すごい人みたいだよ。高校はトップの成績で卒業してるし、ここにも首席で入学してる。ほら、なんか入学式で代表の挨拶みたいなのする人いるでしょ?あれやった人だから、この学年では結構有名な人なんだって」
「そう、なんだ……」
確かに授業のときも、常に数人のグループに取り囲まれていて、正直取り付く島もないような感じだ。今の話を聞けば納得する。その情報は沙絵子に余計に彼との距離を感じさせた。
しかし、当の本人の気持ちなどお構いなしの様子の茜は、悪だくみをけしかける商人よろしく不敵な笑みを浮かべる。
「さて、これで情報も手に入れたことだし。動くわよ」
「へ?動くって?」
「もう!最初に言ったでしょ?スピードが大事だって。あとは行動あるのみ」
ガツガツと畳み掛けてくる茜とは対照的に、沙絵子は全然乗り気ではない。意気揚々と動いている茜には申し訳なくも思うが、そもそも恋愛に対して積極的なほうではない。
ついに沙絵子はため息混じりに訊いた。
「なんで茜はそこまでできるの?言ったら他人の私のために」
それに、と思う。茜にとっては沙絵子に彼氏などいないほうが好都合なのではないのか。あんなに悩んでいた人間関係を複雑にしてしまうだけではなかろうか。
すると茜はちょっと拗ねたように頬を膨らませた。
「沙絵子ちゃんは他人じゃなくて友達だよ。友達の心配したらいけないかな」
「いや、いけなくないよ、全然」
一瞬茜の中の地雷を踏んでしまったかと思ってひやりとしたが、どうもそうではなさそうな雰囲気。ちょっとうつむき加減に、難しい表情をした茜が告白する。
「正直な話をするとさ、もし沙絵子ちゃんが誰かと付き合うんだったら、うちが知ってるとこで付き合ってくれたらいいなっていうのはあるんだ。知らん間に彼氏がいてっていうよりずっとマシやから。こんだけうちも関わってたら、さすがに隠せんでしょ」
「いや、関わってなくっても茜には隠さないけど」
沙絵子が応えると、今度は茜が盛大にため息をついた。
「わかってるつもりだよ。でもうちにはこんなやり方しかできんのよ」
そういう茜は苦しそうだった。友達を百パーセント信用したいのに、それができないもどかしさ。沙絵子にはわかっているつもりだ。茜は繊細すぎるのだ。
一息ついた沙絵子は、意を決した。
「うん、わかった」
「……?」
「茜の話に乗った。声かけてみるよ、雪町さんに」
いきなりの宣言にぽかんとする茜に、今度は沙絵子が不敵に笑って見せた。
「まぁ何でもやってみなきゃわかんないし?茜もこんだけ調べてくれたしね」
そこまで聞くと、茜はようやく笑みを返した。
「そういうとこ、沙絵子ちゃんらしくて好き」
さて。そうは言ってみたものの、実際どうすべきか。そもそも姿を見る機会もたったひとコマの講義以外は皆無に等しい。となれば、そのひとコマに賭けるしかない。
そしてその講義の日。
沙絵子と茜はいつもより少しだけ早く講義室に入った。その目的はもちろん、雪町 楓の動向をいち早く察知すること。
その講義室は入り口が正面の脇にあり、そこから階段状に席が作られているという構造だった。沙絵子たちは普段はわりと前のほうに座るが、今日は最後列に陣取る。
ややして、楓を中心にしたグループが講義室に入ってきた。あまり凝視しては相手に気づかれるので、ちらりとその行く先を確認する。
「確かにちょっとかっこいいよね」
「へ?」
急に茜が低く囁くので、沙絵子は心臓がはねる思いがした。茜は何かの専門家のような口ぶりで、だが内容は薄い発言をする。
「あれが沙絵子ちゃんのタイプってことね。うちと被ってないみたいでなにより」
「茜のタイプってどういう人よ」
「もっとワイルド系かな」
首席入学というだけあって、楓は理知的な印象の学生だ。背は高くも低くもなく、細身で服装もラフすぎない。大学生というくくりで見れば、真面目そうな部類に入るだろう。そのわりには周りの取り巻きは雑多な印象で、それがかえって本人の懐の深さを示しているようだ。輪の中心は常に彼だが、かといって取り巻きを率いているという気取りも感じさせない。人の心をうまく掴むタイプに見える。何でもない話題で談笑する彼の笑顔をまぶしいと感じてしまうのが今の沙絵子だ。
正直なところ、その二時間の講義は全く頭に入ってこなかった。板書ですら怪しいので、後で茜にノートを借りる羽目になりそうだ。沙絵子が必死で頭をめぐらせるのは、この後のことだった。一体どうやって声をかけるか。今まで告白はおろか男子とまともに喋った経験すら希薄な沙絵子にとってそれはひどく高いハードルだ。そのときをさまざまに脳内でシミュレーションしてみても、どこの漫画かドラマかというようなベタな展開しか想像できない。
別に今日が無理なら次でもいいじゃないか、と囁くもう一人の自分がいる。だが何となく、今日を逃したらそのときは永遠にこないような気がした。茜に急きたてられ、重い腰を上げる気になった、この機会を逃したら。
心の準備など到底整わないまま、無情にも講義終了を知らせる電子音が鳴り響いた。気を抜くと頭の中が真っ白になってしまいそうだ。
「ほら、沙絵子ちゃん。行くよ」
茜の声で我に返る。楓たちは既に席を立っていた。二人で慌ててその後を追う。
講義室を出ようとする学生で混雑した出入り口でそのグループにやっとのことで追いつく。
「あのっ、雪町さん」
気がつけば、後先も考えずにそう呼びかけていた。すぐ後ろをついてきていた茜が若干引いた気配がする。
輪の中心にいた楓に続いて、取り巻いている学生たちも振り返る。一斉に注目を浴びることになった沙絵子は、まるでその限られた数人と自分だけが世界に取り残されたように感じた。その周りの景色はすっぱりと切り落とされてしまったかのように全く目に入ってこない。
初対面の沙絵子に呼び止められた楓はうろんな顔でこちらを見つめている。その顔をずっと見ていることは叶わなかった。そのときになって、沙絵子はようやく茜の言っていたことが正しかったのだと認めた。
心臓が跳ねるのは、緊張しているからじゃない。目の前の人に恋してるから。
「あの、よかったら、その、ラインを交換してもらえませんか?」
うつむいて、消え入りそうな声で、震える手で携帯をそっと差し出しながら。たったそれだけのことが精一杯で、頬から耳にかけてがひどく熱い。
一瞬の沈黙が時間の断裂のように感じて、沙絵子はいたたまれなかった。その永遠のような一瞬の空白を裂いたのは、あまりにも妥当な疑問の声。
「なんで?」
それもそうだな、と思う。自分だってよく知りもしない人間からそんなことを言われれば身構える。だが沙絵子はもういっぱいいっぱいだった。周りの人間が何か囃し立てているようだが、それらは水の中で聞くようにぼやけてしまってうまく認識できない。
「楓」
そんな状態の沙絵子の耳に驚くほど鮮明に届いたのは、学生ばかりのはずの講義室には異質の、大人の男の声だった。
教授という感じでもない。もっと若い、だが学生のそれとは明らかに違う。既に社会とかかわりを持った者の、迷いのない声。
「ごめん」
「……え」
その次に耳にはっきりと届いたのは、他でもない楓のきっぱりとした声だった。思わず顔を上げると、まっすぐな楓の視線に射られる。そんな風にばちっと男子と視線がぶつかったことのない沙絵子はそれだけでどうしたらいいかわからなくなる。
「悪いんだけど、興味ないんだ、そういうの」
「あ、そう、ですか」
後から思い返せばあんまりな言い様だと思うような楓の言葉にも、喉から絞り出したような声で返すことしかできない。
「沙絵子ちゃん、大丈夫?」
次に我に返ったのは遠慮がちに茜が声をかけてきたときだった。当然のようにそのときには楓の姿はなかった。急に呆けてしまった沙絵子は体の力が抜けてなかなかそこから動くことができなかった。