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アヴェ・マリアの余韻

作者: 橘 みとせ

「初めて見たとき、用務員の()()()()()かと思ったよ!」

高校に入学してまもなく、クラスメートが言った。

白髪の混じるショートカットのその先生は、生徒から恐れられている数学の、おばあちゃん先生だった。


高校は、明治時代に創立された歴史のある女子校で、友人の中には、お母さんやお姉さんも、同校の卒業生という人が少なくなかった。

そんななか、世代を超えて語り継がれるおばあちゃん先生の恐怖のエピソードは、枚挙にいとまがなかった。


入学して初回の授業では、クラスメートのひとりが、黒板の前に出てきて問題を解くよう言われた。

と、まだ数式も書き終わらないうちに先生がさえぎった。


「はぁ?」

「そうじゃないだろう!ばか!」

数学の、厚い教科書の背で彼女の頭をたたき、クラス中が息を呑んだ。


「おまえ!どこの中学だ?」

「○○中?なんだあそこは、バカばっかり送ってきて!」

わたしたちは震え上がり、数学の授業は恐怖の時間となった。


授業では、問題集の中の問題をひとつひとつ、名前の順に、黒板の前に出ていって解く、という形式だった。

皆それぞれ、自分が指される問題の順番をあらかじめ数えておき、恐怖の授業に備えた。

どこにでも必ず秀才はいるもので、クラスの数学博士に答えを写させてもらうのが常だったが、何かの拍子に予想した順番がひとつでもずれると、パニックを起こした。


先生は授業が始まるとまず、出席簿を見ながら、一人ひとりの名前を呼んで出席を取った。

老眼のためか、隣席のクラスメートの名前のフリガナを読み損ねて、濁点をつけずに呼んだ。

それでも卒業までの間、隣席の友人はじめ、クラスの誰ひとり、「名前の読み方が違います」とは言いだせなかった。


ところで、学期末の最後の授業では、どの教科の先生にも、授業をやめて、何か「お話」をしてくれるようお願いするのが通例だった。先生によっては、初恋の話をしてくれることもあり、それが大いに盛り上がった。


まさか、おばあちゃん先生が、生徒のそんなリクエストに応えてくれるとは思わなかったが、勇気あるクラスメートがおずおずと頼んでみると、意外にも授業を10分早く切り上げて、歌を歌ってくれるという。

歌は、『アヴェ・マリア』だった。


「あーべ、まりーあー」

歌い始めた先生の音程は外れていたし、震えるしゃがれ声だった。

それでも、見たことのない、やさしい笑顔だった。


聞いた話では、おばあちゃん先生は、戦争のただなかにも教鞭をとっておられ、教え子、つまり、わたしたちの先輩の多くが勤労動員されたという。

戦争反対の活動をされていたことは、友人のお母さんの代から知られていた。


わたしは、震え声の『アヴェ・マリア』を聞きながら、戦時中の先生や、学び舎に集うことなく勤労動員された先輩たちに思いを馳せた。


その歌はわたしの中に、やさしいような、かなしいような、

なにか、遠くから聞こえてくるような余韻を残した。

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