傾いてる回
それに最初に気づいたのは、依頼でも魔物でもなく、ただ昼飯を食い終えて外に出ただけのレナだった。
「ねえ」
嫌な呼び方だ。
「傾いてない?」
ギルドの入口にぶら下がっている木製の看板――“冒険者ギルド”と堂々と書かれている町の顔とも言えるそれが、確かに言われてみればほんの少しだけ、ほんの気持ちだけ右に下がっている気がしなくもない角度で風に揺れていた。
俺は見上げる。
……分からん。
「気のせいだ」
即答する。
こういうのは即答が大事だ。
「いや、傾いてる」
レナは腕を組んだまま、まるで巨大魔物の弱点を見抜くかのような真剣な目で看板を凝視している。
「右が三度くらい」
なぜ度数で言う。
「三度もない」
「ある」
始まった。
問題はここからだった。
受付嬢に軽い気持ちで伝えたのが失敗だった。
「え? そうなんですか?」
と不安そうに外へ出る。
やめろ。
その“え?”で空気が揺らぐ。
受付嬢が見上げる。
通りすがりの冒険者もつられて見上げる。
「……あー」
「言われれば?」
「ちょっと右だな」
感染した。
人の認識は簡単に傾く。
五分後には、全員が“傾いている前提”で議論を始めていた。
「いつからだ?」
「昨日は真っ直ぐだった」
「いや三日前から怪しかった」
記憶が曖昧なくせに断定するな。
脚立が持ち出される。
なぜだ。
レナが当然のように登ろうとする。
「私やる」
「やらなくていい」
「こういうの、気になると戦えない」
知らないそんな弱点。
俺は脚立を押さえる。
レナが上から看板を触る。
「やっぱ右緩い」
「だからって叩くなよ」
「分かってる」
分かってない顔だ。
コン、と軽く叩く。
看板が揺れる。
下で見ている連中が一斉に声を上げる。
「うお」
「落ちるぞ」
縁起の悪いことを言うな。
レナがもう一回叩く。
ゴン。
音が重い。
その瞬間、嫌な手応えが空気を通じて伝わる。
「待――」
言い切る前に、看板が外れた。
完全に。
俺は反射で受け止める。
重い。
息が止まる。
地面に倒れ込み、胸の上に“冒険者ギルド”が乗っているという意味の分からない状況が完成する。
静寂。
レナが上から覗き込む。
「……外れた」
見れば分かる。
ギルドの看板が地面にあるという事実は、思っている以上に空気を重くする。
受付嬢が青ざめる。
「これ、営業停止ですか……?」
違う。
看板がなくても冒険はできる。
だが誰かが言う。
「縁起悪くないか?」
やめろ。
さらに別の誰かが言う。
「魔物の前触れでは」
飛躍がすごい。
レナが正直に言う。
「私が叩いた」
全員がレナを見る。
そしてなぜか俺を見る。
なぜだ。
俺は看板の裏を見る。
木が割れている。
釘穴が広がっている。
原因は明白。
ただの劣化。
時間だ。
魔物でも陰謀でもない。
ただ年月。
だが空気は既に“事件”になっている。
修理方針会議が始まる。
「釘を太くするべきだ」
「いや板を削って角度を」
「いっそ新デザインに」
広げるな。
レナが言う。
「どうせなら新しくしよう。強そうな字体で」
やめろ。
「参謀が考える?」
なぜ俺だ。
「町の顔になる」
やめろと言っている。
結局、俺が裏に補強板を当てて、割れた部分を押さえながら、慎重に釘を打ち直すという最も地味で最も確実な方法に落ち着いた。
カン、カン、と音が響く。
レナが横で支えている。
妙に真面目だ。
さっきまで笑っていたくせに。
「そこ、もう少し左」
「三度?」
「一度」
細かい。
看板を持ち上げる。
固定。
全員が見上げる。
沈黙。
この沈黙が一番怖い。
「……どうだ?」
誰かが言う。
レナが目を細める。
「今度は左に一度」
やめろ。
受付嬢が息を呑む。
俺は言う。
「まっすぐだ」
強めに。
断言。
人は強い言葉に流れる。
「……まっすぐだな」
「うん、まっすぐ」
空気が決まる。
レナが俺を見る。
少しだけ口角が上がる。
「押し切ったね」
「戦術だ」
「看板相手に?」
「空気相手だ」
営業再開。
何事もなかったように依頼が貼られ、冒険者が出入りし、看板はたぶんまっすぐにぶら下がっている。
レナが椅子に座りながら言う。
「今日の依頼、何だったの?」
俺は答える。
「三度」
レナが吹き出す。
受付嬢が安心したように帳簿を閉じる。
戦闘なし。
魔物なし。
ただ、ほんの少し傾いている気がしただけの看板。
なのに半日が消えた。
レナがぽつりと言う。
「あなた、こういうの強いね」
「何がだ」
「“まあいいか”に持っていくの」
やめろ。
そんな能力いらない。
だが確かに、魔物より厄介だ。
“なんとなく気になる”という敵は、剣では倒せない。
そしてたぶん明日も誰かが言う。
「ちょっと左じゃない?」
そのとき俺はきっと、また即答する。
「まっすぐだ」
全力で。




