第1話「婚約破棄と、氷の公爵」
「リリアナ・ベルンシュタイン! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
王城の広間に響いたその声で、舞踏会の音楽が断ち切られた。弦の余韻だけが、取り残されたように天井へ漂っていく。ざわめく貴族たちの視線が、刺さるほど痛い。
私はゆっくりとスカートの裾を整え、正しくカーテシーをした。
「……承知いたしました、殿下」
自分でも驚くほど声は平坦だった。泣いて縋るでもなく、抗議するでもなく。ただ、手順通りに受け取る。そう、これは「終わり」なのだから。
王太子アレクセイ殿下は、私の反応が気に入らないらしく鼻を鳴らした。そして隣に寄り添うピンク色の髪の少女――聖女ミナの腰を抱き寄せる。
「相変わらず可愛げのない女だ。地味で、飾り気もなく、会話もつまらない。俺の隣に立つ資格はない」
「アレクセイ様ぁ……そんなふうに言ったら、リリアナ様が可哀想ですぅ」
甘い声でそう言いながら、ミナは殿下の胸に顔を埋めた。その仕草は無垢で、だからこそ残酷だ。周囲からは同情に似た笑いが漏れる。誰もが、この場の勝者が誰か分かっている。
(可哀想、ですか)
その言葉は、私が何度も飲み込んできた屈辱と同じ味がした。
王妃教育。外交儀礼。失言の火消し。乱れた帳簿の修正。殿下の気まぐれで増えた支出の帳尻合わせ。私がやってきたのは、飾りではない。国が倒れないように支える、地味で、目立たない、骨組みの仕事だった。
「真実の愛を見つけた」と殿下は言うけれど――その愛が、どれほど責任を背負えるのか。私はもう、答えを知っていた。
国王陛下が重い沈黙を破り、口を開いた。
「……リリアナ。婚約破棄は、王太子の意思として認める。ただし、お前のこれまでの働きは国が預かっている。私としては、礼を言いたい」
陛下の声は疲れていた。止められないのだ。王太子の暴走も、宮廷の熱狂も。
「だが――新たな婚約先を用意した。北の辺境伯、サイラス・ヴァレンタイン公爵だ」
その名が落ちた瞬間、空気が凍る。
サイラス・ヴァレンタイン。
北の国境を守る武門の当主。冷酷無比、血も涙もないと噂され、『氷の公爵』と恐れられる男。雪のように白い髪、氷河のように冷たい眼差し。気に入らない者は一瞥で黙らせる、と。
「明日には発つように。……すまない」
すまない、と言われた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。怒りではない。むしろ、静かな軽さだ。
私はもう一度、礼をした。
「謹んで、お受けいたします」
ミナがぱっと顔を上げ、花が咲くように笑う。
「あらぁ、お似合いですわ! リリアナ様、よかったですねぇ。寒いところなら、お化粧もしなくて済みますもの」
悪意が、砂糖菓子のように溶けて広がる。
私は微笑み返した。宮廷で身につけた、誰にも拾われない笑み。
「お気遣い、ありがとうございます」
殿下は満足げに頷き、さも「整理がついた」と言わんばかりに手を振った。私の人生が、舞踏会の余興のように片づけられていく。
(やっと、終わった)
その終わりが、追放であろうと構わない。少なくとも、ここで私はもう、誰かの尻拭いをするために呼吸をする必要はないのだから。
◇◇◇
馬車に揺られること一週間。窓の外は白銀の世界になっていた。雪原に点々と黒い森が浮かび、風が吹けば粉雪が舞う。王都の華やかな喧騒が遠い夢のようだ。
辺境伯の屋敷は、噂通り堅牢で、城塞のようだった。黒い石壁に積もる雪が重い。門をくぐると、冷たい空気の中に薪の匂いが混じる。生きている匂いだ、と私は思った。
案内されたのは当主の執務室。重厚な扉が開いた瞬間、暖炉の火が見えるのに、肌がひやりとした。室温が低いのではない。そこにいる人が、空気を冷やしている――そんな錯覚。
「……来たか」
書類から顔を上げた男は、息を飲むほど整っていた。銀色の髪はさらりと肩に落ち、青い瞳は氷の底のように澄んでいる。眉も口元も、感情の痕跡がない。立ち姿だけで、刃のような威圧があった。
この人が、『氷の公爵』。
私は背筋を伸ばし、礼をする。
「初にお目にかかります。リリアナ・ベルンシュタインと申します。この度は、妻として迎え入れていただき――」
言葉の途中で、彼が立ち上がった。歩み寄ってくる。距離が縮まるたび、空気が薄くなる気がして、喉が乾いた。
そして、彼の手が私の肩に触れた。
次の瞬間――世界が反転した。
『うわあああああああ! 本物だ! 本物のリリアナ嬢だ! 来た! 来てくれた! 神様ありがとう!!』
(……え?)
口は動いていない。目の前のサイラス様は無表情のまま、ただ私を見下ろしている。けれど私の頭の中に、叫びが直接流れ込んでくる。
『可愛い! 可愛すぎる! 息が止まる! 肩に触ってる俺、今触ってる! 落ち着け! 落ち着け俺! 手袋、汗で湿ってないか!? いや、セーフ! セーフ!!』
(これは……)
胸がどくんと跳ねた。忘れていた感覚が、指先から蘇る。触れた相手の心の声が聞こえる――私が幼い頃から隠してきた、秘密の力。
でも、こんなに騒がしい人は初めてだ。
「……寒いだろう」
サイラス様は淡々と告げた。「部屋を移す」
『寒いのは俺の態度だろ! 違う! 本当は歓迎の花束も用意したかった! でも顔が動かない! 笑えない! くそ! せめて優しく! 優しくしろ俺!』
私は危うく声を漏らしそうになり、唇を噛んだ。
(噂と、全然違う……!)
怖い。けれど、それ以上に、可笑しい。そして――胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
彼の心は、氷ではない。むしろ熱でいっぱいだ。なのに、その熱を隠すために氷の仮面を被っている。
サイラス様は私の手を取り、無言で歩き出す。私はその背中を追いながら、聞こえてくる心の声に、眩暈がしそうだった。
『好きだ。ずっと好きだった。王太子ごときに渡したくなかった。俺の嫁に来てくれて……ありがとう』
(……どうしよう)
私はまだ、この人の名前以外ほとんど知らない。けれど、確実に分かってしまったことがある。
この結婚は、追放ではない。
私の人生を、根こそぎ変える始まりだ。
廊下の窓の向こう、雪は静かに降り続いていた。白い世界の中で、私の胸だけが不釣り合いに熱い。




