第6話「俺の妻に、指一本触れさせるか」
雪は止まなかった。
ヴァレンタイン領の冬は、空が白く染まっている時間の方が長い。屋敷の外壁には氷柱が垂れ、窓枠には霜が花のように咲く。けれど、私の胸の内は不思議と静かだった。
王都からの命令書。
サイラス様の過去。
そして、初めてのキス。
幸せが確かになった分だけ、奪われる恐怖が輪郭を持ってしまったのに――隣にいる人の熱が、私を落ち着かせる。
その朝、執務室で炊き出しの回数と塩の配分を確認していた時、扉が勢いよく叩かれた。
「辺境伯様! 急報です! 王都から、近衛騎士団が!」
エルナの声が震えている。私はペンを止め、サイラス様を見た。彼は無表情のまま立ち上がった。いつも通りの動きなのに、空気が一段冷える。
『来た。やっぱり来た。奪いに来た。——殺す? いや殺さない。殺したら彼女が怖がる。法で潰す。力で止める。俺の妻だ。俺の。』
「門へ」
短い命令。グラントが即座に動き、衛兵たちが屋敷の外へ走っていく。
私は椅子から立ち上がりかけて、サイラス様の袖を掴んだ。
「私も行きます」
「……危険だ」
「危険だからです。私の問題でもあります」
彼の瞳がわずかに揺れ、そして頷いた。
「……離れるな」
『離すわけがない。視界から消えたら心臓が止まる。』
私たちは並んで廊下を歩く。足音が絨毯を踏み、暖炉の火が遠ざかる。屋敷の正面へ近づくほど、外の冷気が混じってくる。
門前はすでに騒然としていた。
雪を蹴立てる馬。
黒い外套に金の刺繍を施した騎士たち。
王家の紋章が入った旗が、風に鳴っている。
先頭に立つ男が、兜を外して前へ出た。端正な顔。自信に満ちた目。王都の空気をそのまままとっている。
「近衛騎士団、第三隊隊長ラグナル。王太子殿下の命により参上した」
声がよく通る。慇懃だが、礼はない。
「伯爵令嬢リリアナ・ベルンシュタインを、王都へお迎えする。直ちに引き渡せ」
迎えする、という言葉が嘘くさい。これは迎えではなく連行だ。私は一歩前に出ようとしたが、サイラス様の腕がさりげなく私の前に出た。盾のように。
「我が妻だ」
サイラス様の声は淡々としている。それだけで、周囲の雪が音を立てて静まった気がした。
ラグナルは口角を上げる。
「承知している。だからこそだ。王太子殿下は“国のために必要な人材”を戻せと仰せだ。辺境伯家の都合より、王都の命令が優先される」
「王都の命令が、法に勝つことはない」
サイラス様が一歩踏み出す。足元の雪がきしむ。ラグナルは笑みを崩さないが、視線が一瞬だけ揺れた。
私はふと、確かめたくなった。
(この人たち、本当は何を考えているの?)
私はサイラス様の背後からそっと前へ出て、ラグナルへ近づいた。サイラス様が止めようとする気配を感じたが、私は首を振る。触れないと、聞こえない。
ラグナルの外套の袖に、指先がわずかに触れた。
『厄介だ。辺境伯が来るとは聞いていたが、ここまで冷える圧とは。だが殿下の命だ。逆らえば俺の出世が終わる。リリアナを連れ戻せ。多少乱暴でも構わない——そう、ベルトラン卿から言われた。』
胸が冷える。
やはり、王太子の側近が絡んでいる。目的は「国のため」ではない。権力と金と、責任の押しつけだ。
私は静かに言った。
「隊長ラグナル。あなたは“お迎え”と言いました。でも、今あなたの心は、乱暴でも構わないと考えていますね」
ラグナルの笑みが凍りついた。
「……何を」
「私はあなた方に付いて行きません。ここが私の家です。そして私は、辺境伯夫人です」
サイラス様の心の声が、爆発寸前に膨らむ。
『言った。言ってくれた。俺の妻。俺の誇り。——近づくな王都の犬ども。』
ラグナルは一瞬だけ私を見据え、次にサイラス様へ視線を戻した。
「拒否するというなら、やむを得ない。王太子殿下の勅命だ。実力行使も許されている」
言葉は丁寧だが、目が冷たい。
背後の近衛が半歩前へ出る。馬の鼻息が荒くなる。衛兵たちが槍を構える。雪が舞い、空気が張り詰めた。
その瞬間。
サイラス様が、私の前に立ったまま、ただ一言だけ言った。
「一歩でも踏み込めば——」
低い声。凍るように静かな警告。直後、地面の雪が音もなく薄氷に変わった。近衛の馬が前脚を滑らせ、嘶く。騎士たちがバランスを崩し、慌てて手綱を引いた。
ラグナルの顔色が変わる。笑みが消えた。
「魔法……!」
「噂だと思っていたか」
サイラス様は表情を動かさない。けれど心の声は、怒りで燃えていた。
『俺の妻に指一本触れさせるか。触れたら——氷で骨まで封じる。いや殺すな。殺すな。法で潰す。だが近づくな。近づくな。』
私はその背に、そっと手を添えた。冷たいはずの外套越しに、彼の熱が伝わる気がする。
ラグナルは唇を噛んだ。怯えではない。計算している。ここで強行して勝てるかどうか。勝てないと判断すれば、別の手を打つだろう。
「辺境伯。これは、殿下の命令だ。拒否は反逆と見なされる可能性がある」
「王太子の命令は、王命ではない」
サイラス様の声は揺れない。「そもそも我が妻を召喚する正当な手続きがない。国王陛下の署名も、公式の使節も、礼もない。ただの恫喝だ」
その言葉に、周囲の空気が変わった。ヴァレンタイン領の兵は、静かに誇りを取り戻すように姿勢を正す。正当性は、武器になる。
ラグナルは歯を食いしばり、最後の切り札のように言った。
「……ならば、妻君の意思を聞こう。リリアナ・ベルンシュタイン。お前は国のために働く義務がある。王都へ来い」
お前、という呼び方が耳に刺さる。私は一歩前へ出た。
「いいえ」
短く言う。
「私は、誰かに命令されて働く道具ではありません。私はここで、領地のために働きます。私が選んだ場所で、私が選んだ人と生きます」
自分の声が、意外なほどはっきり響いた。
ラグナルの瞳に苛立ちが灯る。その瞬間、私には分かった。彼は私を説得できない。だから次は、もっと乱暴な方法が来る。
(このままでは、終わらない)
サイラス様が、氷のように冷たい声で告げた。
「帰れ。次に来る時は、正式な使節を寄越せ。……それ以外は侵入と見なす」
ラグナルは周囲を見回し、氷に覆われた地面を見て、唇を引き結んだ。
「……撤収する」
近衛が悔しそうに馬を回す。旗が揺れ、雪が再び舞った。彼らの背が遠ざかっていくのを見ながら、私の胸はちっとも軽くならなかった。
追い払えたのに、勝った気がしない。
次はもっと大きな力で来る。法や手続きではなく、策略と世論と、もっと厄介なものを連れて。
屋敷へ戻る途中、サイラス様は一言も発さなかった。無表情のまま、歩幅だけがわずかに速い。私は彼の袖を掴み、指先で確かめるように触れた。
『怖かった。連れて行かれると思った。心臓が凍るかと思った。——でも彼女は言った。選ぶって。俺を。俺の領地を。嬉しい。嬉しいのに、許せない。王都が。』
執務室へ戻ると、サイラス様は扉を閉め、ようやくこちらを向いた。
「……すまない」
「なぜ謝るのですか」
「巻き込んだ」
『巻き込まれたのは俺の方がいい。彼女を危険に晒したくない。』
私は首を振った。
「巻き込まれたのではありません。私は、選びました。ここを。あなたを」
言い切った瞬間、サイラス様の心の声が騒音みたいに跳ね上がった。
『今の言葉、宝物。何回でも聞きたい。いや今すぐ抱きしめたい。でも抱きしめたら重い? 怖い? いや彼女は強い。強いけど——』
私は机の上の命令書に目を落とし、静かに続けた。
「ただ……このままでは、何度でも来ます。領地が落ち着いてきた今、また混乱させられる」
サイラス様は黙っていた。否定できない。
私は深く息を吸い、提案する。
「王都へ行きましょう」
サイラス様の目がわずかに見開かれる。
「……こちらから?」
「ええ。逃げるためではなく、終わらせるために。夜会でも裁判でも、彼らが“王都の正しさ”を掲げる場所で、私たちの正しさを示します」
心の声が、低く唸った。
『危険だ。危険すぎる。だが……終わらせるならそれしかない。彼女の意思だ。守る。俺が守る。』
サイラス様はゆっくり頷いた。
「……分かった。準備する」
その言葉と同時に、窓の外で風が鳴った。
雪はまだ降り続いている。
けれど私は知っていた。
次に向かうのは、白い辺境ではない。
金と嘘で飾られた王都だ。
そしてそこで、私たちは“奪われる側”ではなく、“決着をつける側”になる。




