第3話「真面目な女は、数字で愛される」
辺境の朝は早い。
窓の外はまだ薄暗く、雪は夜の間にまた厚く積もっていた。けれど屋敷の中は、使用人たちの足音と薪の爆ぜる音で静かに動き出している。王都のような華やかさはない。その代わり、ここには生きるための規則正しさがあった。
私は暖炉の前で手を温めながら、帳簿を開いた。
昨夜、サイラス様から預かった領地の収支帳簿。読み進めるほどに、胸の奥が冷えていく。
(これは……荒れている、というより“荒らされている”)
税収の記録が月ごとに飛び、物資の出庫が同じ日に二重計上され、兵糧の購入額だけが不自然に膨らんでいる。しかも、印のない支払いがいくつもある。杜撰では済まない。わざと分からなくしている。
「奥様、お茶をお持ちしました」
侍女エルナが湯気の立つティーカップを置く。彼女の手は少し荒れていた。辺境の仕事量が、王都の屋敷とは比べ物にならないのだろう。
「ありがとう、エルナ。……あなた、昨夜も遅くまで働いていたのでは?」
「いえ、慣れておりますから」
慣れ、という言葉に棘を感じる。私はそっと彼女の手に触れた。
『この方、優しい。奥様なのに、使用人の手を気にするなんて。王都の奥様方は、目も合わせなかったのに……』
胸がきゅっとなる。やはり、ここは厳しい。厳しいからこそ、人の優しさが目立つ。
「慣れていても、無理は良くないわ」
「……はい」
エルナの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します。騎士隊長のグラントです」
入ってきた男は、背が高く、日に焼けた顔に厳しさが滲んでいる。視線が鋭い。私を一瞥し、礼はしたが、警戒が隠しきれていない。
(歓迎されていないのね)
私は感じ取ったままに、笑った。
「お忙しいところありがとうございます。帳簿の件で、いくつか確認したいことがあります」
「……奥様が、帳簿を?」
彼の眉がわずかに動く。疑いの色。
「はい。領地の冬支度が間に合うかどうか、早急に判断する必要があります」
私は机の上に紙を広げ、昨夜から洗い出した項目を指さした。
「まず、薪の購入。例年の倍の金額が出ていますが、納品量が見合っていません。次に兵糧。購入先が毎回違う上、価格が一定ではない。そして、この“雑費”――支払いの印がありません」
グラントの目が細くなる。
「それは……これまで執事が管理しておりました」
「執事はどちらに?」
「療養中です」
療養。便利な言葉だ。私は頷き、次の紙を出す。
「では、倉庫の在庫を確認したいのです。今夜から吹雪が強まる予報だと聞きました。物資が不足しているなら、早めに手配しなければ」
「……倉庫は私が案内します。ただし、奥様に屋外の作業は――」
「必要なら行きます」
私が言い切ると、グラントの目にほんのわずかな驚きが浮かんだ。
その時、背後にいたサイラス様が淡々と口を挟む。
「グラント。案内しろ」
「……承知しました」
サイラス様は無表情だ。けれど、私の袖に触れた瞬間、心の声がいつものように溢れた。
『やめてくれ。屋外は寒い。風が強い。頬が赤くなる。いや可愛いけど。可愛いけど凍傷はダメだ。俺が抱えて運びたい。運んだら変態だと思われる。詰み。』
(また詰んでいる……)
私は扇で口元を隠し、笑いをこぼさないようにしながら立ち上がった。
◇◇◇
倉庫は屋敷の裏手にあった。雪を踏みしめる音がきゅっきゅっと鳴る。冷たい空気が肺を刺す。けれど、王都で味わった“冷たさ”とは違う。ここは自然が冷たいだけで、人の心は冷たくない。
扉を開けると、木箱が積まれ、麻袋が並んでいた。グラントが松明を掲げる。
「こちらが薪。こちらが兵糧。――奥様、足元にお気をつけを」
「ありがとうございます」
私は目を走らせ、在庫票と照らし合わせる。数が合わない。足りない。特に塩と小麦粉が少ない。冬の保存食に不可欠なのに。
「……減り方が不自然です。出庫記録は?」
「出庫は……執事が」
「療養中、でしたね」
私は息を吐き、冷たい指先を手袋の中で握る。
(盗まれている)
ここまで露骨なら、内部犯行の可能性が高い。けれど証拠が必要だ。私は現実的な解決策を先に考える。
「グラント。今夜からの吹雪で街道が閉ざされる前に、塩と小麦粉を追加で確保したいです。商人はどこから入りますか?」
「……西の街道です。ただし通行許可は辺境伯の印が必要」
「サイラス様にお願いします」
そう言った瞬間、背後で気配が揺れた。振り返ると、サイラス様がいつの間にか倉庫の入口に立っていた。雪を背負っていても、姿勢が崩れない。
「……必要量は」
「塩は現状の二倍、小麦粉は三倍。できれば乾燥豆も。冬の炊き出しを増やす前提で」
サイラス様が頷く。
「許可を出す」
『頼もしい。俺の嫁が頼もしい。俺の嫁、世界一。抱きしめたい。倉庫で抱きしめたら変態。ダメ。』
私は顔が熱くなるのを感じた。寒いのに。
◇◇◇
屋敷に戻ると、今度は厨房に向かった。
料理長のマルタは、腕を組んで私を見下ろしている。年配の女性で、顔に刻まれた皺が厳しい。
「奥様が厨房に来られるとは。王都の奥様方は、鍋の数すら知りませんでしたよ」
皮肉だ。試されている。
私はにこりと笑った。
「鍋の数は、炊き出しの回数に関わります。冬を越えるために必要な情報です」
「……炊き出し、ですか」
「はい。領民の様子はいかがです?」
マルタが一瞬だけ視線を逸らす。私は彼女の腕に触れた。すぐに心の声が聞こえる。
『この奥様、ただの飾りじゃない。……けど期待して裏切られたら、もう耐えられない。今まで何人も見てきた。』
(期待してしまうのが怖い、のね)
「マルタ。今夜から吹雪が強まるそうです。屋敷の備蓄が減っていることも分かりました。だから、炊き出しを“できる範囲で”増やしたい。あなたの知恵を貸してほしいのです」
「……知恵、ですか」
マルタの口元がわずかに緩んだ。
「乾燥豆なら腹が持ちます。塩があれば味もつく。パンより粥の方が量を増やせる」
「素晴らしい。では、その方向で手配します」
厨房の空気が少し変わる。私が命令しに来たのではなく、協力を求めに来たのだと伝わったのだろう。
その日の午後、私は執務室に籠り、帳簿の再編に取りかかった。
まず、収支を項目ごとに分け直す。税収、商取引、軍の支出、屋敷の維持費、領民救済費。曖昧な“雑費”を細分化し、印のない支出を赤で囲む。次に、倉庫の入出庫票を作り直し、責任者を明確にする。
エルナが筆記を手伝い、グラントが必要な証言を集め、マルタが厨房の在庫を報告する。私はそれらを繋げて、一本の線にする。
「……これで、穴の位置が見えました」
夕刻、サイラス様に報告書を渡した。彼は目を走らせ、無言でページをめくる。
「ここが、抜けている」
「はい。支払いの印がないのに、物だけが出ています。つまり、誰かが持ち出した」
サイラス様の青い瞳が、わずかに冷たく光った。
「……処理する」
『殺す? いや殺さない。法で処理だ。けど許せない。俺の領地を荒らし、彼女を不安にさせた。許せない。』
私は首を振った。
「処理の前に、証拠を確保しましょう。感情で動けば、相手は逃げます」
「……分かった」
サイラス様が頷いた瞬間、心の声が柔らかくなる。
『冷静なところも美しい。完璧だ。俺の嫁、完璧。俺は足を引っ張らないようにしないと。』
(足を引っ張っているのは、あなたの心の声の大きさです……)
私は赤くなった頬を隠して、最後の資料を揃えた。
◇◇◇
数日後。
倉庫の管理を変更し、入出庫の記録を厳格にした途端、妙な動きが出た。夜中に倉庫へ近づこうとする影。鍵の位置を探る視線。使用人の中に、落ち着かない者がいる。
私はサイラス様に相談し、グラントに密かに見張りをつけてもらった。
そして、吹雪の夜。
捕まったのは、執事の代理を務めていた男だった。名はロイ。彼は震えながら言い訳を並べた。
「ち、違う! 私は命令されただけで……!」
「誰に?」
グラントが詰め寄ると、ロイは唇を噛み、視線を彷徨わせた。
私は彼の腕に触れた。
『金が欲しかった。王都から話が来た。辺境伯家の金は眠っている。抜いてもバレないって。執事が倒れた隙に――』
(王都から……?)
胸がひやりと冷える。王都は、まだ私を手放していない。私がいなくなった穴を埋められず、こちらに手を伸ばしているのだ。
「ロイ。王都の誰から話が来たの?」
私が穏やかに聞くと、ロイの喉が鳴った。
『言ったら殺される。王太子の側近だ。あの貴族だ。』
私はサイラス様を見上げる。彼は無表情のまま、ロイに近づいた。
「……名を言え」
声は静かだった。静かすぎて、逆らえない。
ロイは震え、ついに口を割った。
「ベルトラン卿です……王太子殿下の側近、ベルトラン卿が……!」
その名を聞いた瞬間、私の背中に王都の空気が蘇る。あの男は、殿下の愚行を取り繕いながら、裏で甘い汁を吸うことに長けていた。
サイラス様の心の声が、氷柱のように鋭く鳴る。
『王都が手を出した。なら、戦だ。いや戦ではない。守るための準備だ。彼女を奪わせない。』
私は深く息を吐き、報告書を握りしめた。
領地は、少しずつ立ち直り始めている。使用人たちの目も変わってきた。領民への炊き出しも増やせた。私はここで、必要とされている。
だからこそ――王都は、私を取り戻そうとする。
その日の夜、屋敷の大広間で、ささやかな食事会が開かれた。マルタの作った温かい粥と、塩気の効いた保存肉。豪華ではない。けれど、皆の顔は明るかった。
「奥様のおかげで、今年は越冬できそうです」
「助かりました」
「ありがとうございます」
次々に頭を下げられ、私は慌てて手を振る。
「皆さんが頑張ってくださったからです。私は、整理しただけで……」
その時、隣に座るサイラス様の手が、そっと私の手に触れた。
『誇らしい。俺の妻が、皆に必要とされている。嬉しい。だけど怖い。奪われたくない。だから守る。守るために、もっと強くなる。』
私は小さく握り返した。
「大丈夫です」
口に出したのは、それだけ。でも心の中で続けた。
(あなたがいるから)
サイラス様は無表情のまま、ほんのわずかに指を絡めてきた。たったそれだけで、胸が熱くなる。
窓の外では吹雪が唸っていた。
けれどこの屋敷の中には、確かな温かさがあった。
ただ――遠く王都から、冷たい手が伸びてくる気配もまた、確かに感じていた。
次に届くのは、命令書か、それとも――。




