ACT2 田中 沙絵子(1)
ピンポン……と講義時間終了の電子音が聞こえる。
「では、今日の講義はここまでです。配ったプリントに関しては来週までに復習しておくように。ここからも試験に出します」
そんな教授の台詞を聞いているのかいないのか、学生たちはバタバタと教科書やノートを片付けて帰り支度をする。講義室を埋めていた大半の学生が席を立つ中、いまだに座ったままの女子学生が一人。田中 沙絵子、今年の春に入学したばかりの一年生だ。沙絵子は講義時間中に写し終わらなかった板書をノートになんとか走り書き、他の学生からずいぶん遅れをとって席を立った。
最後のコマだったので、講義室を出るとそのまま帰路へつく。外はどんよりと暗い。日はだいぶ長くなってきたが、今日は夕日をさえぎる分厚い雲が空を覆っている。一雨来そうな雰囲気。傘を持ってこなかった沙絵子は帰路を急いだ。
「沙絵子ちゃん!」
大声で呼ばれて振り返る。そこにいたのは竹内 茜。さっきまでのコマでは別の授業をとっている、沙絵子と同じ一年生だ。初日のガイダンスでたまたま隣に座ったことがきっかけで、大学に入って初めての友達になった。
「今日はこれからバイト?」
「ううん、休みだよ」
沙絵子は塾で事務のアルバイトをしている。そこで塾講師をしている従姉に斡旋してもらったのだ。一人暮らしもバイトをするのも初めての沙絵子にとってそれはとてもありがたかった。今日はその塾自体が休みなので、バイトも休みである。それを聞いた茜の目が輝く。
「じゃあさ、学食で一緒にご飯食べて帰らん?うちも今日サークル休みなんだ」
茜はテニスのサークルに入っている。中高とソフトテニスをしていたそうで、体が小柄なわりには運動神経は良いようだ。試合を実際に見たわけではないのであくまで茜の言によれば、だが。ちなみに沙絵子は前述のバイトが平日四日も入っているので、サークルには入っていない。
「いいよ」
「やった!一人でうちでご飯食べるのつまらんしなぁって思っててん」
「あはは。でもだいたい一人じゃないの?」
「サークルの人と食べに行くことが多いかな。先輩おったらおごってもらえるし。今日はほんと誰もつかまらんくて死ぬかと思った」
「大げさだなぁ」
茜は基本的にテンションが高い。そのマシンガントークに適度に相槌を打ちながら、青春を謳歌しているような茜を少しうらやましく思う。
学生食堂は正門近くの講堂に併設されている。最近建て直された新しい建物で、食堂というよりカフェのような雰囲気だ。昼は茜とよく来るのだが、こうして日が暮れた後に来るのは初めてだ。
中は昼時よりは空いていた。茜と共に席を確保してから注文口へ向かう。
『では、この時間に入っているニュースをお伝えします。まずは、先日起きました連続テロと見られる事件についてです。警視庁に設置された合同捜査本部の発表によりますと、一連の事件を起こしたとみられるのは……』
注文口近くのテレビでは、例の事件についての報道が流れていた。そのニュースを見るたび、あの不安な気分がよみがえってくる。
最初の事件は沙絵子の生活圏の外で起きたので他人事としか思わなかった。ただ二番目の事件では、沙絵子の住むアパートも停電した。上京したばかりのまだよく知らない街を包んだ暗闇。こういうときにはどうしたら良いのか、避難所も何も知らない沙絵子はただ部屋で震えていることしかできなかった。ろうそくも懐中電灯も何も用意してなかった自分を恨んだ。一時間足らずで復旧したからよかったものの、あのまま一夜を過ごす羽目になっていたらと思うとぞっとする。事件後、ホームセンターへ行ってとりあえずの防災グッズをそろえた。
「怖いなぁ。早く犯人捕まらないかな」
同じことを考えていたのか、茜もその画面を睨んだまま呟く。上京してきたのは茜も同じだ。
「茜のアパートも停電した?あのとき」
「うん。東京は怖かねって思った」
「東京だから、なのかなぁ」
「まぁ治安は悪いと思うよ、田舎よりは」
それきり画面からは目を離し、メニュー選びに専念する。
沙絵子は野菜炒め定食、茜は唐揚げ定食を選んで確保した席に戻る。
「そういえば、茜って出身はどこなの?」
さっきふと気になったことを訊いてみた。茜はほおばろうとしていた唐揚げを空中で一時停止させる。
「出身というか、ここに来る前は奈良に住んでたよ。うちの親転勤族だから、あんまり出身とか故郷って感じのとこはないなぁ。生まれたのは青森らしいけど、二歳ぐらいまでしかいなかったから覚えてないし」
「あぁ、そういうことか」
「ん?」
「いや、なんでもない」
茜の言葉遣いには時折不可解なイントネーションや語尾が混じる。関西弁っぽいときもあれば、九州の言葉のようなときもある。さすがにわからない方言などを使うのはまれだが、どこが出身なのか言葉だけではよくわからない子だった。それだけ全国を転々としたということだろう。目の前の茜はストップしていた動きを再開し、おいしそうに唐揚げをほおばる。
あはは……という不自然な笑い声が聞こえて振り仰ぐ。遠くのテレビではいつの間にかニュースに変わって何かのバラエティ番組が流れている。普段こんな時間にテレビを見ることのない沙絵子にはそれが何という番組なのかもわからない。話題は最近結婚したという芸能人のことのようだ。
「沙絵子ちゃんは彼氏とかいないの?」
「へっ?」
何となく遠くのテレビを眺めていた沙絵子は、茜からのその突拍子もない問いに飲みかけの麦茶を吹くところだった。
「いないよ。なんで急に」
その返事に納得していないというように、細い目で冷ややかにこちらを見る。
「えー、いないん?なんか沙絵子ちゃんって余裕あるし、大人な感じやし、全然いますけど?みたいな人に見える」
「いやいや、そんなことないって」
手振りでちょっと大げさなくらい否定してみても、茜は疑わしそうな目で沙絵子をじっと見つめるばかりだ。いたたまれなくなってチラッと視線を落とすと、唐揚げ定食はすでに完食されていることが判明した。さては手持ち無沙汰で話を振ったか。沙絵子はぎこちなくまだ半分ほど残っている野菜炒めを口に運ぶ。
「おかしいなぁ。うちのプロファイリング結果からいうと、沙絵子ちゃんに彼氏がいないはずないんやけど。これでも転校繰り返しとるし、人を見る目には自信あるんだけど」
「いや、そんな自信満々に言われてもいないもんはいないし。それどころかいたこともないし。ってかそういう茜はどうなのよ」
必死でかきこみながら、茜に水を向ける。すると茜は頬を膨らませる。
「うちは絶賛失恋中だよ」
「えっ?いや、ごめん」
「別にいいけど」
ぷくっと膨らませた頬を肘をついた手の上に乗せる。沙絵子は心の中で思う。じゃあ何でその話題、今振った?
結局その気まずい空気を引きずったまま、二人は学食を後にした。外へ出ると一雨降った後らしく、地面が黒く濡れていた。
口を完全に閉ざしてしまった茜を横目に見て、まずいなぁ、と沙絵子は思う。少々面倒くさいところはあっても、サークルにも入っていない沙絵子にとって、茜は貴重な友達だった。
「何であんなこと訊いたの?失恋中ならなおさらさ」
沙絵子はこんな訊き方しかできない自分を残念に思う。もっと思いやったようにとか、オブラートに包んでとか、思ってはみるもののどうしても言葉がストレートになってしまう。回りくどいのは苦手だった。
下を向いていた茜はぽつりと言う。
「沙絵子ちゃんが、うちのこと嫌いになったら困る」
「はえ?私が?」
意外な言葉が返ってきたので、沙絵子は戸惑ってしまう。隣の茜はまだ頬を膨らませているが、それは怒っているというよりも拗ねているという感じだ。実年齢より幼く見える様子で、まるで言い訳するように言葉を継ぐ。
「何度も失敗してきた。彼氏がいる子とか、普通に遊んでただけなのに、急に怒られる。空気読めよ、みたいな。でも、空気なんて読めんもん。そんなん、わからん。直接言ってもらわんと。なんで言われてないことまでわかると思ってるん?」
その声が切実で、沙絵子は胸を打たれた。出会ってから今まで、茜がそんなことを思っていたなんて知らなかった。
茜は足元に視線を落としている。こんなにテンションの下がった姿も初めて見る。
何度も転校を繰り返してきたという茜。そのたびにクラスに馴染もうとしてうまくいかなかった過去。それが茜のトラウマになっているのだろう。
この子は少し、自分に似ているのかもしれない。ストレートな言葉しか吐けず、言葉の意味をそのままにしか受け取れない不器用な人間。ずっと地元にいて限られた交友関係しかなかった沙絵子ならまだしも、各地を転々とした茜はその性格では生きにくかったかもしれない。
「あのさ、茜が私のことどんな奴だと思ってるかは知らないけど、私はそんなことで茜のこと嫌わないよ。仮に私に彼氏がいたってさ」
沙絵子でも悩むのだ。こんな言い方しかできない自分に。飾り気も愛嬌もない言葉しか吐けない自分に。
「うん。ごめん。ほんとは怖いんだ、うち」
なぜ人は、友達を失うことがこんなにも恐ろしいのだろう。裏切られることがこんなにも辛いのだろう。トラウマとなって本人を苦しめ続けるほどに。
やっとのことで顔を上げた茜は、ちょっとだけ笑った。
「こんな本音吐いたの沙絵子ちゃんぐらいだよ」
沙絵子も茜に笑顔で返す。
「私くらいには本音で喋りなよ。そのほうが私も気楽だし」
「ふふ……うちらって、案外似てるのかもね」
「あら、今さら気づいたの?」
しれっと沙絵子が言うと、二人して笑った。
この日を境に、沙絵子と茜はより仲良くなった。時にはお互いのアパートでパジャマパーティをしたりもする。二人のアパートは大学を挟んで正反対の方向にあったが、それはそれで未知のエリアを開拓する気分で楽しかった。
今回は沙絵子のアパートに来る番だった。小さなキッチンで簡単なおかずを調理する。最近わかったことだが、茜は小さい子供が好むような食べ物が好きだ。唐揚げにハンバーグ、卵焼き。さすがにアパートで揚げ物をする気にはならないので、唐揚げは近くのスーパーで買ってくる。それだけでは野菜が絶対的に足らないので、ポテトサラダも作る。
茜を手持ち無沙汰にしておくと急に変なことを訊いてきたりするので、その予防策として沙絵子は昔のアルバムなんかを見せてやる。沙絵子は律儀にも小さな頃の写真などが貼られた自分のアルバムを実家から持ってきていた。
「沙絵子ちゃんって、家族と仲良いんだね」
「え、なに?」
ちょうどハンバーグを焼いているところだった沙絵子には、低く呟いた茜の声が聞き取れなかった。
「ううん、なんでもない」
「……?そう」
その反応に違和感を覚えたが、調理に気を取られているうちに頭の隅から追いやられてしまった。
「お待たせ」
「はうぅ、うちの好きなものが並んでるぅ。沙絵子ちゃんうちの奥さんにならん?」
「あはは、遠慮しとく」
「いっただきまーーすっ」
茜はアクションが少々オーバーだ。ただしそれは相手に媚びる類のものではなく、茜なりの感情表現であるのだということを出会ってから今までの付き合いで理解した。本当においしいと思った時にしかおいしいと言わないし、おべっかは使わない。そんな茜だからこんなにも仲良くなれたのだと思う。
そして人一倍食べるのが早い茜に食べつくされる前にと、沙絵子も箸を進める。
今日のメニューがよほど気に入ったのか、茜は終始ご機嫌で平らげた。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
「おそまつさま。今日の茜は機嫌がよくてやりやすいわ」
「え、そう?わかる?」
急に茜がにやける。なんだろう、嫌な予感がする。茜の目が沙絵子に話を振るよう訴えかけてくる。結局、その圧に負けた。
「な、なにかあったの?」
「うん」
「どうしたの?」
「好きな人できた」
沙絵子は座っていたことを悔やんだ。ずっこけられないではないか。
「えっと、ついこの前絶賛失恋中って言ってなかったっけ」
「あぁ、まぁ、そんなこともあったね」
あさっての方向を見て応える茜に思わずため息をついた。この娘は、その移り気の早いこと。
「どんな人よ?そんな絶賛失恋中から救い出したほどの彼は」
「あのねぇ、近くのコンビニで見つけたんだぁ。なんかね、うちと行動パターン似てるんか、全然違う時間に行ったのにもう三回も会っちゃった。これって運命?って思って。次会ったら声かけてみよっかな」
「そう。……ってか、まだ声もかけてないの?」
「うん。これからぁ」
両腕で頬杖をつくのが茜のクセなのだが、今はその上に乗った顔がとろけそうなほど緩んでいる。
「なんか、人生謳歌してるよね、茜って」
「えー、そうかなぁ」
「聞いてねぇなこいつ」
「にゃはは」
呆気にとられながらも、これはこれでよかったんじゃないかとも思う。いつまでも失恋を引っ張られるよりはよっぽどマシというものだ。今度こそその恋が成就しますように……と、主に茜の不機嫌に悩まされなくて済むという身勝手な理由から、心の中で祈った。