第6章 カスミソウの未来
冬の大学は、空気がぴんと張り詰めている。
いつもはサボっていた教室の席に、遼はきちんと座っていた。前の方、教授の目が届く位置に。ノートも、筆記用具も、資料もすべて揃っている。
変わった。
周囲はそう言った。本人も、それを少しだけ実感していた。
(さくらのおかげだよな……)
ポケットには、あの日もらった「スズランのしおり」が入っている。くしゃくしゃになって、もう文字も薄れていたけれど、それは今でも遼の“ラッキーフラワー”だった。
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夕方、病院に寄るのが習慣になっていた。
さくらの容態は安定していた。だが、「良くなる」というよりは、「静かに時間が進んでいる」といった感じだった。
「今日のラッキーフラワー、知りたい?」
「うん。教えて」
「カスミソウ。花言葉は、“感謝”と“幸福”」
さくらは、痩せた手でそっと笑う。遼はその手を握った。
「……ねえ、遼くん。もし、私がいなくなったら」
「やめろ」
「うん、ごめん。でも、ちゃんと話しておきたいの」
少しの沈黙のあと、さくらは続けた。
「私ね、最初から全部は言わなかったけど……春まで、持たないかもしれないって言われてるの。でも、遼くんと過ごしたこの冬は、すごくあったかかった。今まででいちばん、幸せだった」
「……バカ。春に、卒業式に、来るんだろ?」
「うん。行くよ。花、いっぱい持っていくから」
嘘でもいい。たとえ奇跡が起こらなくても、彼女がそう言ってくれるだけで、遼は前を向けた。
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年が明けて、遼は教育実習に入った。
子どもたちと向き合う日々は忙しく、体力も精神も削られる。けれど、不思議と苦ではなかった。
(あいつが見たかった景色を、ちゃんと俺が見る。全部、つなぐ)
時折、遼は教室の窓辺で空を見上げた。
あのとき、さくらが見ていた空を、同じように見たかった。
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そして3月。
卒業式の日、大学のキャンパスには春の風が吹いていた。
遼はスーツ姿で、手に大きなカスミソウの花束を抱えていた。
スマホの通知は、静かだった。
──さくらは、もう、いなかった。
でも。
遼は、空を見上げて、そっと笑った。
「なあ、さくら。今日のラッキーフラワー、わかるか?」
彼は、ポケットから小さなメモを取り出した。そこには、彼女が最後に残した“花リスト”が書かれていた。
「3月25日:カスミソウ。“感謝”。今日も、ありがとう」




