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ACT1  石井 優美(1)

 ガラガラと音を立てて、自販機の取り出し口に缶コーヒーが落ちた。石井 優美はその缶をゆっくり取り出すと、一番近くにあった椅子に、まるでソファにでも身を預けるかのようにくったりと座った。

 この仕事に就いてから、やめたことが二つある。一つは髪を伸ばすこと。そしてもう一つは、自分でコーヒーを淹れることだ。以前は自分で豆を挽いていたくらいコーヒーが好きだったので缶コーヒーなど飲めないと思っていたのだが、仕事を始めてからはいつしか休憩時間の定番となってしまった。今住んでいるアパートの部屋には通販で買ったちょっといい感じのコーヒーメーカーがあるのだが、仕事中胃が重くなるほど飲むコーヒーを休みの日にまで飲む気になれず、結局埃をかぶっている。優美は半ばうんざりした顔でそのおいしくないコーヒーに口をつける。

 優美が今いるここは警視庁の休憩ロビーである。優美自身は東京管内のいち所轄の刑事であるので、こんなところにいるのは場違いである。それでもこの仰々しいビルに来ているのは、優美が追っている事件の特別捜査本部がここに設置されたからである。

 事件が起きたのは、今からおよそ二ヶ月前だった。サラリーマンもOLも学生もみな帰路を急ぐ午後六時ごろ、地下鉄H駅とその周辺で大規模な停電が発生した。駅自体は予備電源によりすぐに復旧したが、原因の調査などで関連するH線、C線、T線が運転見合わせ、または折り返し運転となり、帰宅ラッシュを迎えていた駅周辺は一時騒然となった。結局、すべての電車が通常運転に戻ったのは、停電発生から二時間以上も後のことだった。

 停電の原因はH駅付近の送電システムのトラブルだった。東京の地下には縦横に送電線が走っているのだが、過送電などが起こらないようコンピュータで管理されている。そのコンピュータが誤作動を起こし、駅周辺への送電がストップしてしまったのだという。しかし問題はなぜそのようなことが起こったかということだ。今までシステムのトラブルはあっても、停電にまで至ることはなかった。実はこのとき、送電を管理するコンピュータに何者かが侵入していたことが判明した。騒動が起きてから三日後のことである。事件はマスコミにより大々的に報じられ、にわかに注目を浴びる事態となった。

 H駅の辺りは優美の所属する警察署の管轄だった。優美を含め六人の刑事を中心に捜査は進められた。しかし、捜査は難航した。コンピュータに侵入した犯人はかなり周到で、証拠らしいものを残していない。情報犯罪の捜査チームの手を借りても、一体どこから、どんなコンピュータから侵入されたのか、まるでわからないのだ。そんな状況で一向に犯人の目星がつかない状況が続いた。そして捜査を遅らせているもうひとつの理由が、動機がわからないということだった。何のために送電システムなどに侵入したのか。ただの愉快犯的な犯行にしては、かなり計画的に行われた感じがある。捜査を進める優美たちが疑ったのは、何らかの大きな犯罪の予行か何かに利用されたのではないかということだ。これだけ完璧にシステムへの侵入をやってのけた犯人である。次はもっと重要なコンピュータへの侵入を計画しているのではないか。だとすれば、早く犯人を捕まえなくては大変なことになるかもしれない。チームの誰もが焦りを感じていたが、それでも犯人につながりそうな手がかりは見つからない。

 大きな事件ではあったが、当時はまだ所轄の事件でしかなかった。状況が変わったのはつい一週間ほど前のことである。類似の事件が、今度はJRのY駅周辺で発生したのである。時間帯はほぼ同じ。Y線、C線の交わる駅であり、前回よりもさらに多くの帰宅者に影響を与えた。優美たちが恐れていたことが現実となってしまったのだ。しかし、東京近郊の各駅と管轄の発電所には類似事件への警戒を呼びかけていたこともあり、迅速な対応により約三十分で収束した。

この第二の事件を受け、捜査の面では大きな方向転換が図られた。警視庁はこれらの事件を広域犯罪および公共交通を脅かす連続テロ事件と認定し、特別捜査本部をここ警視庁に設置したのである。H駅の事件を捜査していた優美たちも当然、捜査員として参加する。しかしそれは想定外の出来事だった。

 実は、この第二の事件が起こる直前に、優美たちは一人の男に容疑をかけていた。大村 暁也、二十一歳、無職の男だ。この男を被疑者としてあげるまでに一ヶ月以上、地道な捜査を続けてきた。はじめ駅周辺から行っていた捜査はなかなか実を結ばず、範囲を広げて管区外も当たった。コンピュータの部品などを扱う電気店をしらみつぶしにあたり、ネットショップの履歴をあさり、なりふり構わずどんな小さな情報も見逃さないように調べ上げた。その結果として浮かんできたのが大村の存在だった。そこまでして掴んだ糸口をふいにするわけにはいかない。優美たちはそれから急いで大村の足取りを追っていた。その矢先、まるでそんな優美たちをあざ笑うかのように、第二の事件が起きたのである。

 優美は缶コーヒーを飲みながら唇をかんだ。本当なら、こんなことをしている間にも大村を追いたい。しかし本部が追っている被疑者は大村ではない。彼らが犯人と踏んでいるのは数年前、S区の地下街で別の事件を起こしたテロ組織の残党だった。何を根拠にそのテロ組織の犯行と踏んでいるのか、所轄の優美たちに大した説明はなかった。本部の方針とあっては一介の所轄刑事には意見などできるはずもない。それは徹底した縦社会の警察という組織では当然のことだ。だが優美は違和感を拭えなかった。自分たちが地道に追ってきた事件の痕跡、わずかな証拠。確かに逮捕状を取るには弱いかもしれない。だが自分の直感を信じるならば、大村が事件に関わった可能性は高いと思う。せめて任意で事情を聞きたい。細い可能性が事件の解決につながることはよくあるのだ。だが本部が警視庁に置かれてしまった今となっては、大村を追うことはおろか、独自に捜査を進めることさえできない。

「お疲れさん」

 意外なほど近くで声がして、随分考えこんでいたのだと自覚する。顔を上げると同じチームで大村を追っていた高岡 義人がいた。優美の十期以上先輩にあたる。高岡もまた自販機でコーヒーを買い、優美の隣に座る。

「お疲れ様です」

「元気ねーな。そんなんじゃホシ取り逃がすぞ」

 高岡は軽口をたたくが、優美はやはり浮かない表情をしている。

「高岡さんは、本部のやり方に納得してるんですか?」

 優美は思わず訊いた。それに応える高岡は眉間にしわを寄せる。

「まぁ納得してるかしてないかっつったら、してねぇかなぁ。さすがに方針が変わり過ぎだしな。でもそれは、別に今回の事件に限ったことじゃねぇぞ」

「というと?」

 訊き返す声があまりに疲れて聞こえたのか、高岡は苦笑する。

「俺はよぅ、そもそもこういう捜査は苦手なんだ。なんっつうか、人様が決めた方針で動くってのが。だが、それは仕方ねぇこった。俺たちの仕事はただ淡々と犯人を捕まえることだ。それが現場の仕事ってもんだ。それに疑問を持つっちゅうのは、若い証拠だよ」

「そんなものですか」

「そんなもんさ。おめぇもこの仕事続けるなら、これからだっていくらでもあんぞ?これぐらいのこと」

 高岡はポケットから煙草を出し、火をつける。確か一ヶ月ほど前に禁煙すると言っていたはずなのだが。

「全く、やってらんねーよな」

 高岡はため息の代わりに煙を吐く。それは長いキャリアのうちに培われた癖なのかもしれない。

 優美が警察官になって七年が経つ。警察の中では、女性としてはスピード出世で、五年で刑事になった。この警察というのはまだまだ女性の進出という点では遅れをとっている。民間企業では女性の社長さえいるというのに、管理職はいまだにほとんどが男性だ。最大の理由は女性には危険な仕事というイメージが強いということだろう。しかし危険なのは男性であっても同じこと。優美だってそんなことは百も承知でこの仕事に就いている。中学、高校を柔道部で過ごした優美は見た目にはわりと細身に見えるが、スーツで隠れる体にはそのときに鍛えた筋肉が今もしっかりついている。実際警察学校でも成績はだいぶ良い方だった。だからそれらの実績と仕事を忠実にこなすことで、優美はそれらの雑言を跳ね除けてきた。

「石井、お前はどうなんだ」

 長い沈黙の後、高岡がふいに水を向けてきた。

「どう、というのは?」

「今の仕事に満足してんのか?まあ、その様子じゃ満足ってわけにはいってねぇんだろうけど」

高岡は二本目の煙草に火をつける。優美は少し考えて応える。

「そうですね。満足はしていません。でも、だからと言って自分のやりたいように動くのも違うと思うんです。それはただの自己満足という気がして。大村の件でも、別に確証があるわけではありませんし」

 そこまで言って、優美はそれが失言であったことに気づく。そのときにチームを率いていたのは目の前の高岡だ。

「別に、高岡さんたちとの捜査にケチをつけるわけではなくて」

「そんな事わかってるよ。いつからの付き合いだよ」

 だが高岡は気にしないというようにあっけらかんと言って、まだ長い二本目の煙草をもみ消す。その顔がゆがんでいる。

「最近、二本目がまずくてな」

「だから、やめればよろしいのに」

「ばーか。それができたら苦労しねぇんだよ」

 言葉のわりに穏やかな声で言う。優美が慇懃無礼な台詞を吐いたとしても、それに対して怒ることはない。それは二人の関係性を端的に表している。

 高岡が無言で顎をしゃくって話の先を促すので、優美は迷いながら言葉を絞り出す。

「なんといったらいいのか……。すごく消化不良であることは確かです。さっきの会議でも、あの組織に絞った理由は説明がありませんでした。なんというか、本部の捜査方針には疑問があります。だからいまいち身が入らないというか……」

 腕を組んだまま黙って話を聞くこの高岡というベテラン刑事は、優美が刑事課に配属された当初から同じチームで捜査をする、いわば教育係だった。右も左もわからなかった優美に一から仕事を教えてくれた仕事の師匠であり、今も尊敬する大先輩だ。優美が心の内ではちゃんと尊敬しているとわかっているから、高岡もいちいち言葉尻に目くじらを立てたりしないのだ。もしも優美が実直な刑事でなかったら、そんな態度をとることに怒っていたかもしれない。だがその仕事ぶりは高岡も認めてくれている。

「お前、今回の捜査から外れたらどうだ」

 だからその言葉に、優美は少なからず驚いた。高岡の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。

「……どういうことですか?」

 優美は急に不安になった。ちょっと弱音を吐きすぎただろうか。高岡に呆れられたのだろうか。そんな思いが顔に出ていたのか、高岡はふっと笑う。

「別に、お前を戦力外だとか、そんな風に言うわけじゃねぇ。むしろ捜査にはお前くらい頭のきれる奴が必要だと思う。だが、俺が言いたいのはそんなことじゃねぇんだ。ただ単純に、お前には今回の仕事は向いてねぇんじゃねえかって話だ」

 確かに高岡の言うことは的を射ているように思えた。こんな中途半端な気持ちでは、まず身を入れた捜査ができない。そして、そういうときの刑事はとても危険な状況にある。集中力を欠けば、張り込みや追跡を行わなければならないような緊迫した場面に出くわしたとき、隙ができる。刑事というのはいつどこで命を狙われているかわからない仕事だ。警視庁に捜査本部が設置された今、高岡とは別に動いている。様子が知れないから心配してくれたのだろう。優美はそんな高岡の優しさも知っていた。

「それに」

 しかしどうもそれだけではなさそうである。高岡は今までの茶化したような言い方ではなく、急に真面目な口調で言葉を継ぐ。それも、他の者に聞かれるのを避けるような低い声で。

「昨日、駅裏で暴力事件があったろ。あの事件に大村が関わった可能性がある」

 優美は思わず息をのんだ。確かに、昨日そんな事件があったと同僚から耳にしていた。若者たちのグループ同士のいさかいだと聞いていたが、そこに大村の名前は出てこなかった。

「どうやら騒ぎの発端は奴だったらしい。大村は騒ぎが大きくなった頃合いにどさくさに紛れて逃走したようだ。防犯カメラに奴の姿がばっちり映っていた。つまり、証拠がある」

 高岡は忘れ去られたように手前のテーブルに置かれていた缶コーヒーを一気に飲んだ。

「証拠があれば令状が取れる。石井、お前はその件で大村をしょっ引け」

「えっ?」

 優美は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。高岡は口に人差し指を添えてシッと諌める。それで優美も声を潜めるが、そこには抗議の色がにじんでいる。

「でも、それでは別件逮捕になってしまいます」

「どうせろくな証拠のねぇこっちのヤマじゃ任意で引っ張るしかねぇんだ。リスクはどっちでも変わらんだろ」

「うーん……」

 優美は考えこんだ。確かに、大村を捕らえるのにこれ以上のチャンスはないのかもしれない。だがそれは大きな賭けであるようにも思えた。逮捕者の勾留期間は粘っても三週間程度だ。その間に暴力事件の取調べを終え、さらに今回の事件での再逮捕につながる供述を取らなければ、期限が来れば釈放されてしまう。そうなってしまえばおそらく大村を捕らえる機会はもう二度とやって来ないだろう。正直、自信がなかった。

「大丈夫でしょうか」

「大丈夫かどうかじゃねぇ。やるかやらねぇかだ。大村を追いてぇんだろ」

 高岡は声を低くしながらも強い口調で諭す。それは高岡には珍しいことだった。そこでやっと思い至った。自分がひどく自信を喪失していたことに。しっかりしろ、と喝を入れられたのだということに。

「そうですね。やってみたいです」

 その言葉を聞いて、高岡は少しほっとしたように薄く笑う。

「そうこなくっちゃな。だったら、善は急げ、だ」

 配属されたばかりの新米でもないのに、こんなに心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。こんなチャンスを与えられたら、やる以外の選択肢などないはずだ。

 せめて高岡に少しでも安心してもらえるように、優美は颯爽とロビーを後にした。

「頼んだぞ、石井」

 その背中に小さく呟いた高岡の言葉は優美の耳には届いていなかった。



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