第4話「王都は、リリアナがいないと回らない」
リリアナが王都を去ってから、まだ一か月も経っていない。
それなのに王城の空気は、腐りかけた果実のように甘く、重く、そして不快に濁っていた。廊下を行き交う文官たちの足取りは速い。誰もが書類の束を抱え、視線を合わせない。誰かに捕まれば、仕事が増える。それが今の王城だった。
「……聞いてないぞ。税の報告が三つも抜けてるだと?」
「兵站の見積もりが白紙? そんな馬鹿な」
「王太子府の支出が、また増えている……」
小声のざわめきが途切れない。
内政の骨組みは、目立たない場所で支えられていた。そして、その支えが消えた。最初は誰も気づかない。けれど、崩れ始めると止まらない。
文官ノアは、額の汗を拭いながら執務室へ駆け込んだ。机の上には未処理の書類が山のように積まれ、どれも「至急」の印が乱雑に押されている。
「陛下への上申書が間に合いません……このままでは、来月の徴税が」
同僚が呻くように言う。
ノアは唇を噛んだ。
(あの方がいた時は、こんなことにはならなかった)
リリアナは、何も言わずに片づけていた。誰かがミスをすれば、こっそり直し、誰かが責任を放り投げれば、黙って拾った。文官たちは彼女を便利だと思った。王太子は、当たり前だと笑った。
そして今、誰も拾わない。
扉が乱暴に開いた。
「ノア! 何をしている! 聖女の儀式の準備が遅いぞ!」
甲高い声。王太子アレクセイだ。頬は苛立ちで赤く、髪は乱れ、衣装の襟元には香水の甘ったるい匂いが染みついている。
「殿下、儀式の準備には資材と人員の手配が必要で――」
「言い訳はいい! 俺は“奇跡”を見せろと言っている! 民衆の心を掴めば、多少の数字などどうでもいい!」
どうでもいい、という言葉に、執務室の空気が凍った。
数字は、国の血だ。兵も食糧も道も、すべて数字で繋がっている。どうでもいいと言った瞬間、その人間が国を預かる器ではないと、はっきり分かる。
だが王太子は気づかない。
「ミナはどこだ! 聖女は!」
「こちらですぅ、アレクセイ様ぁ」
甘い声と共に現れたのは、聖女ミナだった。薄い衣が揺れ、頬は艶やかに染まり、瞳だけがきらきらと輝いている。まるで舞台の上の役者だ。
「儀式は、祈れば光が降りますぅ。きっと……」
「きっとでは困る! 確実にやれ! お前が聖女ならできるだろう!」
殿下が肩を掴むと、ミナは小さく悲鳴を上げた。
「ひどぉい……でも、リリアナ様がいればぁ……道具の準備とか、段取りとか、全部してくださったのにぃ」
その一言で、部屋の温度が変わった。
ノアは思わず拳を握る。
(段取り“とか”ではない。あの方がしていたのは、国そのものの段取りだ)
だが殿下は、都合の良い部分だけを聞き取った。
「そうだ! リリアナだ! あいつを呼び戻せばいい!」
「えぇ、そうですよぉ。だって、リリアナ様は真面目でぇ、命令すればちゃんとやりますからぁ」
その瞬間、ノアは胃が捩れるのを感じた。
命令すればちゃんとやる。
その言葉が、どれほど人を壊すか。彼は王城の裏側で見てきた。彼女が笑わなくなっていくのを。目の下に影が濃くなっていくのを。
殿下は机を叩いた。
「書け! 命令書だ! “直ちに王都へ戻れ”と! 聖女の儀式を補佐し、王太子府の業務を支えろと!」
文官が戸惑い、視線を泳がせる。だが逆らえる者はいない。逆らえば失脚。あるいは更なる雑務の押しつけ。
ノアは一歩前へ出た。
「殿下。リリアナ様は、辺境伯サイラス・ヴァレンタイン公爵の正妻です。召喚には、陛下の正式な許可と、辺境伯家への礼を――」
「うるさい! 俺は王太子だぞ!」
殿下が叫ぶ。声が壁に反響し、書類が震えた。
「辺境伯だか何だか知らんが、所詮は地方の貴族だ! 王都の命令に従わせろ! リリアナは元々俺の婚約者だったんだ! 俺が呼べば戻ってくる!」
ノアは言葉を失った。元々、という言い方が吐き気を誘う。人を物のように扱う、その傲慢さが。
同じ頃、大聖堂では「奇跡の儀式」が予行演習として行われていた。
神官たちが祈りの言葉を唱え、ミナが手を掲げる。民衆が見守り、貴族たちが期待の目を向ける。アレクセイは胸を張った。
「さあ、見よ! 我が国に祝福が――」
ミナは目を閉じ、声を張る。
「神よぉ、光をぉ……!」
沈黙。
風の音。蝋燭の揺らぎ。誰かの咳。何も起きない。
ミナの頬が引きつった。彼女は必死に指先を揺らし、身体を大げさに震わせた。
「……あ、あれぇ? 今日はぁ、空気がぁ……澄みすぎてぇ……」
「ミナ!」
殿下が低く唸る。
「も、もう一度ですぅ! 今度こそぉ!」
二度目も、三度目も、同じだった。
ざわめきが、笑いに変わり、疑念に変わる。神官長の額に冷や汗が滲む。貴族たちの顔が硬くなる。
そして何より、民衆の目が冷えた。
奇跡が起きないのなら――聖女とは何なのか。
聖女が偽物なら――王太子は何を信じて国を揺らしているのか。
王城へ戻った殿下は、怒りで顔色を変えていた。
「リリアナがいないからだ!」
理屈になっていない。それでも殿下にとっては真実だった。自分の失敗ではない。誰かがいないせいだ。
ミナは涙目で殿下に縋りつく。
「アレクセイ様ぁ……リリアナ様の段取りがぁ……」
「そうだ! あいつが戻れば――」
ノアは、その会話を聞きながら、絶望に似た感情を噛みしめた。
(あの方を、また壊す気か)
机の上に置かれた命令書の文面を、彼は見た。簡潔で乱暴な言葉。返答の猶予も、礼もない。命令と恫喝だけ。
そこに、王家の封蝋が押される。
「これを、北の辺境へ届けろ!」
殿下の指示に、伝令がひざまずく。馬の手配が叫ばれ、雪の準備が進む。王都の勝手な都合が、白い世界へ突っ込んでいく。
その夜、ノアは自室で震える手で別の手紙を書いた。
宛先は、辺境伯家。
リリアナへ――直接ではなく、せめて届く可能性のある場所へ。
「王都は崩れています。命令書が出ました。どうか、戻らないでください。あなたは、あなたの人生を生きてください」
書き終えた瞬間、涙が一滴落ちた。自分が何をしているのか分からない。救える力などないのに、せめて知らせたかった。
◇◇◇
数日後。
雪原を切り裂くように、一通の命令書が北へ運ばれていく。
その封蝋の赤は、血の色に似ていた。
辺境伯家の屋敷では、ちょうどリリアナが執務室で帳簿を整えていた。炊き出しの回数、倉庫の在庫、冬の衣料。数字は整い始め、屋敷の中に小さな余裕が生まれていた。
そこへ、衛兵が扉を叩く。
「奥様。王都から、急使です」
「……王都から?」
嫌な予感が、背筋を冷やす。
リリアナが封を切る前に、サイラスが近づき、手を添えた。無表情のまま。けれど彼の心は、すでに荒れているのが伝わってくる。
『来たか。奪いに来たか。許さない。』
赤い封蝋が、二人の指先の間で鈍く光った。




