第5話「氷の公爵様が、ずっと好きだった理由」
赤い封蝋は、指先に触れるだけで嫌な熱を持っていた。
「……王都から、戻れと」
私は命令書の文面を読み上げながら、声が揺れないように努めた。けれど胃の奥が冷える。言葉は丁寧でも、内容は乱暴で、礼も猶予もない。ただの“所有物の回収”だ。
隣でサイラス様が、無表情のまま紙を受け取る。
その手袋越しに伝わる冷たさより、心の声の温度の方がよほど熱かった。
『来た。奪いに来た。許さない。返さない。……でも彼女が望むなら? いや望むはずがない。望むはずがないのに、もし望んだら俺は——』
私はそっと、サイラス様の袖を掴んだ。
「サイラス様。私は……戻りません」
はっきり言うと、彼の肩がほんのわずかに落ちる。安堵が混ざったため息。
『よかった。よかった……でも危ない。命令書で終わるはずがない。次は人が来る。力ずくで。』
その時、もう一通の手紙が差し出された。王城の文官、ノアからのものだ。封を切ると、震える文字でこうあった。
「王都は崩れています。命令書が出ました。どうか戻らないでください。次は、近衛が来るかもしれません」
私は紙を握りしめた。やはり。
「……近衛が」
呟くと、サイラス様の心の声が鋭くなる。
『触れさせない。指一本。いや視線一つでも許さない。』
口では、彼は静かに言った。
「備えよう」
それだけ。まるで天気の話みたいに淡々と。なのに、その裏側は嵐だった。
私は頷き、机に向かった。防寒具、食糧、倉庫の鍵、屋敷の警備配置。やるべきことを書き出す。けれど手が、わずかに震えた。
(怖いのね、私)
王都に戻ることが怖いのではない。あの場所でまた、自分を“便利な道具”に戻されることが怖い。せっかく溶け始めた心の氷が、また固まるのが怖い。
そんな私の指先に、サイラス様の手が重なった。
「……無理をするな」
いつもと同じ言葉。けれど今日は、少しだけ低くて、優しかった。
『怖がってる。彼女が怖がってる。俺のせいじゃない。王都のせいだ。でも俺は——俺は、彼女が怖いと言える場所になりたい。』
私は息を吸った。今なら、聞ける気がした。ずっと気になっていたこと。
「サイラス様」
「……なんだ」
「どうして……私を?」
サイラス様の目が、わずかに揺れた。氷が軋むみたいに。
「……なぜ、それを聞く」
『来た。核心。言え。言え俺。……無理だ。恥ずかしい。死ぬ。いや死なない。言う。言うしかない。』
私は自分の力のせいで、答えを半分知っている。彼が私を大切にしてくれていることも、嘘じゃないことも。でも“理由”だけは、まだ聞いていない。聞きたいと思ってしまったのは、私がもう他人ではなくなったからだ。
サイラス様は一度、窓の外の雪を見た。白い世界を見つめる横顔は、彫刻のように冷たい。でも心の声は、遠い過去へ潜っていく気配がした。
「……昔、王都にいた頃の話だ」
彼は静かに言った。
◇◇◇
それは、十年前。
まだ私が伯爵家の娘として、王城に出入りすることを許され始めた頃。王妃教育の前段として、礼儀作法や書類の整理を学びに行く日があった。
あの日、私は迷子になった。
広い王城の廊下で、案内役の侍女とはぐれ、人気のない回廊に迷い込んだ。窓から差す冬の光が冷たく、足音だけが響く。
そこで、私は見つけたのだ。
小さな影。ひとりで膝を抱えて座る少年を。
銀色の髪。青い瞳。今よりずっと幼いのに、すでに整いすぎた顔立ち。近づくほど、周囲の空気が冷える。息が白くなって、私は思わず立ち止まった。
「……寒いの?」
私が声をかけると、少年は顔を上げた。氷みたいな目が、こちらを刺す。
「来るな」
短い言葉。拒絶。
でも私は、妙に引かなかった。怖いと思うより先に、心配が勝ったのだ。彼の手が、真っ赤になっていたから。
「手が……凍えてる」
「平気だ」
「平気じゃないわ」
私は躊躇って、でも思い切って、自分の手袋を片方外した。王都の冬は寒い。それでも、彼の手よりは温かいはずだ。
「これ、貸すわ。片方だけでごめんなさい。でも、手が冷たいままだと痛いでしょう」
少年は驚いたように目を瞬いた。私が彼に近づくたび、冷気が強くなる。けれど私は手袋を差し出したまま引かなかった。
しばらくして、彼はそっと受け取った。
その指先が、ほんの一瞬だけ私の肌に触れた。氷みたいに冷たかった。でも、嫌じゃなかった。
「……なんで」
少年が小さく言った。
「なんで、俺に」
私は首を傾げた。
「困ってる人を放っておけないだけよ。……それに」
私は彼の赤い手を見て、思ったことをそのまま口にした。
「手が冷たいって、きっと誰かを守るためでしょう? 冷たい場所にいるから、守れるものがある。そういう人、嫌いじゃないわ」
少年は、目を見開いた。
氷の瞳に、初めて熱が灯った。
その後、侍女が慌てて私を迎えに来て、私は叱られ、少年の名前も聞けないまま別れた。
けれど——その出来事は、相手の心に深く刺さってしまったらしい。
◇◇◇
「……あれが、お前だった」
サイラス様の言葉で、私は息を呑んだ。
「私、そんな……小さなことを」
「小さくない」
彼の声は淡々としているのに、心の声は震えていた。
『あの時、俺は人に触れられるのが怖かった。冷たいって嫌われるのが怖かった。なのに彼女は、嫌がらなかった。手袋をくれた。言葉をくれた。俺を“怪物”じゃなく人として見た。』
私は胸が熱くなって、視線を落とした。
思い出す。あの日、なぜ私は引かなかったのか。今なら分かる。私は元々、そういう性格なのだ。誰かが困っていたら、放っておけない。どれだけ地味でも、目立たなくても。
そしてサイラス様は、その“地味な優しさ”に救われた。
「だから……ずっと」
私が呟くと、サイラス様は少しだけ顎を引いた。
「……ずっと」
『好きだった。探してた。名前を聞けなくて悔しかった。だけど婚約の噂を聞いた時、確信した。あの子だって。遅すぎたと思った。だから——嫁入りの話が来た時、神に祈った。』
私の頬が熱い。扇を出すのも忘れるほど。
「では、私が辺境に来たことを……喜んで?」
「……ああ」
たった一言。でも心の声は、叫びそうになっている。
『喜んだ。狂喜した。だけど顔が動かない。俺の顔は役に立たない。』
私は笑ってしまいそうになるのを堪えた。だめだ、今はふざけてはいけない。大切な話をしている。
「サイラス様」
私は彼の手袋に触れ、ゆっくり言った。
「私も……あなたが怖くなくなりました」
サイラス様の瞳が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「……最初から、怖がらせるつもりはなかった」
『怖がられたくない。嫌われたくない。でも近づきたい。手を繋ぎたい。抱きしめたい。』
私の胸の奥で、何かがほどけた。
(私も、近づきたい)
心の声を聞いているからではない。聞こえなくても分かる。彼が私を大切にしてくれること。私がここで、息をしやすくなったこと。
私は一歩前に出た。サイラス様の胸元に、額が触れそうな距離。
「……サイラス様」
「……なんだ」
その瞬間、心の声がとんでもない音量で鳴り響いた。
『近い! 近い! 息が! 香りが! だめだ心臓が! でも逃げるな! ここで逃げたら一生後悔する! 抱きしめていい? いい? いいって言って!』
私は思わず、彼の上着の裾を掴んだ。
そして、顔を上げて言う。
「……キス、してもいいですか」
サイラス様が固まった。氷像みたいに動かない。なのに心の声は爆発している。
『無理!!!! いや無理じゃない!!!! する!!!! するけどどうやって!!!! 唇ってどこ!? ここだ! 落ち着け! 優しく! 優しく! 彼女が望んだ! 望んだ!』
「……だめだ」
口ではそう言った。
私は一瞬、胸が冷えた。
けれど次の言葉が続く。
「……俺が、先にしたい」
声が低くて、少しだけ震えていた。
彼がそっと私の顎に触れる。手袋越しの冷たさが、逆に優しい。距離が詰まって、息が混じる。
そして、唇が重なった。
冷たいはずなのに、熱い。
短くて、不器用で、それでも確かに大切にされていると分かるキスだった。
心の声は、もはや叫びではなく、天井を突き破っていた。
『した!!!! した!!!! 俺、今、妻と!!!! やばい!!!! 好き!!!! 好き好き好き!!!! もう一回!? いや急ぐな! 嫌われる! でももう一回! ——無理! 我慢できない!』
唇が離れた瞬間、サイラス様は無表情のまま、耳まで赤くなっていた。こんなに分かりやすい変化があるのだと、私は可笑しくなる。
「……うるさいです」
私は小さく言った。
「心の中が」
サイラス様が目を見開いた。
そして、さらに赤くなる。
「……聞こえているのか」
『え? え? 全部? 全部? 死ぬ。いや死なない。死にたい。恥ずかしい。』
私は頷きかけて、でもまだ言わなかった。これは最終回まで取っておくべき秘密だ。今ここで打ち明けたら、彼は本当に氷像になりかねない。
だから私は、曖昧に笑って誤魔化した。
「……今は、秘密です」
サイラス様は納得していない顔のまま、私の手を強く握った。
『秘密でもいい。彼女がここにいるなら。守る。今度こそ、奪わせない。』
窓の外で風が鳴る。
命令書は机の上で沈黙している。けれど、これで終わらないことは分かっていた。
王都は、言葉だけでは引かない。
きっと次は、人を寄こしてくる。
私はサイラス様の手を握り返し、心の中で決めた。
(もう、戻らない。ここが私の居場所だから)
その夜、屋敷の警備が増やされた。
氷の公爵の城は静かに、嵐を迎え撃つ準備を始めていた。




