第9話「心の声より先に、口で言って」
辺境の雪は、王都の雪より静かだった。
馬車が領境を越えると、空気の匂いが変わる。湿った香水の残り香が消え、薪の煙と凛とした冷気だけが肺に入ってくる。窓の外には白い原野。遠くの森が黒い影のように揺れ、風の音が規則正しく響く。
「……帰ってきた」
私が呟くと、隣のサイラス様が頷いた。
「……ああ」
『帰ってきた。俺たちの場所。彼女が安心して息をできる場所。』
その心の声を聞いて、胸が温かくなる。けれど同時に、胸の奥で小さな棘が動いた。
(言わないと)
王都で決着をつけた。私たちは奪われない。領地も、私の居場所も守られた。
だからこそ、最後に残っているのは――私たち自身のことだ。
私の秘密。
彼の不器用な優しさ。
そして、ちゃんと言葉で伝え合うこと。
屋敷に着くと、使用人たちが入口に並んでいた。エルナが先頭で深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」
「無事で……本当に、よかったです」
料理長マルタが目を赤くし、騎士隊長グラントは大きく息を吐いた。皆が“戻ってきたこと”を喜んでいる。それが嬉しくて、胸が少しだけ痛い。私はここでようやく、誰かの役に立つだけでなく、誰かに必要とされている。
「留守を守ってくれてありがとう」
私はそう告げ、皆に微笑んだ。いつの間にか、自然に笑えるようになっている自分に気づく。
その夜、屋敷では小さな祝宴が開かれた。
豪華ではないが温かい食卓。豆の煮込み、塩気の効いた肉、焼きたての黒パン。冬の空気の中で湯気が立ち、笑い声が弾む。
「奥様のおかげで、今冬の備えは万全です」
「王都の連中も、これで手出しできないでしょう」
グラントの言葉に、私は頷く。
「皆さんがいたからです」
そう言うと、マルタが鼻を鳴らした。
「奥様は相変わらず真面目だね。……でも、その真面目さで救われた口が多い」
照れ隠しの言葉に、私は微笑んだ。胸が温かい。ここが私の居場所だ。
けれど、食卓の端にいるサイラス様を見て、胸の棘がまた疼く。
サイラス様は無表情のまま、皆の会話を聞いている。たまに頷き、短く返事をするだけ。
けれど心の声は忙しい。
『皆が笑ってる。よかった。彼女が笑ってる。可愛い。抱きしめたい。今抱きしめたら皆の前だ。だめ。だめだ俺。落ち着け。』
私は扇で口元を隠し、こっそり息を吐いた。
(今日こそ、言おう)
祝宴が終わり、使用人たちが下がった後。
廊下の灯りが落ち、屋敷が静かになる。外では雪が降っているのに、寒さは不思議と刺さらない。
私はサイラス様を呼び止めた。
「サイラス様。少し、お話を」
「……分かった」
『来た。話。何だ。怖い。嫌われた? 王都で無理させた? いや彼女は強い。強いけど。俺が足りなかった?』
彼が不安で満ちているのが、心の声で分かる。私は首を振った。
「心配しないでください。叱る話ではありません」
執務室の隣、小さな応接間。暖炉の火が静かに燃えている。私はソファに座り、サイラス様にも座ってもらった。彼は姿勢よく腰掛け、まるで会議のように真面目だ。
『会議じゃない。妻との夜だ。夜だ。落ち着け。』
私は深く息を吸う。
「……ずっと、言わなければならないことがありました」
「……何だ」
『怖い。だが聞く。聞く。逃げない。』
私は膝の上で手を組み、視線を落とした。
「私には――秘密があります」
サイラス様の瞳がわずかに揺れた。心の声が小さく跳ねる。
『秘密。秘密。男がいる? いや違う。そんなはずない。違う違う。落ち着け。』
「私は、人に触れると……その人の“心の声”が聞こえます」
言い切った瞬間、部屋の空気が止まった。
サイラス様は凍ったように動かない。表情は相変わらず無表情なのに、耳だけがゆっくり赤くなっていく。まるで雪に落ちた小さな火種みたいに。
そして――。
『え? え? 全部? 全部? じゃあ俺の……俺の……! 初対面の時の“天使”も、初夜の“手繋ぎたい”も、キスの“好き好き好き”も、全部!? 死ぬ。恥ずかしい。凍る。凍死する。いや俺が凍ったら彼女が寒い。だめだ。だめだが無理。』
心の声が洪水のように溢れ、私は思わず笑ってしまった。
「……はい。全部です」
「……いつから」
声が震えていた。サイラス様が震えている。氷の公爵様なのに、震えている。
「子どもの頃から。でも、誰にも言えませんでした。怖かったから」
私は正直に言った。「聞こえてしまうのが、怖かった。嘘も悪意も、全部。だから私は、なるべく触れないようにして生きてきました」
サイラス様の心の声が、少しだけ静かになる。
『怖かったのか。そりゃ怖い。俺だって、自分の心の声を他人に聞かれたら……死ぬ。』
「でも、サイラス様の心の声は……怖くありませんでした」
私は彼を見上げた。
「うるさいですけど」
付け足すと、サイラス様の耳がさらに赤くなる。
『うるさい。うるさいって言われた。嬉しい。嬉しいのか俺。嬉しい。』
私は続けた。
「あなたの心の声は、いつも私を大事にしてくれている。私を傷つけようとしていない。だから……聞こえても、嫌ではなかった」
サイラス様はしばらく黙っていた。無表情のまま、拳を握ったり開いたりする。その仕草だけが、彼が動揺している証拠だった。
『言わなきゃ。口で言わなきゃ。心の声に頼るな。彼女は言った。怖かったって。なら俺は——口で守る。』
やがて、サイラス様が息を吐き、ゆっくり言った。
「……なら、今まで」
「はい。あなたが“愛してる”と叫んでいたのも、全部」
私は笑った。「初めて会った日も、毎日も」
サイラス様が、片手で顔を覆った。指の隙間から、耳まで真っ赤なのが見える。
『死ぬ。恥ずかしすぎる。俺の人生、彼女に全実況されてた。実況。ああ。』
私は彼の手に、そっと触れた。冷たい手袋越しでも、温度が分かる。
「だから、私も言わなければいけないと思いました」
「……何を」
『何を。何を!? 怖い。嬉しい。怖い。』
私は心を決めて、言った。
「私は、サイラス様が好きです」
一瞬、サイラス様の心の声が止まった。
雪が止んだみたいに、静寂が落ちる。
それから、爆発した。
『好き!? 好きって言った!? 聞き間違いじゃない? いや聞こえた。口で言った。口で。口で。——俺も言う。今言う。』
サイラス様は顔を上げた。無表情の仮面が、ほんの少しだけ崩れている。目の奥が熱い。
「……俺も」
言葉が詰まる。彼は一度唇を結び、まっすぐ言い直した。
「リリアナ。愛している」
はっきりと、口で。
逃げない声で。
私は胸がきゅっとなって、目が熱くなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
サイラス様が少しだけ眉を寄せる。
『礼じゃない。嬉しいって言ってほしい。幸せって言ってほしい。俺も言う。』
「嬉しいです」
私は素直に言った。「すごく」
その瞬間、サイラス様が立ち上がり、私の前に膝をついた。あまりに急で、私は息を呑む。
「……一つ、約束してほしい」
「約束?」
「お前が嫌だと言うことは、しない」
淡々とした言葉。でもその目は真剣だった。
「俺は……心の中がうるさい。だが、口で言う努力をする。お前に伝わるのが心の声だけなら、それは……ずるい」
『ずるい。頼ってた。甘えてた。彼女が聞いてくれるから。だめだ。口で言う。口で言って抱きしめる。』
私は笑って、頷いた。
「では、私も約束します」
「……何だ」
「聞こえていても、聞こえていなくても、ちゃんとあなたに“言葉で”伝えます」
サイラス様の目が見開かれ、次いで、ほんの少しだけ柔らかく細まった。
表情が動いた。ほんの少し。でも確かに。
『笑った。俺の前で。俺だけに。』
サイラス様がゆっくり立ち上がり、私を抱きしめた。
強くはない。逃げられないほどではない。けれど、絶対に離さないと分かる腕。
冷たいはずの腕の中が、温かい。
それは私の体温だけではなく、彼の体温がそこにあるからだ。
「……寒くないか」
「寒くありません」
私は彼の胸に頬を寄せた。「ここは、温かいです」
サイラス様の心の声が、いつものように騒がしい。
『温かいって言った。俺の胸が。俺の胸が温かいって。世界が救われた。』
けれど今は、その騒がしさが愛おしい。私はもう、怖くない。
◇◇◇
春は、まだ遠い。
けれど、雪の中に少しだけ柔らかい匂いが混じり始めていた。
翌朝、私はいつも通り執務室で帳簿を開く。炊き出し、倉庫、街道、兵站。領地を守る仕事は終わらない。けれど、隣にはサイラス様がいる。
彼は書類を一枚取り、淡々と口にした。
「……今日も、助かる」
そして、少しだけ間を置いて、真面目に言い足す。
「愛している」
言った本人が真っ赤になって、咳払いで誤魔化す。
『言えた! 言えた! 毎日言うって決めたから! 恥ずかしいけど!』
私は扇で口元を隠し、笑った。
「はい。私も愛しています」
心の声より先に、口で言う。
その約束が、私たちの冬を越える火になる。
窓の外では雪が降っている。
それでも、もう寒くない。
ここが、私たちの幸せな場所だから。
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