邂逅
生ごみを片しておくのを忘れたな、と夕暮れ時の家路に自転車をこぎつつ、ふと思った。夏場においては、生ものはとかく腐りやすいので、その処理には輪をかけて気を付ける必要がある。
やってしまった。そんな具合に少し悔恨の情を抱いていたけれど、半日くらいなんともないだろうという気持ちの方が強かった。
下宿先のマンションの自室のドアを開けて私は異変に気付いた。ぬめっとした蒸し暑さ、饐えた臭い。ここまでは問題ない。生ごみを片していなかった私が悪いのだから。
違う。この違和感は、なんだ……。
音だ。
耳障りな羽音が薄暗い六畳間に響いている。ぶーんと踊るように、さながら部屋の所有権を主張しているかのごとく、なにかが部屋の中を飛んでいた。
一気に心拍数が上がるのを感じる。暑さによるものとは違う、冷たい汗が背中をつたう。
私は、抜き足差し足、恐る恐る、照明のボタンに手を伸ばす。ピッというこの場に似つかわしくないのんきな音が鳴り、それは正体を現した。
我が物顔で部屋を飛んでいたのは真っ黒な体に、赤い色の目をした、蠅であった。
推定1センチはあろうかという、大きな蠅であった。
正体を知るなり、恐怖で支配されていた私の心に打って変わって怒りが沸いてくるのを感じる。
私が恐怖を感じていたのは、あまりに大きな羽音をたてていたからである。それがよもや蠅であろうとは。私が仮想していたのは、漆黒のボディに長い触角を持ち、凄まじい速さで地を這い、空を切る、あのゴキブリであった。
田舎に生を受け、幼い頃から節足動物と戯れてきた私にとって多くの害虫など取るに足らない。クモやコバエ、蚊などはその好例である。幼少時代に実家の縁側で培われた殺虫能力は、都会で幼い頃より文明的な生活を送ってきた同輩のそれと比べて一線を画しているといえよう。殺虫における自らの技量にはゆるぎない矜持があった。
そんな私にかかれば、素早い手さばきを以て亡き者にすることなど造作ないことだ。
しかし、ゴキブリだけはだめだ。例外だ。ほんとに。
ゴキブリは私が最も恐れ、苦手とする、いうなれば昆虫界の魔王。奴に侵入されれば私とて、一筋縄ではいかないどころか全く歯が立たない自信がある。マンションの窓を開けたなりインターネットカフェで一夜を過ごすこともやぶさかではない。というか望むところだ。
話がそれてしまった。
とにかく私はゴキブリへの恐怖に打ち勝ち、偉大なる覚悟をもって明かりをいれたのである。それが結果としてただの蠅であり、ブーンという低い羽音は私の覚悟を嗤っているかのようであったから、私は怒りを覚えたのである。
もう、すっかり恐怖心など消え失せていた。
私は電灯の周りを我が物顔で飛んでいる蠅を睨み据え、臨戦態勢に入った。
これより我が六畳間は戦場となる。私の脳裏に古代ローマのコロッセウムが浮かびあがった。勇者と蠅は対峙した。そして私は敵を煽るようにつぶやく。
「蠅ごときがいい気になるなよ」
これは私と蠅との激闘の記録である。