美琴と翠
強い能力を身に秘めた陰陽師である妙義榛名は今、舞烏帽子中学校の二年五組に巣食う闇を打ち祓うために活動を開始していた。彼女は闇に取り込まれようとしている片品翠の親友である倉渕美琴から話を聞いていた。二人は厩橋渉を巡ってその関係が完全に壊れてしまっている。そこに原因があると読んだ榛名が、美琴から解決の糸口を掴もうとしていた。
「翠が厩橋君に告白すると言った時、私はいても立ってもいられなくなって、翠より先に彼に思いを伝えようとしたの。でも、次の日の朝、翠は厩橋君の家にまで行って、彼が出て来るのを待っていたわ。結局私は翠に先に告白されてしまったの」
榛名はその時の状況を美琴の記憶から術を使って読み解いた。
(それが更に拍車をかけたのか)
榛名が見た光景は翠にとって酷な結果だった。
翠は普段なら寝ている時間に起き、一生懸命考えて綴ったラブレターを胸に渉の家まで行った。何も知らずに玄関を出て来た渉は表で待っている翠に気づいて驚いた。
「おはよう、片品さん。どうしたの、今日は?」
翠の気持ちに全く気づいていない渉は微笑んで尋ねた。翠は震える手で封筒を差し出し、
「私、厩橋君が一年生で転校してしまってからずっと忘れられなかった。久しぶりに会って、その気持ちが間違いでない事に気づいたの」
渉は差し出された封筒がハートのシールで閉じられているのを見て、その中身の見当がついた。だが、彼の心にあるのは翠ではなかった。それでも彼女の気持ちを傷つけたくなかった渉は、
「ごめん、片品さん。僕、志望校に合格するまではそういうの、できないんだ」
断わるのではなく返事を引き延ばす方法で渉は翠の告白を受け流した。翠は渉が有名私立校を目指しているのを知っていたので、その時は彼の言葉を疑わなかった。
「そ、そうだね。私達はまだ勉強の方が優先だよね。それからだよね」
翠は涙が零れそうになるのを必死に堪えながら渉に返された封筒を制服のポケットにねじ込んだ。
「ごめん、片品さん」
渉は心から謝罪した。それは翠に嘘を吐いている後ろめたさからだったのは、彼自身が自覚しているかは定かではない。
「翠は厩橋君の話を鵜呑みにしてそのまま帰ったらしいの。彼女と入れ違いに厩橋君の家に行った私は、彼から経緯を聞いてホッとしたのと同時に、これからずっと翠に嘘を吐き続けなければならないと思い、胸が締めつけられる気がしたわ」
美琴の目からまた涙が零れ落ちる。彼女の翠に対する後悔の念に偽りはない。しかし、それを凌駕するほどの情念が美琴を突き動かしているのだ。
(妙だ。これは一体……)
榛名は翠と美琴の二人には申し訳ないと思ったが、渉という人間にそこまで執着する彼女達の気持ちが理解できない。
(贔屓目に見ても、厩橋君はモテるタイプには見えない)
それが榛名の結論である。二人以外のクラスの女子達で、渉に気持ちが向いている子はいないのだ。
(何かおかしい)
榛名はその件に関して自分で解決できないと判断し、家に帰ってから父である白雲に尋ねる事にした。
(女とはそういう生き物なのだろうか?)
榛名はその時、またある少女の感情を察知していた。
(春菜?)
榛名によく似た少女が頭の中に浮かんで来る。しかもまるでそこに存在するかのように鮮明に見えて来るのだ。
『私も吾妻君が好きだった』
その少女は唐突にそう呟き、霧が晴れるように消えてしまった。
「厩橋君は言ってくれたわ。美琴と再会できたのは、多分そういう運命だからだって」
美琴は含羞んだ笑顔で言った。榛名はその言葉で我に返った。
「彼は私を選んでくれたとわかった。本当に嬉しかった。私達は交際を約束したけど、翠の手前表立って付き合えないので、その日も別々に登校したの」
美琴は感情を昂ぶらせて続ける。ところが突然それが霧散するように彼女の表情は翳りを見せた。
(片品さんが荒れ始めたのか)
榛名は美琴の記憶を先読みした。
「ところが、学校に着いてみると、玄関でいきなり翠に詰め寄られたわ。『厩橋君をどうやってたらし込んだの?』って」
美琴の顔が強張る。
「翠に知られたと思った。でも私は厩橋君との約束通り、否定したわ。厩橋君とは何でもないと言い通した」
榛名は眉根を寄せ、美琴を見つめる。
(倉渕さんの気持ちの強さが、片品さんを更に追いつめた。いや、それが切っ掛けとなって闇がつけ入ったのか?)
榛名は授業を送らせるのはもう限界だと思い、チャイムを鳴らした。それに美琴がハッとした。
「ああ、授業が始まっちゃったわ、妙義さん。教室に戻らないと」
美琴はバスケ部のエースらしいフットワークを見せ、ヒラリと身を翻すと屋上から走り去った。
(想像以上にもつれている。難しいな)
榛名はスッと右手に持った護符を投げた。すると一瞬のうちに彼女の身体は二年五組の前の廊下に飛んだ。
「え? 妙義さん、早い! いつの間に?」
息を切らせて階段を駆け降りて来た美琴が見開いた。
「私は足が速いの」
榛名は無表情のまま言うと、教室に入って行った。
「足が速いって、私の方が先に屋上を出たのに……」
納得がいかない美琴だったが、首を傾げながら廊下を歩いて来るクラス担任の月夜野鞠子に気づいて教室に飛び込んだ。
「どういう事なのかしら? もう授業が始まって十五分以上経っているわ」
まさか榛名が術でチャイムを止めていたとは夢にも思わない鞠子は、しきりに首を捻っていた。
榛名が教室に入ると翠がチラッとこちらを見たが、すぐに窓の外に目を向けてしまった。続けて美琴が入って来ても無反応である。渉に視線を移すと、彼は気力を奪われたように項垂れていた。
(何かあったのか?)
微かに漂う気を感じ取り、榛名は翠と渉の間に諍いがあったのを知った。しかし、翠が消してしまったのか、詳細は追えなかった。
(先程の倉渕さんの話の続きは、厩橋君が知っているだろう)
榛名は授業が終わったら渉に話を聞こうと考えた。
「遅くなってごめんなさいね、どういう訳か、廊下をいくら進んでもここに着かなくて……」
鞠子は苦笑いしながら教室に入って来た。しかし生徒のほとんどは彼女の言い訳に無反応だ。比較的翠の呪縛を受けていない渉ですら、鞠子に視線を向けもしない。
「じゃ、じゃあ、すぐに始めるわね」
榛名はその時初めて鞠子が国語の教師だと知った。全然関心がなかったので、鞠子の存在すら忘れかけていたほどだ。術で止めていたのも、彼女とわかってではなかった。
『主、妙です』
榛名が使役する式神である『禍津』が榛名の心に語りかける。
『闇が増えています。これは……』
禍津が言いかけたのを榛名が止めた。
『言うな、禍津。聞かれている』
彼女は翠が自分と禍津の会話を盗み聞きしているのに気づいていた。
『申し訳ありませぬ、主』
禍津は詫びて口を噤んだ。榛名は頭の中で思い描く事までも覗く事ができる翠に取り憑く闇に脅威を感じた。
「ちっ」
翠があからさまに舌打ちをし、榛名を牽制して来た。板書をしていた鞠子がビクンとし、手を止めた。
「いちいち反応するなよ、バカ女。そのまま続けろ!」
翠は苦々しい表情を隠す事なく怒鳴った。鞠子は小さく悲鳴を上げてまた板書を始めた。榛名は取り去ったはずの鞠子の闇が甦っているのを知り、穏やかではなかったが、今動揺すると翠に気取られるので感情を押し殺して無になろうとした。鞠子の後ろ姿を見ると、身体から滲み出すように闇が広がり、最前列の生徒を侵蝕し始めている。翠の闇ほど強力ではないので、榛名はそれを放置する事にした。そして更に右隣の美琴にも闇が広がって来ているのがわかった。美琴の闇は翠に反発する事で生まれた別物のようだ。
(妙だ。教室全体が巣窟になりかけている)
榛名は小さな闇の増殖に焦りを感じた。視界の端で翠を捉えると、彼女は榛名を斜目で見てニヤついていた。榛名が焦っているのを見抜いたようだ。
「来週は小テストをします。今日はここまでです」
鞠子は教材を抱え込み、チャイムと同時に教室を飛び出して行った。榛名は席を立って歩き出した渉を追いかけるように廊下に出た。
「厩橋君」
榛名は先を歩く渉に声をかけた。彼の隣には坊主頭の吉岡がいた。
「何だよ、転校生? 厩橋は倉渕と付き合ってるんだ、他を当たれよ」
吉岡はニヤついてそう言った。
「吉岡!」
渉がハッとして吉岡を窘めようと彼を見上げた時、
「うわわ!」
吉岡の身体が宙を舞い、天井へと浮き上がった。
(片品さんか?)
榛名が早九字を切って術を破ろうとすると、それより早く翠が術を解いた。
「いでで……」
廊下に落とされた吉岡は下になった右腕を押さえた。
「大丈夫か、吉岡?」
渉が吉岡を気遣うと、
「吉岡、今度余分な事を言ったら、もっと痛い目見るよ」
廊下に出て来た翠が仁王立ちで言った。その目は吊り上がり、血走っていた。
「片品さん、それはどういう事?」
渉は翠を真っ直ぐに見つめて尋ねた。翠の顔に動揺の色が走るのを榛名は見て取った。
(やはり片品さんは純粋に厩橋君が好きなのか。だが、倉渕さんの強過ぎる思いが彼女に取り憑く闇を刺激している。先程の諍いも彼女は後悔している。厩橋君が協力してくれれば、二人の間に走る深くて険しい亀裂を消す事ができる)
榛名は護符を取り出して吉岡に放った。そのお陰で吉岡の右腕は何事もなかったかのように回復した。
「あれ?」
本人も目を見開き、激痛が走っていた右腕を摩っている。
「どういう事?」
吉岡が渉に尋ねる。翠は渉の非難するような視線に堪えられなくなったのか、教室に戻ってしまった。
「え、何の事?」
吉岡は外傷があった訳ではないので、渉には彼の問いかけの意味がわからない。
「俺、超能力者になったのかな?」
自分の力で回復したと思っている吉岡はスッと立ち上がり、右腕をグルグル回した。
「大丈夫なのか、吉岡?」
渉が仰天して尋ねた。吉岡は気取って笑い、
「俺はたった今、進化したのさ、厩橋」
「はあ?」
渉は吉岡が頭を打ったのではないかと心配になった。
「早くしないと、漏れちまうよ」
吉岡は股間を押さえて走り出す。そばにいた女子達が嫌な顔をしているが、榛名は気にも留めず、
「厩橋君、話があるのですが?」
渉は吉岡ほどではないが、今は行きたい場所がある。
「えっと、今じゃないとまずい?」
彼は苦笑い混じりに尋ね返した。榛名は渉が焦っている理由を見抜き、
「尿意を催しているのですね?」
と妙に畏まった物言いで応じたので、
「あ、うん、そういう事」
渉は榛名の言葉がおかしかったため、より催してしまった。
「じゃ、じゃあ」
彼も廊下を走って行ってしまった。
「妙義さん、厩橋君に変な事言わないでよ」
顔を赤らめた美琴が辺りを憚るように身を縮め、声を低くして言った。
(そんな事をしても、片品さんには聞こえている)
榛名は無駄な努力をする美琴を目を細めて見た。
「変な事とは?」
榛名は無自覚なので、そんな返しをした。美琴は榛名がふざけていると思ったのか、
「もういいわ」
呆れた顔で言うと、教室に戻って行った。榛名はその時ある事に気づいた。
(教室を出ると、闇の影響が弱まっているのか?)
翠が渉の問いかけに動揺したのも、美琴の反応が弱いのも廊下にいたから? 榛名は教室全体を見た。
(何も仕掛けられた様子はない。だとすれば、この場所そのものが何か影響を与えているのか?)
榛名はそこから離れ、護符を使って結界を張った。
『禍津』
彼女は式神に心の中で語りかける。
『はい』
榛名は辺りを窺いながら、
『この教室の真下の土地を調べろ。何かが影響している』
『承知』
榛名はポケットから人型の紙を取り出して放り投げた。人型は禍津になり、床に溶け込むように消えた。
「え?」
ちょうどトイレから出て来た渉がその瞬間を見てしまった。
「どうした、厩橋?」
ご機嫌な顔で後ろから現れた吉岡が尋ねる。渉は吉岡を見上げて微笑み、
「いや、何でもない」
疲れているんだ。渉はそう思う事にした。
(片品さんがおかしな力を使うっていう噂を聞いているから、幻覚を見たんだ)
彼はそう思う事にし、教室へ戻って行く。
「変な奴だな」
吉岡は首を傾げて渉を追いかけた。