第二話 消えない線
その文字は、
消そうとして、
消えなかった。
依頼が終わっても、
頭の奥に残り続ける。
あの震え。
あの戻り。
途中で止まりかけた線。
私は、
自分の机に向かって
同じ言葉を書いてみた。
『探さないでください』
何度か書き直す。
ペンを変えても、
紙を変えても、
あの線にはならない。
当然だ。
私は、
追い詰められていない。
電話が鳴ったのは、
それから三日後だった。
「……見つかりました」
低い声だった。
依頼人だ。
「生きていました。
山の手前の、
昔の別荘に」
私は、
それ以上
聞かなかった。
「警察には?」
「……連れていかれました」
少し、間があった。
「事件性は、
なかったそうです」
私は、
息を吐いた。
あの筆跡は、
嘘をついていなかった。
「あなたの言った通り、
最後に会った人が……
その、
止めていたそうです」
声が、
かすかに揺れた。
感謝なのか、
困惑なのか、
分からない。
「ありがとうございました」
通話は、
それで切れた。
私は、
受話器を置いてから、
しばらく動かなかった。
これが、
私の仕事の終わり方だ。
拍手も、
逮捕もない。
ただ、
“最悪じゃなかった結果”だけが
残る。
午後、
新しい依頼が来た。
今度は、
警察経由だった。
正式な依頼ではない。
相談、
という形。
「遺書が、
本物かどうかを
見てほしい」
差し出されたのは、
封筒に入った
一通の手紙だった。
私は、
中を見ずに
聞いた。
「本人は?」
「死亡しています」
即答だった。
私は、
その瞬間、
少しだけ
躊躇した。
死んだ人間の文字は、
生きている人間より
静かだ。
そして、
逃げ場がない。
私は、
封筒を開いた。
便箋一枚。
万年筆。
整った字。
癖も、
感情も、
ほとんどない。
だが——
違和感は、
はっきりあった。
これは、
本人の文字だ。
間違いない。
だが、
“その時の文字”ではない。
私は、
視線を上げた。
「……これ、
最近書かれたものじゃ
ありません」
刑事が、
眉をひそめた。
「遺書ですよ?」
「数年前です」
私は、
断定した。
「少なくとも、
死ぬ直前じゃない」
文字が、
安定しすぎている。
迷いがない。
死を前にした人間の線は、
こんな形をしない。
刑事は、
少し考えてから
言った。
「それ、
証拠になりますか」
私は、
首を振った。
「なりません」
即答だった。
これを
どう説明すればいい。
“筆圧が違う”
“線の戻りがない”
“時間が違う”
どれも、
感覚の話になる。
私は、
そこで線を引いた。
「ただ、
この遺書は
“死ぬために書かれたもの”じゃ
ありません」
「じゃあ何だと」
「——保険です」
刑事の目が、
鋭くなった。
「この人は、
いつか死ぬことを
予想していました」
私は、
紙を指で押さえた。
「そして、
誰かに
利用されることも」
ここまでだ。
これ以上言えば、
私は疑われる。
刑事は、
黙って手紙を回収した。
「……分かりました」
納得は、
していない。
だが、
記憶には残る。
それでいい。
私は、
事務所に戻り、
灯りを落とした。
今日も、
犯人は捕まらない。
だが、
嘘は
一つ、剥がれた。
机の上に、
自分のメモ帳がある。
何気なく、
私は
自分の名前を書いた。
線は、
少しだけ
歪んでいた。
——気づいてしまった以上、
戻れない。
それが、
この仕事の
本当の代償だ。
第三話:書かれなかった言葉




