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「地味でつまらない女」と婚約破棄されたので、辺境の『氷の公爵様』に嫁ぎます。……あの、心の声で『愛してる』って叫んでるの、全部聞こえてますけど!?  作者: 綾瀬蒼
第1章「婚約破棄と、氷の公爵」

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第4話「王都は、リリアナがいないと回らない」

リリアナが王都を去ってから、まだ一か月も経っていない。


それなのに王城の空気は、腐りかけた果実のように甘く、重く、そして不快に濁っていた。廊下を行き交う文官たちの足取りは速い。誰もが書類の束を抱え、視線を合わせない。誰かに捕まれば、仕事が増える。それが今の王城だった。


「……聞いてないぞ。税の報告が三つも抜けてるだと?」

「兵站の見積もりが白紙? そんな馬鹿な」

「王太子府の支出が、また増えている……」


小声のざわめきが途切れない。


内政の骨組みは、目立たない場所で支えられていた。そして、その支えが消えた。最初は誰も気づかない。けれど、崩れ始めると止まらない。


文官ノアは、額の汗を拭いながら執務室へ駆け込んだ。机の上には未処理の書類が山のように積まれ、どれも「至急」の印が乱雑に押されている。


「陛下への上申書が間に合いません……このままでは、来月の徴税が」

同僚が呻くように言う。


ノアは唇を噛んだ。


(あの方がいた時は、こんなことにはならなかった)


リリアナは、何も言わずに片づけていた。誰かがミスをすれば、こっそり直し、誰かが責任を放り投げれば、黙って拾った。文官たちは彼女を便利だと思った。王太子は、当たり前だと笑った。


そして今、誰も拾わない。


扉が乱暴に開いた。


「ノア! 何をしている! 聖女の儀式の準備が遅いぞ!」

甲高い声。王太子アレクセイだ。頬は苛立ちで赤く、髪は乱れ、衣装の襟元には香水の甘ったるい匂いが染みついている。


「殿下、儀式の準備には資材と人員の手配が必要で――」

「言い訳はいい! 俺は“奇跡”を見せろと言っている! 民衆の心を掴めば、多少の数字などどうでもいい!」


どうでもいい、という言葉に、執務室の空気が凍った。


数字は、国の血だ。兵も食糧も道も、すべて数字で繋がっている。どうでもいいと言った瞬間、その人間が国を預かる器ではないと、はっきり分かる。


だが王太子は気づかない。


「ミナはどこだ! 聖女は!」

「こちらですぅ、アレクセイ様ぁ」


甘い声と共に現れたのは、聖女ミナだった。薄い衣が揺れ、頬は艶やかに染まり、瞳だけがきらきらと輝いている。まるで舞台の上の役者だ。


「儀式は、祈れば光が降りますぅ。きっと……」

「きっとでは困る! 確実にやれ! お前が聖女ならできるだろう!」


殿下が肩を掴むと、ミナは小さく悲鳴を上げた。


「ひどぉい……でも、リリアナ様がいればぁ……道具の準備とか、段取りとか、全部してくださったのにぃ」

その一言で、部屋の温度が変わった。


ノアは思わず拳を握る。


(段取り“とか”ではない。あの方がしていたのは、国そのものの段取りだ)


だが殿下は、都合の良い部分だけを聞き取った。


「そうだ! リリアナだ! あいつを呼び戻せばいい!」

「えぇ、そうですよぉ。だって、リリアナ様は真面目でぇ、命令すればちゃんとやりますからぁ」


その瞬間、ノアは胃が捩れるのを感じた。


命令すればちゃんとやる。

その言葉が、どれほど人を壊すか。彼は王城の裏側で見てきた。彼女が笑わなくなっていくのを。目の下に影が濃くなっていくのを。


殿下は机を叩いた。


「書け! 命令書だ! “直ちに王都へ戻れ”と! 聖女の儀式を補佐し、王太子府の業務を支えろと!」


文官が戸惑い、視線を泳がせる。だが逆らえる者はいない。逆らえば失脚。あるいは更なる雑務の押しつけ。


ノアは一歩前へ出た。


「殿下。リリアナ様は、辺境伯サイラス・ヴァレンタイン公爵の正妻です。召喚には、陛下の正式な許可と、辺境伯家への礼を――」

「うるさい! 俺は王太子だぞ!」


殿下が叫ぶ。声が壁に反響し、書類が震えた。


「辺境伯だか何だか知らんが、所詮は地方の貴族だ! 王都の命令に従わせろ! リリアナは元々俺の婚約者だったんだ! 俺が呼べば戻ってくる!」


ノアは言葉を失った。元々、という言い方が吐き気を誘う。人を物のように扱う、その傲慢さが。


同じ頃、大聖堂では「奇跡の儀式」が予行演習として行われていた。


神官たちが祈りの言葉を唱え、ミナが手を掲げる。民衆が見守り、貴族たちが期待の目を向ける。アレクセイは胸を張った。


「さあ、見よ! 我が国に祝福が――」

ミナは目を閉じ、声を張る。


「神よぉ、光をぉ……!」


沈黙。


風の音。蝋燭の揺らぎ。誰かの咳。何も起きない。


ミナの頬が引きつった。彼女は必死に指先を揺らし、身体を大げさに震わせた。


「……あ、あれぇ? 今日はぁ、空気がぁ……澄みすぎてぇ……」

「ミナ!」

殿下が低く唸る。


「も、もう一度ですぅ! 今度こそぉ!」


二度目も、三度目も、同じだった。


ざわめきが、笑いに変わり、疑念に変わる。神官長の額に冷や汗が滲む。貴族たちの顔が硬くなる。


そして何より、民衆の目が冷えた。


奇跡が起きないのなら――聖女とは何なのか。

聖女が偽物なら――王太子は何を信じて国を揺らしているのか。


王城へ戻った殿下は、怒りで顔色を変えていた。


「リリアナがいないからだ!」

理屈になっていない。それでも殿下にとっては真実だった。自分の失敗ではない。誰かがいないせいだ。


ミナは涙目で殿下に縋りつく。


「アレクセイ様ぁ……リリアナ様の段取りがぁ……」

「そうだ! あいつが戻れば――」


ノアは、その会話を聞きながら、絶望に似た感情を噛みしめた。


(あの方を、また壊す気か)


机の上に置かれた命令書の文面を、彼は見た。簡潔で乱暴な言葉。返答の猶予も、礼もない。命令と恫喝だけ。


そこに、王家の封蝋が押される。


「これを、北の辺境へ届けろ!」

殿下の指示に、伝令がひざまずく。馬の手配が叫ばれ、雪の準備が進む。王都の勝手な都合が、白い世界へ突っ込んでいく。


その夜、ノアは自室で震える手で別の手紙を書いた。


宛先は、辺境伯家。

リリアナへ――直接ではなく、せめて届く可能性のある場所へ。


「王都は崩れています。命令書が出ました。どうか、戻らないでください。あなたは、あなたの人生を生きてください」


書き終えた瞬間、涙が一滴落ちた。自分が何をしているのか分からない。救える力などないのに、せめて知らせたかった。


◇◇◇


数日後。


雪原を切り裂くように、一通の命令書が北へ運ばれていく。


その封蝋の赤は、血の色に似ていた。


辺境伯家の屋敷では、ちょうどリリアナが執務室で帳簿を整えていた。炊き出しの回数、倉庫の在庫、冬の衣料。数字は整い始め、屋敷の中に小さな余裕が生まれていた。


そこへ、衛兵が扉を叩く。


「奥様。王都から、急使です」

「……王都から?」


嫌な予感が、背筋を冷やす。


リリアナが封を切る前に、サイラスが近づき、手を添えた。無表情のまま。けれど彼の心は、すでに荒れているのが伝わってくる。


『来たか。奪いに来たか。許さない。』


赤い封蝋が、二人の指先の間で鈍く光った。

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