榛名の力
転校初日にして、クラスメートの松井田梓に敵視されてしまった妙義榛名はクラス委員の桐生美緒茄と共に体育館の裏に連れて行かれた。
「どうしよう?」
梓達の迫力に足の震えが止まらなくなった美緒茄が涙目で榛名に囁いた。すると榛名は無表情のままで、
「心配しないで、桐生さん。貴女は私が絶対に守るから」
美緒茄は榛名の言葉にドキッとしてしまった。
(カッコいい、妙義さん! もしかして見かけによらずって感じ?)
美緒茄は尊敬の眼差しで榛名を見ている。榛名はそれでも無表情で、その目は梓を見ていた。
「さてと。まずは本命さんの方からクラスの仕来りをお教えしましょうか」
梓が左の口角を吊り上げ、目を細める。それが合図だったのか、取り巻き達十四人が一斉に動き出し、榛名を取り囲んだ。
「妙義さん!」
美緒茄は取り巻きの二人が羽交い絞めにし、榛名から引き離した。
「あんた、トイレではよくもやってくれたね。どんなトリック使ったのか知らないけど、私の自慢の髪がずぶ濡れになったんだよ」
梓はゆっくりと榛名に歩み寄る。榛名は取り巻きに背後を固められ、両腕を押さえ込まれた。
「何の事?」
榛名は同一のトーンで尋ねた。梓の顔に苛立ちが浮かぶ。
「惚けるんじゃないよ!」
梓が拳を握り締めて大股で榛名に近づいたので、
「やめて、松井田さん! 先生に言うわよ!」
美緒茄が涙を流して叫ぶ。
「黙れ、ボケ女!」
彼女を羽交い絞めにしていた取り巻きの一人が怒鳴る。
「クラス委員らしいコメント、ありがとう、桐生。先生に言いつけたければどうぞ。誰も信じてくれないから」
梓の言葉に美緒茄はビクッとして顔を強張らせた。
(どういう意味?)
美緒茄が梓の強気の姿勢の理由を考えようとした時、
「桐生さん、先生に言う必要はない。この人達は私にも貴女にも何もできはしないから」
榛名が大声で言った。梓は榛名の声が思った以上に大きく聞こえたので、目を見開いた。
「やっぱりあんた、猫を被ってたのね? 本当は前の学校で悪さして、そこにいられなくなって転校して来たんでしょ? でなければ、その落ち着きようはおかしいもの!」
梓は榛名の声を聞いた途端、自分が情けなくなるほど狼狽えているのを自覚していた。梓の声が上ずっているのを感じた取り巻き達にも動揺が伝染したようだ。彼女達も互いに顔を見合わせ、囁き合っている。梓も取り巻きの女子達も、弱い相手には強いが、本当に強い相手を敵に回して喧嘩をするほどの度胸も意気地もない。だからさっきまでの高圧的な態度は完全に鳴りを潜めていた。
「そんな事じゃ困るなあ、松井田。もっと暴力的にいこうぜ」
体育館の屋根の上に人がいた。梓と榛名の諍いの元である黒保根玲貴だ。彼は気配を消して榛名達を観察していたのだが、榛名の迫力に気圧されてしまった梓達を焚きつけるために動いた。
「集え闇の同胞」
玲貴が両手の人差し指と親指で三角形を作った。その瞬間、黒い気が玲貴の口から噴き出し、梓に迫った。
「俺が手助けするのはここまで。後はお前らで頑張れ」
玲貴はそう言ってフッと笑うと、屋根の向こうに姿を消した。
榛名は上方から迫る闇の力を感じ、両腕を押さえつけていた取り巻き達を跳ね除けた。
「きゃ!」
自分より身長が小さくて細い腕の榛名に振り払われ、取り巻きの女子達はギョッとした。
(こいつ、やっぱり強いの?)
彼女達の動揺が更に強くなる。
『主、闇が動きました。あの女子に更なる力を授けるつもりです』
黒く濁ったような声が榛名の心に告げた。榛名は小さく頷き、
『禍津、解き放つ。闇を討て』
榛名は右手の人差し指と中指だけを立ててその間に人型に切られた白い紙を挟んで口元に寄せ、蝋燭の火を消すようにフッと息を吹きかけた。
「急急如律令!」
榛名は続けて呪文を唱えた。
『承知仕りました』
濁った声が応じ、指に挟まれた紙が宙を舞い、痩せ細った異形の者がヌウッと現れた。
「いやああ!」
梓の取り巻き達はそれを見て絶叫し、そのまま腰を抜かして地面にへたり込んだ。美緒茄は何が起こっているのか理解できず、呆然として異形の者を見つめている。ふわりと地面に降り立った異形の者は例えれば鬼に似ているが、着ている物は黒い装束。肌は鋼色で油を塗ったようにギラギラとして口は耳元まで裂けており、鼻は胡坐を掻き、切れ長の目は赤く濁って吊り上がっている。角は頭の天辺に一本だけ生えており、その周りに生えている髪は漆黒である。身長は二メートルほどだろうか? 只、細い腕と脚が装束の丈より遥かに長いため、若干見た目を滑稽にしている。そして何故か首には黒光りする鎖が巻かれていた。
「正体を現したね、妙義。あんたはやっぱり化け物だったのね」
先程まで狼狽えていたのと同じ人物とは思えないほど、梓は落ち着きを取り戻し、榛名と異形の者を見比べている。
『主、この女子、闇に食われかけております。手早く片づけぬと、元に戻せなくなります』
異形の者が榛名の心に語りかける。榛名はチラッと異形の者を見上げ、
「松井田さんだけでいい。黒幕はまた後の機会にする」
『承知』
異形の者は梓を睨んだ。玲貴が放った闇が取り憑いた梓はそれに対して萎縮するどころか、不敵な笑みを浮かべた。
「私を殺すつもりなの、妙義? 見かけは少女でも、心は修羅なんだね」
梓は榛名を挑発する言葉を吐く。彼女の呼気に混じって黒い物が煙のように流れ出た。それを見て榛名は眉をひそめる。
(妖気か? 誰かに喋らされている。厄介だな)
榛名は周囲を探ったが、すでに黒幕である玲貴はいない。
「ひ……」
ようやく状況がわかり始めた美緒茄は一歩後退した。その時彼女は水溜りに足を踏み入れた気がして地面を見た。それは水溜りではなく、彼女を押さえつけていた梓の取り巻きの一人が恐怖のあまりに漏らした尿だった。その取り巻きは自分が失禁した事もわからないほど混乱し、震えていたが、腰が抜けて逃げる事ができない。隣にいた別の取り巻きは相棒の混乱が怖いのか、失禁した取り巻きをはねつけて地面を這いずって離れた。他の取り巻き達も漏らす者、気絶する者、腰が抜けて立てない者、泣き叫ぶ者と様々だ。
(どうしてだろう? あんな恐ろしい姿なのに、怖くない)
美緒茄はパニックに陥っている者達を冷静な目で眺めていた。その事に気づいたお陰で、彼女は落ち着きを取り戻せた。
「しっかりして」
美緒茄は失禁してしまった女子にまず声をかけたが、聞こえていないようなので、少し離れた場所で頭を抱えてうずくまっている女子に近づいた。
「大丈夫?」
しかし、その子も反応がない。何かをブツブツと言いながら震えている。
「どうしよう?」
こんな時にも軽くボケをかます美緒茄である。
「だったら話は早い。殺られる前に殺れ。そういう事だよね、妙義?」
信じられないような内容の梓の声が聞こえたので、美緒茄はビクッとして彼女を見た。梓の顔は元々険がある表情だが、今はそれが更に強くなっている。
(あの鬼みたいな人より、松井田さんの方が怖い……)
美緒茄の正直な思いである。
「ほう、式神を使えるのか」
体育館の屋根から降り、校舎への渡り廊下を歩いていた玲貴は榛名が放った異形の者を感じ取り、呟いた。
(何のつもりかは知らないが、その程度の式神を従えているお前では俺の相手にはならないな)
玲貴はニヤリとして校舎に入った。
部活動に集中していたはずの太田裕宇だったが、内野の守備練習でショートに付いていた時、ほんの一瞬、美緒茄と榛名の事が気になり、イレギュラーバウンドをうまく処理できず、右頬に当ててしまった。
「少し冷やしていれば大丈夫です」
裕宇は水で濡らしたタオルを右頬に当て、グラウンドの端の木陰に歩き出した。その時彼は、体育館の裏に向かう榛名と美緒茄と梓の取り巻きを見かけた。
「な、何だ?」
非常にまずい状況なのが何となくわかった裕宇はこっそり練習を抜け出し、体育館へと走った。
榛名は凶悪な顔つきに変貌して自分を睨みつけている梓を無表情に見つめる。
「禍津、松井田さんの内に巣食う闇を掻き出せ」
榛名が命じると、禍津と呼ばれた異形の者は、
『承知』
と応ずると一足飛びに梓の前へと移動した。
「こんな小者で私をどうにかしようなんて、甘いんだよ、妙義!」
梓は涎を垂らして目を血走らせ、禍津を見上げた。
『御免』
禍津は言葉を発すると同時に右手を梓に突き出した。
「遅いよ!」
梓はまるでそれがわかっていたかのようにかわした。しかも人間の動きとは思えないほどの迅速さで。
「闇の根が深くなっている。禍津、多少傷つけてでも急げ」
榛名は相変わらずの無表情で指示した。禍津は飛び退いた梓を濁った赤い目で見る。
「そんな遅い動きで私を捕まえるつもりか、化け物?」
梓はニヤリと笑ったが、何故か涙を流している。
「松井田さん……?」
梓の涙に気づいた美緒茄が首を傾げた。
(闇の力で限界を超えた動きをさせられたため、身体中の筋肉と骨が悲鳴を上げているのか)
梓の心の叫びを感じ取った榛名の顔が微妙に動いた。
(長引けば松井田さんは闇に体組織を破壊されて死んでしまう)
榛名は決断した。
「禍津、鎖を解く。全力で行け」
榛名は右手を人差し指と中指だけ立てた状態で右横に動かした。その途端、禍津の首の鎖がバラバラになり、消えた。
「何!?」
梓の中の闇が驚愕したのが榛名にはわかった。力の差をまざまざと見せ付けられたので動揺しているのだ。
『ふううう!』
痩せ細っていた禍津の手足に力が漲り、筋肉が隆起し、余裕のあった装束の袖口と裾がはち切れそうになった。
「闇を討て、禍津」
榛名がもう一度命じた。
『はああ!』
禍津は気合を発すると呆然としている梓の右肩を左手で掴み、右手を振り上げた。
(何?)
美緒茄は鎖を解かれてからの禍津に脅威を感じていたので、その動きに身じろいだ。
『闇はあるべき所に帰りぬ!』
禍津はそう叫ぶと、右手を梓の口の中に突き入れた。大きさと長さから判断する限り、絶対に収まるはずがないのだが、禍津の右腕は肩の辺りまで全部梓の口の中に入った。
「いやああ!」
それを見た美緒茄は絶叫し、その場に倒れた。梓の取り巻き達も泣き叫びながら次々に気絶してしまった。
「除け」
榛名は右手の指をそのままの形で顔の前に持って来て、禍津に更に命じる。
『ふおお!』
禍津の身体が輝き始め、その光が右腕に集中する。そして光は次第に腕の先へと集まり、梓の口の中へと入って行った。
『ぐぎゃああ!』
人間のものとは思えない声が梓の腹の中から響き、彼女は気を失った。禍津は一気に右腕を引き抜き、梓の身体を地面に寝かせた。
「戻れ」
榛名が右手を左横に動かすと、禍津は霧のように霞み、消えたはずの鎖が元に戻って首に巻きつくと榛名の指に吸い込まれるように消えてしまい、元の人型の紙になった。
「目が覚めた時、全て忘れている」
榛名はそう言いながら、長方形の白い紙を美緒茄と梓、そして取り巻き達一人一人の額に貼った。それには字が墨で書かれている。その紙は不思議な事に彼女達の額に溶け込んで消えた。
(これで闇はあいつのみ)
榛名は玲貴が消えた体育館の屋根の上を見上げた。
玲貴はその頃、すでに学校を立ち去っていた。彼に憧れる女子達がつかず離れずの距離で後をつけている。
(妙義榛名、思ったよりやるようだな)
梓に放った闇が榛名の力で消されたのを知ると、玲貴の目が怪しく光り、左の口角が吊り上がった。
榛名は美緒茄と梓達の呼吸と心拍数を計測して異常がない事を確認し、梓の口から垂れている涎をハンカチで拭い、乱れたブラウスを整えると立ち上がった。
『主、何者かが近づいております』
禍津の慌てたような声が榛名の心に語りかけた。榛名も背後に人の気配を感じ、ハッとして振り返った。
「一体何があったの、妙義さん?」
榛名と美緒茄を心配してやって来た裕宇がそこにいた。裕宇は気を失っている美緒茄達を見渡してから、縋るような目で榛名を見た。榛名は想定外の人物の登場に言葉を失った。
お読みいただき、ありがとうございます。