ACT5 高岡 義斗(2)
二人が向かったのは、高岡が所属するA署だった。普段刑事たちが詰めているデスクには優美と吉田の二人しかいなかった。
「……高岡さん?」
気配に気づいて振り向いた優美は思わず腰を浮かせる。ひどく怪訝な表情で高岡と安川の二人を見る。安川は気まずげに会釈などしている。
大村が死んだと報告を受けてから、優美の顔を見るのはこれが初めてだった。青白い顔はしているものの、動けてはいるようなのでひとまず安心する。そうするといつものクセで、口からは軽口が滑り出る。
「今度は倒れなかったんだな。えらいえらい」
「一体いつの話をしてるんですか。さすがにもうあんな失態は犯しませんよ」
「どうだかなぁ。俺から見りゃまだまだかわいいヒヨッ子だぜ?」
「高岡さんの基準で物事を判断しないでくださいよ」
ラリーのようにぽんぽんと会話を交わす高岡と優美に対し、現在それぞれとバディを組んでいる吉田と安川は完全に蚊帳の外でぽかんとしている。二人には状況がわかっていないが、優美と高岡はいつもこんな調子だ。
優美が刑事課に所属してから、二人は幾多の事件でバディを組んだ。それはひとえに優美が新人で高岡がベテランだったからだ。教育係として自分の側で仕事を学ばせていた高岡に、優美は新人ながらよくついてきた。決して優しくはなかったと思う。だから掛け値なしに、高岡は優美を評価している。この優秀な後輩刑事をできる限りフォローしてやりたいと思う。これからを担うのは、優美のような若い刑事たちなのだから。
「そんで本題なんだが、石井、大村の調書見せてくんねぇか」
「……大村のですか?」
それまでわりと和やかに会話を交わしていた優美だったが、その名前を聞いたとたん表情が曇った。高岡としても優美に嫌なことを思い出させたくないのは山々だが、今はそんなことを言っていられない。
「ヤマが動いた。もうあんまり時間がねぇ。本部の方針には反するが、俺はこっちの線を追って本丸を叩き潰す」
低く早口で言われて、優美は目を見開く。何か言いたいことはあるのに言葉にはならないようで、口をパクパクさせてただ高岡を見つめる。
優美の言いたいことなど、高岡はほぼお見通しだった。一つは、そんなことをして高岡の身の置き所が危うくなったりしないのか。一つは、不確かな情報しか揃っていないこちらの線に賭けて大丈夫なのか。あとは細々とした現状といったところ。それらを全て察した上で高岡はにやりと笑ってみせる。
「最初にこっちに賭けたのは石井、お前だろ。勝算もねぇのにそれを俺がけしかけると思ったのか。俺はよ、お前の直感を信じてんだよ」
そのいつも通りの不敵な笑みを見て、優美は息をのんだ。高岡の強い意志と覚悟に、今になって思い至ったからだった。
はじめから高岡はそのつもりだったのだ。優美を本部の捜査から外し、自由に調べさせる。ベテランの自分には許されないことだった。そうして細くつないだ可能性を必死で手繰り寄せる。優美を戦力外だから外したのではなく、自分の思いをこの後輩に託した。その思いに応えてくれたのだから、次は自分の番だった。
全ての責任を取る覚悟など、とうの昔に決めていた。
「さぁ、さっさと調書持って来い」
「……はい」
今にも泣きそうなほど顔をゆがめた後輩をいじらしいと思う。高岡の声は思いのほか優しく響いた。
大村の調書は薄かった。何せ本人が勾留五日目の朝には死んでしまっているのだ。それに結局、大村は最後まで一言も口を割らなかった。そのため取調べの記録は「一応取調べはしました」という業務報告書のような体しか成していない。あとは大村が潜伏していたアパートの家宅捜索に関する資料と、周辺の聞き込みの結果がまとめられている。情報量はかなり少なかった。
高岡は聞き込みの資料をしばらく凝視していた。まるで何かを探しているかのように、文書の上を視線がせわしなくなぞる。そしておもむろに優美に尋ねた。
「大村の周辺で、A事件について何か聞かなかったか」
「A事件、ですか」
その言葉で優美の顔がこわばったのを高岡は見逃さなかった。それはつまり、優美もA事件のことを知っているということだ。それが警察組織の中では禁忌であるということも含めて。
いよいよ危ういことに首を突っこんでいる、と優美は思ったことだろう。それは事実だし、高岡はもう引き返せないほどこの件に関わってしまっている。一瞬躊躇したようだったが、それでも優美は記憶を探るように腕を組んで思案に沈んだ。それが今優美ができる唯一のことだから。安川のように量らなくとも、優美がこちら側の人間だということはわかっていた。
深く考えこんで黙ってしまった優美に代わって口を開いたのはしかし、ずっと傍観していた安川の方だった。
「A事件で大村といったら、大村 正和という人物がいますが」
その発言に他の者が一斉に安川を見る。高岡が片眉を上げて問う。
「その大村 正和というのは?」
「A事件の被害者の一人です」
高岡と優美は顔を見合わせた。大村という名前のA事件被害者がいる。これが意味していることは……。
「遺族は?」
だめ元で訊くと、安川は記憶をひねり出す。
「妻と、確か息子が一人いたはずです」
A事件の被害者は多い。その中で大村という苗字だけで被害者名に遺族の構成まで出てくるというのはただ事ではない。どれだけ記憶力がよければそんな芸当ができるのか。
思わずうろんな目を向けていると、安川は肩をすくめた。
「以前調べたことがあるんです。仕事の関係で」
そんなものに関わる仕事とはなんだったのだろう。疑問は次々湧いてきたが、あえて口にはしなかった。あまり口外できない類のものであろうことは察しがついた。
「大村はそいつの息子って可能性は高いな。石井、裏頼めるか?」
「いいですよ。どうせ暇ですから」
「お前はそういうとこ可愛げねぇよな」
「ないものをねだらないでください」
部屋から駆け出していく優美を吉田が慌てて追いかけた。
二人が出て行ってしまうと、高岡は難しい顔をして腕を組んだ。それを見て安川が問いかける。
「どうかしましたか」
「いや、ちょっと気になることがあってな……」
何かが引っかかっている。二十年以上も前に起きた事件。記憶はもうあいまいで、うすぼんやりとしか思い出すことができない。しかし、今の安川からの情報に引っ張られて、何かが頭をもたげている感覚がある。この事件に関わる、重要な何か……。
高岡はその「何か」に賭けてみることにした。
「安川君。君のずば抜けた記憶力に頼ってみてもいいか?」
「はい?ええ、構いませんが。何です?」
「A事件の被害者の名前と、その遺族について、思い出せる限り教えてくれ」
それはひどく途方もない依頼だった。そして安川にしか頼めないことだった。それでも、これが事件の突破口になる可能性は高い。それは安川も感じ取ったようだ。
「わかりました」
覚悟を決めたように安川は強くうなずいた。
羅列するようにすらすらと出てくる情報に高岡は舌を巻いた。安川はメモのようなものを一切見ずに、被害者の名前や遺族の構成をそらんじている。いくら以前に調べたとはいえ、これだけの情報を覚えていることが普通できるだろうか。それは安川の有能さを裏打ちする才能といえた。
その情報がついに高岡の「何か」にヒットする。
「樫原 つぐみ。当時二十三歳。両親は事件前に他界しており、本人は離婚暦あり。事件後息子を一人産んでいますが本人死亡のため、遠い親戚に引き取られたようです」
「樫原 つぐみ……」
その名前を聞いて、高岡はバチッ、と何かが合致したのを感じた。その名前には、聞き覚えがあった。
樫原 つぐみは、A事件の被害者で唯一の妊婦だった。
A事件当時、高岡はまだ交番勤務についたばかりの新米巡査に過ぎなかった。日々の仕事といえば落し物の届出や酔っ払って家に帰れなくなったサラリーマンの保護、パトロールといったところで、まだ警察組織の大きさも把握できていないような時分だ。大きな事件が起きても自分が捜査に加わることはなく、あらましはメディアの流すニュースで知るような具合だった。A事件も例外ではなく、どちらかといえば市民感覚で経過を見ていた。報道は一時過熱したが、少しすると急速に縮小していった。その頃から市井では様々な噂が飛び交っていた。警察組織に身を置く者としては聞き苦しいものもあったが、たかが噂と流してしまえばいい話だった。今思えば、その中にも真実はあったのかもしれない。
その真実が今明るみに出たら、一般市民はどうするのだろう。ただでさえ扇動されやすいこの国の人々は、果たして冷静な判断ができるのだろうか。
急に雰囲気の変わった高岡に、安川は情報の羅列を一旦止める。
「何かわかりましたか」
淡々としたトーンで訊くので、高岡は思わずぷっ、と吹き出してしまった。笑われたほうは不本意そうに眉を寄せる。
面白い男だ、と高岡は思う。感情の読めない表情に声色。そのくせこちらの変化には俊敏に気づく。嗅覚も鋭ければ頭もいい。普通なら鼻持ちならないエリートといったところだが、どうも憎めないところがある。ぼろが出るととたんに人間味が増すのだ。
笑ったことで肺の中の空気が入れ替わった気分だった。高岡はニヤリとして告げる。
「おそらくビンゴだ。戻るぞ」
「戻るんですか?」
「ああ。これでデケェお山が動いてくれりゃいいんだが」
口元とは裏腹に、目は笑っていなかった。
助手席に座ると、高岡は携帯で電話をかけた。運転席の安川ははじめ特段気にしていなかったが、その話し相手が判明するとひっそりと息をのんだ。
「おう、マサ。今いいか?」
その相手はなんと古川 雅彦だった。いきなりの直電にうろんな声が返ってくる。
『……報告は無線連絡のはずだが?』
「いや、俺の用はお前個人向けだ」
『俺個人?』
不思議そうに訊き返す古川に高岡は静かに告げる。
「雪町 楓のことだ」
『……っ!』
息をのむ音が携帯ごしでもはっきりと聞き取れた。二の句を継げずにいる古川に淡々と言う。
「これから本部に向かう。話はそこでしよう。必要なら人払いしとけ」
相手の返事を待たずに高岡は通話を切った。
高岡が発する怒気には運転中の安川も気づいていた。しばらく黙ってハンドルを握っていたが、ついに我慢できずに高岡に問う。
「あの、ユキマチカエデとは?」
「んあ?あぁ、息子だよ。樫原 つぐみの」
「え?」
窓の外を見ていた高岡は不意の質問に我に返る。応えると安川が驚いた様子なので不思議に思う。
「なんだ、知らなかったのか」
「はい。息子がいたことまでは把握してましたが、さすがに名前までは」
「だよなぁ。普通知らねぇよな」
遠い親戚だという雪町家に引き取られた時に養子縁組をして姓が変わっている。そもそも母親である樫原 つぐみが事件の後遺症で亡くなった時点でもまだ三歳かそこらだったはずだ。安川が彼女に息子がいたことを覚えていたことだけでも奇跡に近い。
高岡が樫原 つぐみと息子の雪町 楓のことを知っていたのも偶然によるところが大きい。
もう十数年も前のことだ。高岡は樫原の元夫である男を逮捕していた。そのときに調べた家族構成の情報で雪町の存在を知った。運命の悪戯か、ただ世間は狭いというだけのことか。
まさに引っかかりの原因はそこだった。大村の父親がA事件の被害者だという仮説が立ったとき、思い出しかけて思い出せなかったこと。
A事件とつながりのある人物を知っているはず。それも大村と同じぐらいの年頃の……それが雪町 楓だった。
捜査本部の置かれた警視庁。その部屋のドアを開けると、広い空間に古川がただ一人で待っていた。その顔には疲れのせいか、黒く濃い影が落ちていた。
高岡は古川の目の前まで歩くと、席に座ったままの古川を見下ろして腕を組んだ。
「お前は雪町と通じてたんだな。そのクソガキが何をしようとしてるか知りながら」
それは問いかけではなく断定だった。元々古川の動向には目をつけていた。ここまで情報が揃えばもう詰んでいると言っていい。黙ったままの古川は観念しているのか、それともまだ何か申し開きを考えているのか、微動だにしない。古川が喋らないのを見て高岡は続ける。
「これはあくまで仮説だが、雪町は大村と接触してたんじゃないか?これまでの二つの事件に大村が関与していたならば、どこかの時点で――あるいは最初から二人は共謀していた。まるでA事件の弔い合戦とでも言いたげにな」
古川は否定も肯定もしなかった。しかし高岡は確信した。おおかた真に迫っているのだと。
ドンッ、と机に両腕を突き、身を乗り出して古川に迫る。
「雪町 楓を指名手配しろ。お前が警察としての矜持を失っているとしても、今は組織の人間だろ」
「……」
下を向いた古川は、その距離でも聞き取れないほどの声で何かを呟いた。確かではないが、「もう遅い」と言った気がした。高岡が眉間に皺を寄せていると、今度ははっきりとした声が響く。
「という状況だ。どうする」
「……?」
いきなり何を言い出すのだろうと思っていると、机の下からくぐもった音声が聞こえてきた。
『仕方ない。計画を一部前倒しする』
「っ!?」
おもむろに古川は手元から何かを取り出して高岡に見せた。それは携帯だった。画面には通話相手の名――雪町 楓の文字が浮かんでいる。
「大丈夫なのか」
『何とかするしかないだろう。準備なら整ってる』
平然と会話を交わす古川と雪町に、高岡の中の何かが切れた。
「てんめぇ、ざけんじゃねぇぞクソガキャァ!」
古川の掲げる携帯に向けて警察官にはふさわしくない罵声を浴びせる。体ごと前のめりに突っこむのを後ろから安川が抑える。その間に電話の声はやけに冷静な声で言い返してくる。
『俺を糾弾する前に、警察はやることがあるだろう?なぁ、高岡さん』
名前を呼ばれて冷や水を浴びせられたような気分になった。こちらの情報も筒抜けになっているのだ。この古川を通して。
雪町が言っているのは、犯行声明での要求のことだ。つまり、A事件について公表し、謝罪すること。
正直、それで事が収まるのなら今すぐにでも要求をのめばいいのではないかとも思う。別に金銭を要求しているわけでも人の命が懸かっているわけでもない。だがそれが雪町らの狙いなのだということもわかっている。A事件ではその両方が犠牲になっているから。それを考えれば要求自体は当然のもののように思う。しかしそんなことを一介の刑事に過ぎない高岡には決められないし、その後の混乱を考えれば退けざるを得ない。
A事件が内包している闇がどれほど深いものなのか、一介の刑事に過ぎない高岡が知りうる情報から推し量るのは限界があった。高岡自身は被害者でも遺族でもなく、直接関わったわけではない。警察組織側の人間として直接関わったと思われる人間は既にかなり上位職についているか、下手をすればとっくに隠居しているような状況だ。その全てを公表すれば何が起こるのか、誰にも予想できない。そもそもそんなことが可能であるのかさえ定かではない。
通話はいつの間にか切れていた。古川をねめつける高岡が殴りかからずに済んでいるのは、安川がかなりの力で羽交い絞めにしているからだ。
いまや怒りを隠しもしない高岡に、静かに古川は言う。
「高岡には、悪いと思ってる。でも俺はこういう人間なんだよ。最初からそうだったんだ。多分お前に殺したいほど憎まれたところで変わらないんだ」
古川の言い分を聞くと、急に高岡は体の力を抜いた。その顔からは急速に表情が抜け落ちていった。もう何も、言うべき言葉を持たなかった。ただ黙って踵を返し、大股で出て行くのを安川が追った。
もう二度と、今までの関係に戻ることはできないだろう。
車に戻ると高岡は電話をかけた。相手は優美だ。
『はい、どうしました?』
「雪町 楓の逮捕状を請求しといてくれ。事件の首謀者だ」
『え?』
いきなり言われたことに慌てながらも、要点をメモしながら聞き返している様子の優美を頼もしいと思う。
「頼んだぞ。手続きが終わったらお前らも雪町を追ってくれ」
雪町の居場所にあてがあるわけではない。これからやろうとしていることを阻止できる見込みもない。だがやるしかなかった。これからは本当に時間との戦いだった。




