最終話 筆跡
そのノートを、
私は
ずっと
引き出しの奥に
しまっていた。
見るのが
怖かったわけじゃない。
触れれば、
また
分かってしまうからだ。
あの日、
警察署から戻った夜、
私は
事務所の灯りを
つけなかった。
暗いまま、
引き出しを開け、
ノートを取り出す。
表紙は、
相変わらず
無地だった。
ページを開く。
あの文字。
拒んだ線。
閉じた言葉。
『もしこれを
読んでいるなら、
もう戻らない』
私は、
そこに
新しい紙を
重ねた。
白紙。
ペンを持つ。
しばらく、
何も書けない。
私は、
これまで
数えきれない文字を
読んできた。
救われた人も、
救われなかった人も。
利用しようとする人間も、
疑う人間も。
それでも、
一つだけ
変わらなかったことがある。
文字は、
嘘をつかない。
だが、
真実を
語る義務も
ない。
私は、
ゆっくりと
書き始めた。
『これは
誰かに
渡すための
文字ではない』
線は、
震えた。
だが、
逃げていない。
『分かってしまうことは、
救うことじゃない』
戻りが入る。
迷いが、
混じる。
それでいい。
『それでも、
見落とさない』
私は、
最後の一行に
少しだけ
時間をかけた。
『戻ろうとする
線だけは』
書き終えた瞬間、
胸の奥が
静かになった。
この文字は、
拒んでいない。
誰かに
読まれなくてもいい。
だが、
完全には
閉じていない。
私は、
ノートを閉じた。
引き出しには
戻さなかった。
机の上に、
そのまま置く。
翌朝、
事務所の電話が
鳴った。
新しい依頼だ。
私は、
一度だけ
深呼吸をして、
受話器を取る。
真実を
暴くことは
しない。
犯人を
指さすことも
しない。
ただ、
文字が
向かおうとする先を、
見落とさない。
それが、
私の仕事だ。
机の上で、
ノートが
静かに
待っていた。
——筆跡は、
過去を語るものじゃない。
人が、
どこで
立ち止まり、
どこへ
戻ろうとしたか。
それだけを、
正直に
残すものだ。
ここまで読んでくださり、
本当にありがとうございます。
この物語は、
謎をすべて解くための話ではありません。
能力の正体も、
過去に何があったのかも、
はっきりとは書きませんでした。
それは、
現実の私たちが触れる「言葉」や「文字」も、
いつもそうだからです。
誰かの書いた一文を見て、
その人の気持ちを
本当に理解できたと言える瞬間は、
実はほとんどありません。
それでも、
線の揺れや、
書き直された跡や、
途中で止まった言葉に、
私たちは何かを感じ取ってしまう。
分かってしまうことと、
救うことは、
同じではない。
けれど、
見落とさないことはできる。
この物語の主人公は、
何かを解決するヒーローではありません。
ただ、
「戻ろうとする線」を
見逃さない人間です。
もし読み終えたあと、
誰かの文字や、
自分の書いた言葉を
少しだけ違う目で見てしまったなら。
それだけで、
この物語は
役目を果たしたのだと思います。
静かな時間を、
ここまで共有してくれて、
本当にありがとうございました。




