第2話「初夜よりも先に、手を温めて」
主寝室は、辺境伯家の威厳をそのまま形にしたような部屋だった。天蓋付きの寝台は大きく、床には厚い絨毯。窓は二重ガラスで、外の吹雪の音が遠い。暖炉には火が起こされ、赤い炎が揺れている。
それなのに、サイラス様が立つ場所だけ、薄い氷膜が張ったように空気が冷たい。
「……必要なものは揃えてある。困ったことがあれば侍女に言え」
淡々とした声。表情は一切動かない。けれど、私が彼の袖を掴む距離にいるだけで、心の声がこぼれ落ちてくる。
『初夜だ。初夜。どうする。どうすればいい。抱きしめたい。いや、怖がられたら死ぬ。俺が死ぬ。距離を取れ……いや距離を取ったら“嫌われた”と思われる。詰んだ。』
(詰んでいるのは、私ではなくあなたです……)
私は咳払いして、扇を口元に当てた。
「サイラス様。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……なんだ」
『質問きた! 誠実に答えろ俺! 変なこと言ったら終わる!』
「噂で、その……“冷酷で無慈悲”と伺っていました」
彼は一瞬も表情を変えない。ただ、ほんのわずかに視線を落とした。
「……そう言われることは多い」
『いや違う! 違うんだ! 怖がらせたくて怖がらせてるわけじゃない! 顔が動かないだけなんだ! あと手が冷たい! 冷たいのが悪い!』
(手が冷たいのが悪い……?)
突拍子もない言い訳のようでいて、妙に納得してしまう。私は一歩だけ距離を詰めた。
「でしたら、確認させてください」
「……好きにしろ」
彼が差し出した手は手袋に包まれている。私はそっと触れた。途端に、頭の中へ熱量が流れ込んだ。
『触れた。触れたあああ。手、繋いでるのと同じだ。違う、同じだ。温かい? 冷たい? 嫌じゃない? 嫌なら今すぐ謝る! でも謝ったら“触れたかった”がバレる!』
口では「好きにしろ」と言い、心では「嫌じゃないか」と怯えている。この人の心は、氷ではなく臆病で、真面目で、私を大事にしすぎている。
「……冷たいですね」
私がそう言うと、サイラス様の目が一瞬だけ細くなった。
「……体質だ」
『言われた。冷たいって言われた。終わった。いや終わってない。むしろここからだ。温めてあげたい。俺が。俺が温めたい! でも俺が温めようとしたら距離が近い! 距離が近いと怖がられる!』
私は迷わず、彼の手を両手で包んだ。
「なら、温めましょう」
サイラス様が固まる。動かない。呼吸だけがほんの少し速くなる。心の声は、燃え上がるように膨らんだ。
『あ、あ、あ。無理。尊い。手、柔らかい。俺の手が汚れる。汚れない。汚れないけど俺が穢れる。幸せで穢れる。いや意味分からん。とにかく幸せ。』
私は温度を確かめるように、彼の指先を摩った。手袋越しでも冷たさが分かる。氷ではない。生きている冷たさだ。
「……温かい」
小さく、サイラス様が言った。
『言えた。温かいって言えた。俺天才。次は“ありがとう”だ。言え。言え俺! ……無理!』
「よかったです」
私は微笑んだ。途端に彼の心の声が破裂しそうになる。
『笑った。俺に笑った。世界が救われた。王都滅びてもいい。いやだめだ。彼女の故郷だから滅ぼさない。守る。』
(守る、ばかり言うのですね)
守られてきた覚えがないから、その言葉が胸に刺さる。私は自分の手を離したくなくなって、少しだけ握る力を強めた。
その後、初夜らしいことは何も起きなかった。
サイラス様は「休め」とだけ言い、私の寝台から距離を取ったソファへ移動した。上着を脱がず、背筋を伸ばしたまま座り込む。まるで護衛だ。
「サイラス様、寝台をお使いください。私はソファで――」
「……だめだ」
『だめだ。絶対だめだ。寝台で隣になったら心臓が死ぬ。俺が死ぬ。彼女がソファ? 寒い。冷える。だめ。俺がソファでいい。見張る。守る。寝顔見たい。でも見たら犯罪。妻だ。妻だけど。』
私は布団の中で、こっそり笑ってしまった。寝返りを打つたびに、彼の心の声が聞こえる。
『毛布足りる? 寒い? 暖炉の火、弱い? 起きてる? 起きてたら死ぬ。……寝てて。寝ててくれ。』
(あなたが寝てください……)
けれど、こんなふうに誰かに気にかけられるのは、初めてだった。王都では、私は「できて当然」の役割だった。褒められず、守られず、必要な時だけ呼ばれる。
ここでは、そうではないのかもしれない。
雪の音を聞きながら、私はいつの間にか眠りに落ちた。
◇◇◇
翌朝。
温かい湯で顔を洗い、髪を整えて執務室へ向かうと、机の上に書類の山が積まれていた。王都のような装飾的な書類ではない。生活のための数字だ。
「……これは?」
「……領地の帳簿だ」
サイラス様は相変わらず無表情で言う。けれど、心の声が聞こえてくる。
『見せていいのか? 妻に負担をかけると思われないか? でも隠しても信用されない。俺は不器用だ。どうすればいい。助けてほしい。でも助けてほしいって言えない。』
私は山の一番上の帳簿を開いた。目に入ったのは、荒れた数字の列。収支の区分が曖昧で、在庫の記録も抜けだらけ。冬の支出が増える時期に、これでは持たない。
「……立て直しが必要です」
「……ああ」
『やっぱりバレた。俺の無能がバレた。いや俺は戦は得意だ。数字が苦手なだけだ。言い訳だ。言い訳だが本当だ。』
「無能ではありません」
私はページをめくりながら、言った。「これ、誰かが“分からないふり”をしている可能性もあります。故意の抜けが多い」
サイラス様の目が一瞬だけ動く。
「……気づくか」
『気づいた。さすが。嫁が天才。俺の嫁。俺の嫁って言いたい。言いたいけど顔が。』
「私に、できることがあります」
私は帳簿を閉じ、サイラス様を見た。「王都で、こういう仕事ばかりしていました。だから――任せてください」
サイラス様の心が、一瞬、静かになった。
次に聞こえたのは、叫びではなく、かすれた安堵だった。
『助かる。嬉しい。頼っていいんだ。頼っていいって、初めて思えた。』
「……無理はするな」
彼は短く言った。
『無理させたくない。でもやらせたくないわけじゃない。彼女が輝くなら見たい。見たい。ずっと。』
私は微笑んで頷いた。
「無理ではありません。私は“真面目だけが取り柄”ですから」
少しだけ皮肉を混ぜると、サイラス様はほんのわずかに目を細めた。
『その言い方、許せない。誰が言った。王太子か。ぶっ潰す。いや落ち着け。ここは執務室だ。』
私は机に向かい、まずは問題点を洗い出すことにした。
税収の内訳。倉庫の在庫。兵糧と薪の確保。街道の修繕。使用人の配置。冬の炊き出しの回数――やることは多い。でも、嫌ではない。
ここには「必要だから」だけではなく、「一緒にやろう」という空気がある。
エルナが筆記を手伝いに来て、騎士隊長らしき男が必要な情報を持ってくる。誰も私を笑わない。誰も「地味」と言わない。むしろ、真剣に聞いてくれる。
そして、背後からずっと聞こえるサイラス様の心の声。
『仕事してる顔も美しい……いやまだ早い。これは次の回だ。今は、俺は黙って見守る。見守るけど好き。好き。』
(……聞こえていますけど)
私は赤くなりそうな頬を扇で隠しながら、ペン先を走らせた。
窓の外は吹雪。
けれど私の中の氷は、少しずつ溶けていく気がした。
この人となら、寒さの中でも、温かく生きられるかもしれない。
そして――この領地の冬を越えた先に、きっともっと大きな嵐が待っている。
そんな予感だけが、遠くで鈴のように鳴っていた。




