エピローグ
— 春、3年目の朝 —
春の風が吹いていた。
遼は、園庭の砂場にしゃがみこんで、子どもたちと一緒に山を作っていた。
頭には赤いバケツを逆さにかぶって、子どもたちの笑い声の中心にいる。
「せんせー、山くずれたー!」
「まだ火山噴火には早いだろ〜。もうちょい固めろ!」
そう笑いながらも、心のどこかで――春が来るたびに、あの人のことを思い出す。
橘さくら。
遼が大学4年の冬、人生で初めて“まっすぐ向き合った誰か”。
そして、春が来る前に、静かにこの世界から去ってしまったひと。
(もう3年、か……)
遼は立ち上がり、風に吹かれて舞う桜の花びらを見上げた。
そのときだった。ひとりの園児が、園の門のほうから駆け戻ってくる。
「せんせー!なんか、おとどけものでーす!」
「え?」
手にしていたのは、小さな白い封筒だった。
宛名は「花村 遼さま」と、懐かしい丸い文字で書かれている。
差出人は――「橘さくら」。
思わず、遼の手が震えた。
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第1話 — 春になったら開けてね —
保育園の昼休み。
遼は園庭の隅、桜の木の下でひとり封筒を開けた。
中には、便箋が一枚。そして、小さなメモが添えられていた。
【この手紙は、遼くんが卒業して、春を迎えたら開けてください】
遼は、深呼吸をして便箋を開いた。
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遼くんへ
春、おめでとう。
卒業して、保育士としてちゃんと歩き出した頃かな。
私がこの手紙を読んでる遼くんを想像すると、たぶんちょっと猫背で、でも顔は前よりずっと明るくなってると思う。
あのとき言えなかったこと、いくつかあるの。
まず一つ目。
遼くんの卒業式、本当は見に行くつもりだったんだよ。
でも、それより少し早く、私は旅に出ることになっちゃった。
だからごめん。代わりにこの手紙で「卒業おめでとう」を言わせてください。
そして、二つ目。
“ラッキーフラワー”は、本当は毎日、遼くんのことを考えて選んでたんだよ。
元気そうなときは明るい花、疲れてそうなときは癒やす花。
だから、“たまたま”とか思わないでね。毎朝、ちゃんと観察してたんだから。笑
遼くんが誰かの未来に光を灯せる人になりますように。
子どもたちに、花の名前と花言葉を教えてあげてね。
きっと、心が強くなるから。
春風が吹くたびに、私はあなたのそばにいると思ってください。
じゃあ、また別の手紙で。
――橘さくらより
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遼は、風にゆれる桜の花びらを見つめながら、便箋をそっと胸に抱いた。
誰もいない昼下がりの園庭。
小さな声で、遼は言った。
「……来てたんだな、お前」
第2話 — 花言葉のカレンダー —
翌朝、保育園の職員室に、小さなカレンダーが吊るされた。
遼が自分で作った、手書きの「今日のラッキーフラワー日めくり」。
色鉛筆で描いた拙い花の絵と、下にはやさしい花言葉。
今朝の花は「スイセン」だった。
スイセン:『自分を信じて進もう』
「せんせー、これ、なあに?」
「ラッキーフラワー。今日の気分をお花が教えてくれるんだよ」
「おはながしゃべるの!?」
「うん。心の中でね」
子どもたちは面白がって、日替わりの花に目を輝かせた。
その反応を見ながら、遼は心の中でそっとつぶやく。
(ありがとな、さくら。お前の“魔法”、俺がちゃんと使ってるよ)
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その週の金曜日。
遼はふとした拍子に、白い封筒がまだ一通、未開封であることを思い出した。
書かれているのはこうだ。
【遼くんが夢に向かって歩き始めたら開けてください】
(夢か……)
今、自分は夢に向かっているのか。
さくらが見ていた未来を、ちゃんと自分は生きているのか。
それでも、保育園の小さな子どもたちの笑顔を思い出したとき、迷いは自然とほどけた。
(うん、歩いてる。まだ途中だけど)
遼は、封を切った。
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遼くんへ(その2)
夢って、なんだろうね。
最初から明確に見えてる人もいるし、気づかないまま目の前にあることもある。
でも、私は思うの。
夢って、「誰かに届けたい」って思えるものなんじゃないかな。
遼くんが保育士を目指すって言ってくれたとき、私、正直びっくりした。
でも、あのときの目……すごく真剣だった。
“もう一回、やり直してみたい”って言った遼くんの背中、今でも覚えてる。
だからね、もしこの手紙を読んでるってことは――
あなたはもう、「誰かに届ける人生」を歩き始めてるってことなんだと思います。
私、うれしいよ。
遼くんがつまずいたら、思い出して。
今日のラッキーフラワー。
それは、いつだってあなたを励ましてくれる。
あのとき、そうやって私も救われてきたから。
――またね。もうすぐ、最後の手紙です。
橘さくら
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便箋をたたんだ遼は、保育園の小さな畑に向かって歩いた。
そこには、ある一角にまだ手つかずの土が残っている。
遼はポケットから、小さな包みを取り出した。
「サクラソウの種」――さくらが残した最後の贈り物。
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「さて……咲いてくれるかな」
空を見上げると、桜の花がそっと舞い落ちた。
最終話 — サクラソウが咲くころに —
春が終わり、梅雨が過ぎ、夏が終わって、また秋が来た。
保育園の隅にある小さな畑。
その一角で、今年最初のサクラソウが静かに花を開いた。
「咲いたんだな」
遼は、しゃがみこんでその花をじっと見つめた。
その薄紅の小さな花びらは、まるで“さくら”という名前そのものだった。
サクラソウの隣には、いつの間にか咲き終わったヒマワリやマリーゴールド。
子どもたちと一緒に植えた「ラッキーフラワーたち」の跡が残っている。
「せんせー、このお花、だれが植えたの?」
小さな女の子が聞く。
遼は、少しだけ笑って答えた。
「大切な友だちが、残してくれたんだ」
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その夜、遼は最後の一通の手紙を手にした。
白い封筒には、こう書かれていた。
【遼くんが、誰かを好きになれたら、開けてください】
“恋”の意味だけではない。
“誰かを心から大切に思う”――そんな感情を知ったときに開く手紙。
遼は思う。
あのとき助けた園児、泣いてる子を抱きしめた保護者の顔、花に向かって笑った子どもたちの声。
「好き」って、たぶん、こういうことなんだ。
遼は、そっと封を切った。
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遼くんへ(最後の手紙)
この手紙を読んでいるということは――
遼くんは、また誰かを大切に思えるようになったってこと。
それは、すごくすごく、嬉しいことです。
私はね、最後の最後まで、自分が“生きた意味”ってなんだったのかなって考えてた。
でもね、遼くんに出会えて、笑ってくれて、「助けてくれた」って言ってくれて、私はようやく、少し自分を許せた気がします。
だから、もしこれからの人生で辛いことがあっても――
遼くんが、誰かに花を渡すように生きていけたら、それだけでいいんです。
ラッキーフラワーは、偶然じゃない。
その日に咲いていた、その人の心に咲いた花なんです。
最後に、私から遼くんへ。
あなたは、私の人生で出会った中で、一番のラッキーフラワーでした。
ありがとう。
いつまでも、咲いていてください。
――橘さくらより
⸻
遼は、便箋を胸にしまい、空を見上げた。
夜空には星が瞬き、風の中に、春と秋のあいだのような、優しい香りが混じっていた。
「ありがとう。俺も、誰かのラッキーフラワーになれるように、生きていくよ」
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数日後。
園児たちが描いた「今日のラッキーフラワー」に、サクラソウの絵が貼られていた。
その下に、ひとりの子が書いた文字。
「きぼう、ってかいてあったよ」
その花は、小さな命に、確かに受け継がれていた。




