第7話「夜会の檻は、笑顔でできている」
王都へ向かう馬車の窓には、雪ではなく雨が当たっていた。
同じ冬でも、北の白い静けさとは違う。湿った風が石畳を撫で、街の空気には人いきれと香水と油の匂いが混ざっている。遠くに王城の尖塔が見えた瞬間、胸の奥が薄く冷えた。
(帰ってきた、のね)
私は“戻った”わけではない。奪われた場所に引き戻されたのでもない。自分の足で、ここへ来た。
隣に座るサイラス様はいつもの無表情で、窓の外を見ている。けれど袖口にそっと触れると、心の声が荒く鳴った。
『臭い。王都の臭いだ。嘘と欲と腐った甘さ。彼女の顔色が変わってないか? 大丈夫か? 大丈夫って言ってくれ。いや言わせるな。俺が守る。』
「大丈夫です」
私は小さく言った。心の声を聞いたからではなく、本当にそう思えたから。
サイラス様の視線が一瞬だけこちらに向く。氷の瞳の奥が、わずかに揺れた。
「……無理はするな」
『無理させる前に俺が全部凍らせたい。だめだ。彼女が望むのは“終わらせる”ことだ。』
王都での“終わらせ方”は、辺境と違う。剣や氷だけでは決着はつかない。言葉と証拠と、場の空気――そして“誰が正しい顔をしているか”で勝敗が決まる。
だから私は、準備をしてきた。
帳簿の写し。倉庫の不足記録。ロイの自白を書面にしたもの。王都の側近ベルトランの名。文官ノアから届いた不正支出の流れ。大聖堂の寄付金の記録と、儀式で使われた道具の発注先。
どれも一つでは弱い。けれど繋げれば、一本の線になる。
そして私には、もう一つの武器がある。
触れれば、その人の“本音”が聞こえる。
ただし、これは使い方を間違えれば刃が自分に返る。心の声を“証拠”として突きつけても、誰も信じない。信じられないからだ。だから私は、心の声は「裏取り」にしか使わないと決めていた。
王都を落とすのは、王都のルールで。
◇◇◇
王城の門をくぐった瞬間、視線が刺さった。
「あれが……辺境伯夫人?」
「地味だという噂でしたのに……」
「隣の方が氷の公爵? 本当に動いていらっしゃるのね……」
囁きが流れ、笑いが混じる。けれど私は以前の私ではない。背筋を伸ばし、必要な礼をし、必要なだけ微笑む。
サイラス様はただ横に立っているだけなのに、周囲が無意識に一歩引く。氷の圧が、宮廷の甘ったるさを薄く削っていく。
『触るな。近づくな。視線を向けるな。……彼女が見られてる。腹が立つ。』
(落ち着いてください。今夜は“見せ場”を作る日です)
私たちはまず、国王陛下への拝謁を求めた。正式な手続きを踏むためだ。無理に突撃すれば、ただの挑発で終わる。
だが陛下に会う前に、迎えのように現れた人物がいる。
文官ノアだった。
「……リリアナ様」
彼は人目を気にしながらも、深く頭を下げた。痩せた。目の下の影が濃い。王都がどれほど混乱しているか、顔が物語っている。
「ご無事で……本当に、よかった」
その言葉は震えていた。
「ノア。手紙、ありがとう。助かったわ」
私はそっと彼の手に触れる。すると心の声が、壊れそうな音で聞こえた。
『戻ってきてしまった。引きずられた。違う、彼女は自分で来た。でも危ない。殺されるかもしれない。俺が守れるわけじゃない。せめて……せめて証拠を渡す。』
ノアは私の手元へ、小さな封筒を滑らせた。
「寄付金の流れの写しです。大聖堂から王太子府へ、さらに“名義の違う口座”へ移っています」
「名義は?」
「ベルトラン卿に近い者の名です。けれど決定打には……」
「十分よ」
私は頷いた。決定打は、今夜作る。
ノアはサイラス様の方へ目を向け、息を飲んだ。氷の公爵が自分の目の前にいる現実に、まだ慣れないのだろう。
サイラス様は淡々と一言だけ言った。
「協力に感謝する」
その声だけで、ノアの肩がわずかに下がった。
『感謝された。氷の公爵に。生きててよかった……いや今はそんな場合じゃない。』
「今夜、夜会が開かれます」
ノアが低い声で言った。「殿下が“聖女の奇跡”を披露する名目で。貴族も神官も集めます」
「舞台が整ったわね」
私が言うと、ノアは唇を噛んだ。
「……リリアナ様。危険です。殿下は今、正気ではありません。あなたを“取り戻した”と示すために、あらゆる恥をかかせるつもりです」
私は微笑んだ。
「恥をかくのは、どちらでしょうね」
◇◇◇
夜会の大広間は、以前と同じように眩しかった。
燭台が幾重にも光を落とし、絹と宝石が揺れる。演奏が始まり、笑い声が弾む。けれど私は知っている。ここは社交の場であると同時に、処刑場でもあるのだ。血は流れない。ただ、評判と立場が斬られる。
入場した瞬間、空気が一斉にこちらへ傾いた。
「……来たな」
聞こえた声の主は、王太子アレクセイ殿下だった。以前より顔色が悪い。目の焦りが隠せていない。隣には聖女ミナ。甘い笑みを貼りつけているが、頬の引きつりが見える。
そして少し後ろに、ベルトラン卿がいた。整った顔に薄い笑い。視線が、蛇のように私を舐める。
殿下がわざとらしく声を張り上げる。
「リリアナ! 戻ってきたか。ようやく自分の役目を思い出したようだな」
会場にくすくすと笑いが広がる。私は礼をした。
「ご無沙汰しております、殿下。お招きにあずかり、参上いたしました」
丁寧に、淡々と。昔と同じ私を演じる。殿下はそれを“従順”と勘違いする。
「ふん。ならば今夜、皆の前で示せ。お前が“地味でつまらない女”であり、聖女ミナがどれほど素晴らしいかを!」
ミナが胸に手を当て、可憐に首を傾げる。
「リリアナ様ぁ、私、仲良くしたいですぅ。前みたいに、いろいろ教えてくださいねぇ」
その声は甘く、残酷だ。
私は一歩だけ前に出た。
「ええ。教えられることがあるなら、喜んで」
サイラス様の心の声が、背後で唸る。
『殴りたい。今すぐ殴りたい。笑顔で殴りたい。だめだ。彼女の舞台だ。俺は氷で舞台を守る。』
私はサイラス様の袖に触れないようにした。触れれば聞こえる声が大きすぎて、集中が乱れる。今は、必要な時だけ。
殿下が手を叩き、楽団が音を強めた。
「さあ、始めよう。聖女の奇跡の披露だ! ミナ、皆に祝福を!」
ミナが壇上へ上がる。拍手が起きる。期待と不安が混じった拍手だ。前回の失敗の噂は、すでに広がっている。
ミナが祈りの言葉を唱える。長い袖が揺れ、照明が彼女の頬を綺麗に見せる。
「神よぉ……光をぉ……」
静寂。
何も起きない。
ざわめきが走る。ミナの瞳が泳ぎ、笑みが僅かに歪んだ。殿下が顔を引きつらせる。
(来た)
私は、ミナのすぐ近くまで歩いた。壇上の端で、彼女の指先にそっと触れる。触れた瞬間、心の声が耳を刺すほどに聞こえた。
『やばい、やばい、やばい。光らない。道具が違う? いや私の力なんて最初から——。ここで泣けば守ってもらえる。殿下はまだ使える。リリアナのせいにして——』
私は微笑んだ。
「ミナ様。祈りに“補助具”が必要だと、以前おっしゃっていましたよね」
ミナが一瞬だけ硬直する。
「え? えぇ……そうでしたっけぇ」
「ええ。聖堂に寄付された“祝福の宝珠”。あれがないと光が降りない、と」
ざわめきが大きくなる。貴族たちが顔を見合わせる。神官の一人が眉をひそめた。そんな話は聞いていない、という顔だ。
殿下が声を荒げる。
「リリアナ! 余計な口を挟むな!」
「余計ではありません。殿下が望む“確実な奇跡”のためです」
私は壇下へ視線を落とし、ベルトラン卿を見た。
「ベルトラン卿。宝珠の管理は、あなたの管轄でしたね。今、どこに?」
ベルトラン卿の笑みが薄くなる。
「……突然何を。宝珠は、聖堂に――」
私は一歩、彼に近づいた。袖口に指先が触れる。
『こいつ……嗅ぎつけたか。宝珠は換金した。寄付金も流した。ばれたら終わる。王太子に被せる? いや王太子は盾としては強いが、今は不安定だ。——黙らせろ。』
(やはり)
私は彼から離れ、はっきり言った。
「では、今この場で確認しましょう。神官長をお呼びください。“宝珠”が本当に聖堂にあるのか、寄付金がどこへ流れたのか」
会場の空気が凍りつく。音楽が止まり、誰かの扇が落ちる音が響いた。
殿下が真っ赤になって叫ぶ。
「リリアナァ! 貴様、俺を侮辱するのか!」
「侮辱ではありません」
私は静かに返す。「説明を求めているだけです。国と民のために」
ミナが涙目になり、殿下に縋る。
「アレクセイ様ぁ……リリアナ様がいじわるでぇ……」
けれど、その涙の心の声は違う。
『泣け。泣けば勝てる。女は泣けば守られる。』
私は息を吐いた。今夜、泣くべきは彼女ではない。
サイラス様が一歩前へ出た。無表情のまま、低く言う。
「説明できないのか」
その声だけで、殿下の勢いがわずかに鈍る。ベルトラン卿の頬が引きつる。
会場の端で、ノアが神官を呼びに走るのが見えた。私が手配していた。王都の空気は変わりやすい。だから味方は、最初から動かしておく。
殿下は周囲の視線に焦り、咄嗟に“正しさ”の仮面を被る。
「よかろう! ならばこの場で、リリアナを裁いてやる! 辺境伯に唆され、王都の命に背いた不忠の女だと示してやる!」
裁く、と言った瞬間、貴族たちの目が光った。処刑場の観客の目だ。
私は微笑んだ。ちょうどいい。
「ええ。裁きましょう」
私は殿下をまっすぐ見た。
「ただし——裁かれるのは、本当に私ですか?」
その言葉が落ちた瞬間、大広間の扉が開いた。
息を切らした神官長と、数名の神官たちが入ってくる。ざわめきが波のように広がった。神官長の顔色は青い。手には、帳簿の束が握られている。
(来た)
私は一歩、壇上の中央へ進み出る。全員の視線が私に集まる。
サイラス様の心の声が、背後で荒々しく鳴る。
『ここだ。彼女の舞台。守る。絶対に守る。』
私は神官長に向かって、最後の問いを口にした。
「神官長。大聖堂の寄付金と、祝福の宝珠の所在——今ここで、はっきりお答えください」
神官長の喉が鳴った。
次の瞬間、会場の誰もが“答え”を待ち、息を止めた。




