ACT8 古川 雅彦
――俺のやり方は間違っていたのかな。なぁ、朝子。
静かな朝だった。いつものように、遺影に向けて語りかける。家族から特別に譲り受けたその遺影。
萩原 朝子、享年二十二。あと二ヵ月後には籍を入れるはずだった。あまりにも若くして亡くなったため、切り取ったスナップを引き伸ばして作られたピンボケの写真。
古川は朝子を失ってから結婚はせず独身を貫いた。亡くなった両親には申し訳なくも思ったが、どうしても朝子以外の人を娶る気になれなかった。妹はいるが、嫁に行って久しく、離れて暮らしているため疎遠になっている。歳を重ねるごとに、一人で家に帰ることに寂しさを感じるようになった。一体この人生において、自分を真に理解してくれた人間がどれほどいるだろう。心を許せる人間がどれほどいるだろう。今の状況は、意固地な自分が作り上げたのだということにも薄々気づいている。それなのに理不尽に誰かに怒りをぶつけたくなるのはなぜだ。……これが、孤独に苛まれる、ということなのだろうか。
雪町 楓と出会ったのが偶然なのか必然なのか、今となってはわからない。まるでA事件がもたらした強い孤独で引き合ったようだ。古川が喪ったのは妻となるはずの女性だったが、楓が喪ったのは母親。唯一の身近な肉親を亡くしたのだから、その孤独は計り知れない。ただ楓の場合、背負うことになったのは孤独だけではなかった。
楓の母、樫原 つぐみがA事件に巻きこまれた時、そのお腹には既に楓が宿っていた。つぐみも致命的な後遺症を負ったが、それだけでは済まなかった。そのときお腹にいた楓もまた、甚大な影響を受けていた。命が危ぶまれるほどに。今でも後遺症に苦しんでいる者はたくさんいる。それでも当時妊婦だった被害者はつぐみだけだったので、楓の例は特殊だった。
楓が事件を起こしたことで、何が変わるというのだろう。結局は日々に埋もれ、人々はすぐに忘れてしまうだろう。ではA事件の被害者やその遺族は、一体いつになったら報われるのか。
古川が向かったのは警視庁……ではなく、A署だった。上司の机に辞表を叩きつける前に、やっておくべきことがあった。
身分証を見せると、窓口の署員は慌てたようだった。楓の取調室を尋ねればすんなりと教えてくれた。少し焦りすぎだ、と余計な心配が頭をもたげる。もっとちゃんと確認を取るべきだ。妙な人間に機密情報を漏らしてしまえば大問題になる。古川にしてみれば無駄に誰何されることなく通れたので手間が省けてよかったのだが。
聞いた部屋のドアをノックもせずに開ける。中で取調べをおこなっていた刑事たちは何事かと立ち上がる。それはそうだ。普通に考えて取調べ中に急に誰かが入ってくることなどまずありえない。入ってきた人物が誰であれ、よほどの緊急事態だと思うだろう。今日は制服を着ていたし、警察組織の中では顔を知られた方なので、とりあえず刑事たちも不審者扱いはやめたようだ。そこで古川は若い二人に告げる。
「悪いが君たち、ちょっと席を外してくれないか」
楓の前にいたのは女刑事だった。確か石井といったと記憶している。怪訝そうにこちらを見つめてくる。
「あの、取調べ中なんですが」
一応は身分の差を考慮しているのか、遠慮がちに言う。だがそんな当たり前のことは百も承知だ。
「いいから。言う通りに」
「……」
穏やかに言ったつもりだったが、そこにただならぬ何かを嗅ぎ取っているのか、石井は動かない。いい嗅覚をしていると思う。刑事には必要な才能だろう。
「大丈夫。ただ少し話がしたいだけだ」
古川が楓を殺しに来たとでも思ったのかもしれない。実際つい先日、この刑事が追っていた大村は自殺を装って殺されている。そんなことが直近に起こっていれば警戒するのも当然だ。たとえそれが自分よりはるかに身分が上の人物であろうと。
こちらに退く気がないのを察したのか、しぶしぶといった様子で石井は席を譲った。書記をしていた若い警官を連れて部屋を出る。
「ありがとう。じき終わる」
心配そうな石井の目は、ドアが閉まる瞬間まで古川を見ていた。
わざわざ古川が手を下すまでもない。A事件の後遺症が決めたリミットが近い。何かを語るよりも、楓の命が尽きるのが先だろう。
ドアが閉まるのを見届けて、古川は楓の前に座った。それと同時にまるでうわ言のように楓が呟く。
「結局、最後までわからなかったな」
「何がだ」
「あんたがどっち側の人間なのか。俺ら側か、警察側か」
「俺が警察側の人間だったら、事件を全力で阻止していたさ。なんせ手の内は全て知っているのだから」
「それもそうか」
楓は心底疲れたといった風情で笑う。やつれたその顔には血の気がない。単純に取調べや勾留で疲れているという話ではない。それは本人が一番よくわかっていた。
「俺は後悔していない。もう時間がないことは、わかっていたし」
A事件には二種類の被害者がいる。一つはその場で即死した者。もう一つは、その時の影響でひどい後遺症を負った者。古川の恋人だった朝子は前者だが、被害者の多くは後者が占める。そのことがこの事件をより複雑にしていた。後遺症の発現にはタイムラグがあり、それもばらつきが大きかった。事件から何年も経ってから発現するパターンもあった。そして後遺症を発症してしまえば、その人間はほとんどが亡くなっている。
「もしも気づくのが早かったら、何かが変わったと思うか?」
楓の目は焦点を結んでいなかった。古川さえ見ていないのに口から出た問いは、具体的に何を訊きたいのかわからなかった。黙っていると、楓は言葉を続けた。
「受験間近の時に、見つけたんだ。つぐみの……母さんの遺書を」
「遺書、だって?」
初耳だった。今まで古川が接してきたどの遺族からも聞いたためしがない。非常に稀なケースと思われた。
「俺を預かる家の人間に向けて書かれたものだった。もし自分の補償金がおりたら、俺の治療費にあててくれ、と。だがそんな治療、受けた覚えはないんだよ。少なくとも、その金を受け取ったあの日より後には」
後遺症の治療には莫大な金がかかった。だが補償金がおりるのはたいてい本人が死亡してしまった後で、そのことも被害者遺族が怒りを募らせる要因となっていた。その金があれば、治療することができたかもしれないのに、と。楓の母親は気づいていたのだろう。自分には治療は間に合わないことも、楓がいつ後遺症を発症してもおかしくないことも。それで遺書を残した。自分が母としてできる唯一の方法として。
楓を引き取った雪町家の人々はしかし、そんなことは毛頭考えていなかった。彼らは最初から最後まで、楓を家族として受け入れるようなことはしなかった。三歳の時に引き取られた楓は、雪町家の本当の子供たちとは隔てて育てられた。「この家の子ではない」ということをずっと言い含められて育った。高校進学を機に家を出て、それ以来連絡すら取っていない。
計り知れない孤独を抱えて、楓は生きてきた。ほんのわずかな心を許せる人間も、もう失ってしまったようなものだ。
「恨んではいないよ」
ぽつりと楓が呟く。もう声帯に力が入らないのか、息の多く混じるか弱い声。喋るための体力も気力ももう尽きようとしている。何が映っているのか定かでない焦点の合わない目。
雪町家に対する楓の思いはさぞ複雑なことだろう。一方では育ててもらった恩義も感じている。だがもう一方で家族として受け入れられなかった苦い思いも抱えている。恨んではいない、というのはそれらの思いが相殺されて、プラスマイナスゼロだということだろうか。そんな簡単に割り切れるものだろうか。
「母さん……」
ため息のようにふいに呟いた声にぞくりとする。思いが強すぎて瘴気を帯びたようだと古川は思う。
楓の母に対する想いは異常だった。面影などほとんど覚えていないはずなのに、思い出もほとんどないはずなのに、こんなに執着が強いのはなぜなのか。あるいはそれは、本当の家族の温もりを与えられずに育ったからかもしれない。母の幻想をずっと心に抱えながら生きてきたからかもしれない。母こそが全て――そう思いこんで生きることで、楓は自分を守っていたのかもしれない。
「……」
力尽きたというように、ついに目を閉じてしまった楓が最後に呟いた言葉は聞き取ることができなかった。だが古川は、それは「ごめん」という言葉だったような気がした。一体誰に、何に対して謝ったのかはわからない。ただそのとき初めて、古川は楓の人となりを少しだけ理解したような気がしたのだ。得体の知れない狂気をにじませる男の真の姿は、深い孤独と寂しさを抱えた、等身大の一人の若者に過ぎないのだと。
古川が取調室を訪ねたこの日から三日後、雪町 楓は息を引き取った。
警視庁に瑣末を報告しに来ていた例の石井という女刑事と、古川は偶然を装って再会した。楓はこちらの合同捜査本部での被疑者なので、取調べはA署でおこなったとしても、調書は警視庁にあげる必要があった。それを知っていたから待ち構えていたのだ。
「どうして皆死んでゆくのですか。何かを語るより先に。これじゃまるで口封じじゃないですか」
はじめに口を開いたのは石井のほうだった。それは古川に向けてというよりも、行き場のない思いを無意識に吐露したといった様子だった。そんな石井に古川はもっともらしく言う。
「A事件に関することは警察組織では禁忌だ。それはわかっているね?」
急に言われたことの意味を取りかねるというように石井は黙ってこちらを見つめる。そんな若い女刑事の様子に古川は苦笑する。彼女はどこか、古川を尊敬さえしていたという同期の高岡と似た雰囲気を持っていた。
ほぼ横に並ぶような形で、耳元に低く囁いた。他の者に聞かれないように。
「だがもうそんなこと言ってられんだろ。君の正義に従いたまえ」
そのまますれ違うように去ってゆく古川を、石井は慌てたように振り返る。だが追いかけては来ない。ただその背中を睨むように見つめている。いい目をしていると思う。背中にその視線を感じながら、振り返ることなく歩き去った。
古川がその足で向かったのは、警視総監室だった。現警視庁トップ、常盤 浩司にある質問をするために。部屋に入ると常盤は憮然としながらも、席を立つこともなく静かに座っていた。
「大村 暁也を殺したのはなぜですか」
常盤の表情は読めなかった。長年警察組織に身を置き、その表も裏も知り尽くした男。もちろんA事件の瑣末でさえも。そんな常盤の前では、叩き上げの古川でさえもヒヨッ子同然だった。
「警察組織の長を捕まえて犯罪者呼ばわりかね、古川君」
「別にあなたが、とは言っておりません。だがその手の者であることは明らかです」
「なぜそう断言できる」
「大村の遺体を司法解剖に回しました」
その言にはさすがの常盤も眉を動かした。そんなことを上が許可するはずがない。古川の単独行動であることは明らかだ。
常盤は鼻白んだ様子で言う。
「君も組織の律を乱す一人かね」
「罪を隠すことの何が律だ!」
バン!と大きな音を立てて常盤の前の机に辞表を叩きつける。そのまま覗きこむようにして常盤をにらむ。もう上司だろうと関係ない。
「これで終わりだと思わないほうがいいですよ。今に必ずあなた方の罪を暴く者が現れる」
「それが君だとでも?」
問い返す常盤には応えず踵を返す。ドアを開けて出て行こうとする古川の背に、常盤は負け惜しみのような恨み言を投げかける。
「ヒーロー気取りかね。くだらない」
その言葉はどこにも届くことなく、バタン、と大きな音を立てて閉まったドアに跳ね返って消えた。
警視庁を出ると、外はまぶしいほどの快晴だった。ビル街の隙間からのぞく空の青を見ただけで、今までの重かった心まで晴れてくるのだから、人は単純なものだなと思う。
これからどうするのかは、まだ考えていない。こんな中途半端な歳で警察を辞めて、今さら何をやって生きていくのか。それを考えればもっと沈んでもいいようなものなのに、むしろ解放された気分だった。これからはもう、自分を隠して生きていくこともないのだ。
「マサ!」
警視庁の大仰なビルに背を向けて歩き出そうとしたときだった。その背後にあまりにも懐かしい声が響いた。
それはまるで全身に電気が走ったような衝撃だった。もうその声を聞くことはないものだと思っていた。
よろよろと振り返る。数メートル先に高岡が立っていた。顔をしかめているのが怒っているからなのか、ただまぶしいだけなのか判然としない。
「餞別だ!」
叫ぶと同時に放り投げてきたものを、古川は反射的にキャッチする。それを見届けた高岡はもう何も言わずに踵を返して去っていった。
こんなタイミングで、なぜ高岡が現れたのだろう。合同捜査本部にももう顔を見せていなかったのに。その背中を見送ってから、改めて投げられたものに視線を落とす。そして思わず吹き出した。
「安い餞別だなぁ。高岡らしいといえばらしいけど」
それは一本の缶コーヒーだった。これまでの警察での人生をやたら思い出させるものだった。
「……ありがとう」
呟いた言葉が届かないことはわかっていた。それでも古川はそのコーヒーを見て微笑んだ。




